第24話 総務部勤怠管理課

 総務部勤怠管理課は巨大な冷蔵庫です。

 社内の監視だけでなく、営業、出張など社外で活動している社員の動向についても逐一追跡し、業務内容、業務姿勢、クライアントの感情変動などを収拾し、社員の勤怠情報として蓄積していくシステムなのです。

 勤務時間中にプライバシーは存在しない。というのが、この課のモットーです。それは私たち社員の骨の髄にまで叩き込まれた勤労姿勢その一、といえます。いかにも窮屈そうに感じられるかもしれませんが、ふつうに仕事をしていさえすれば、このシステムの存在を意識する事はほとんどないのです。なので、雑談の兆しが見えただけで、非常ブザーが鳴り響き、風紀委員じみた腕章を付けた制服の男達がどこからともなく現れるという、近未来SF的設定を思い浮かべられ、人権無視のファシズムだ!と弾劾なさらないように、願います。

 仕事中は仕事をするのです。しかし、仕事のための潤滑油となる雑談や軽口、冗談を規制するものではないのです。つまりは、能率の極端な低下や、業務妨害に対して、これを権力的かつ威圧的に隠蔽せんとする、ひらたくいえばセクハラ、パラハラみたいな物を白日のもとに晒し、相応の評価を与えるための材料として、情報収拾を行う、いわば影のセクションというわけです。

 かくいう私は、5年間の勤務経験の中で、このアルミニウムの扉の奥へ呼び出されたことなど、一度もなかったのです。

 遅刻には相応の理由があるのです。ですが、遅刻の理油は遅刻した側の理由でしかなく、遅刻された側がそれを理由だと見なしてくれるかどうかは、別の話です。その上、私はそんな手前勝手な理由ですら、満足に説明しえないのです。ああ。どう考えても絶望的です。私の昨夜からこれまでの経験を第三者に説明し、理解してもらうことなど不可能です。しかも、当面このことを主張しなければならない相手が、この、コンピュータシステムでは……

 一気に体が冷えてきます。ロッカーから防寒具を取り出して身につけました。今、着ている背広は、既製服程度には着こなせていたと思うのですが、やはり、奪い取った物だという後ろめたさがあったので、これはありがたかったのです。そればかりか、衿のボアが、この呪われた白い顔まで隠してくれたのです。ですが、それが何になるでしょう。相手はこの……


 指紋と網膜パターンの照合を終え、私は一枚目の扉を通過しました。次はとても狭い、ステンレス張りの小部屋です。ここでは音声認識を求められました。私のパスワードは「ヒナゲシ。カサブランカ。ゴルゴダ」と言うのです。これらは、入社時にランダムに選ばれたパスワードなので、私の趣味ではありません。

 私は私自身なので、当然、これらの照合にはクリアしましたが、この当然の事が、私には意外でした。外観がいかにへんてこになっても、総務部勤怠管理課では、私は今までと変わることのない「或日野文之」なのです。

 考えてみれば、全体性とか人格とか、そういったもので他人を区別するということほど曖昧なことはないのです。私自身、昨夜来の経験と、外観の変貌のせいで、「私は誰なんだ?」という、一種の精神的錯乱に落ちかかっていたのです。ですが、各パーツはすっかり私のままなのです。私には自信が溢れてきました。このスーパーコンピューターが、私を認めてくれたのです。

 内部にはもう一つのアルミ扉があります。スピーカーから女性の合成音が響きます。

「社員証を挿入してください」

 カウンターに設置されているセクレタリーの声です。本来は、コンピュータ端末があれば事が足りるのですが、それは余りに味気ない、まるで自動金貸機みたいだ、という上層部の配慮から、人間の女性型の窓口担当が設置されているのだという話は、聞いたことがありました。

 機械相手に、ファジーな言い訳の入り込む余地はありません。Yes or Noなのです。私は、社員証を紛失しておりましたので、はっきりと「無い」と言いました。それでも扉は、音もなく開きました。


 内部は巨大なホールでした。何も無い巨大な冷蔵倉庫のようでした。何故これほどの空間が必要なのか検討もつきません。コンピュータなど、影も形も見えません。ただ中央にロの字型のカウンターがあり、その一辺の真ん中に、さきほどの声の主と思われるセクレタリーが無表情に座っていたのです。

 が、しかし私はその顔を見て唖然としました。

 セクレタリーは、いくらか表情が固い事と、瞳にLEDが仕込まれている事に目をつぶって、カウンター越しに要件を済ませるだけであれば、まあ、違和感なくやり取りができる程度のレベルの造型なのだろうと、私は高をくくっていました。(カウンターに隠れた下半身は、各種のデバイスやコードの束になっているらしいのですが)

 過去に呼び出された社員達が、機械による、あまりにも機械的な対応(当たり前です)が、権威的かつ威圧的すぎ、ほとんどパワハラだという意見書を提示し、それが受け入れられて、このタイプの受付嬢が開発されたわけです。

 社員証の紛失、勤怠カードの記載ミス、有給願い却下の対する不服申し渡しなどで、ここを訪れる社員達はみな、精神的に不安定になっています。そのような不安定なパルスは、システムによるスキャンの妨げになるのです。だから、受付嬢の顔はいつも朗らかで、それでいて夕食を誘うのは憚られる程度の節度を保ったものとなっているのだそうですが、彼女はどう見ても、地媚真巳瑠だったのです。何故この事が噂にならなかったのか不思議なくらいです。

 私はどぎまぎしながら、彼女を見つめました。LEDを埋め込まれたガラスの瞳は無感動に、ぽかんと私の方にむけられていました。

「何か、問題ある?」と私はカウンターに肱をついて、動揺を見破られないように、彼女を見据えました。そうです。それは地媚さんに似ているとはいえ、彼女自身ではありえないのです。もしかしたら、出頭した社員がもっとも気を許してしまう異性に擬態する機能を、備えているのかもしれません。

「身元照会中です。もうしばらくそのままでお待ちください」

 彼女の瞳から発する赤い光が、私の輪郭を正確になぞっていきます。よく分かりませんが、身体的特徴や、歯の治療跡、大きな手術跡などをスキャンしているのでしょう。病院のカルテも、結局こうやって方々で検索利用されるわけです。

 それにしても、地媚さん(型端末)の注視を浴びて、私は、心地よい恥ずかしさに震えていました。

「あなたが或日野文之である可能性は、94%です。本人とみなします」

 サーチの後、彼女は厳かに、そう言い放ちました。この無機的な言葉が、私のこれまでの甘美な空想を粉々してしまったのです。

「ちょっと待ってくださいよ。どうして100%じゃないんですか。どこが一致しないんです?」

「詳細検索は認められていません。或日野さん。これがあなたのタイムカードです。即刻打刻し、業務に付いてください。なお、社員証を紛失なさっているのなら、再発行請求をしてください」

 戻ってきた自信は消え去りました。94%とは。あとの6%は、私が私ではないかもしれない可能性があるのです。この白い肌なのか、毛のない体なのか。それとも他人の服を来ているせいなのか。いやそんなことはない。あくまでも本人照会はそんな取り替え可能な外皮でなされるものではないはずです。内臓でしょうか。内臓になにか変更があったのでしょうか。

 地媚さん(型端末)は、静止したままです。私は、社員証のことを考えました。私が拉致された時、もし拉致犯人が、わざわざ私の社員証を、取り外していなかったのだとすれば、それ以降の私の言動は全て、業務中の外出として記録が残っている筈なのです。

 私は両手をこすりあわせて、もっと冷静になろうとしました。

 さて、今、私の手に社員証はありません。では、どこにあるのでしょうか?

 私がこの会社の社員であり、きちんと勤労している市民である証となる、あの輝かしい証明は、一体何処に… 冷えきった頭の、芯だけがぼんやりと熱い私の思考は、さらに冴え始めました。

 社員証の在り処は、現在もサポートされ続けているはずでした。なぜならば、私は昨夜、退社を打刻していないからです。つまり、継続業務中の扱いになっているはずなのです。となると、遅刻など、そもそも成立しないのです。超過労働に対する、違法残業の疑いをかけられこそすれ、なんで、遅刻が成り立つものですか!

 しかし、あの非情放送では、私が、今朝の打刻をしていないという事実に基づいた作動でした。となると、誰かが私に成り代わって、昨夜の退社を打刻し、さらに、今朝、入館の際に受付口へ社員証を提示していたという事になるのです。

 そこが最も重要な点なのだと、私は頭をぶんぶんと回しました。

 順序が逆なのです。今朝の非情放送は、誰かが私の社員証を使用してこの会社へ入ったと事実を表し、その何者かは、各部課に備えつけられている打刻器の存在を知らなかったか、または敢えて無視したのだと考えられます。

 では、私の社員証を無断で使用できるのは誰か?

 それは、私が瑞名君のお茶を飲み、額に衝撃を受けて昏倒してから、トランクに放り込まれる前までの期間に私に関わった誰かで、しかも同じ社の人間では無い者です。なぜなら、社の人間ならば、この会社へ出るのも入るのも自分のタイムカードを使用しなければならないからです。同じ人間が、自分のと私のと二回打刻すればいいと、社外の方はお考えになるかもしれませんが、そんな、大学の大教室での授業でよく見受けられる代理返答のような、初歩的な誤魔化しが通用するはずはないのです。

 タイムカードには特殊なフィルムが貼ってあり、カードを持った人間の指紋を採取し、打刻と同時にその指紋が照合されます。ですから、私と同じ指紋を持った人間が使用するのでないかぎり、タイムカードに出退時刻は打刻されないのです。

 誰かが、どこかに落ちていた私の社員証を、悪戯のつもりで使ってみた。と考えるには、あまりにも手間がかかりすぎていました。社外の人が社員証をみたとしても、それが社員証であることはおろか、何かの証明書類だと認識できるとは思われません。こんな透明な付け爪を拾ったところで、ゴミかと思って捨ててしまうことでしょう。我々はこれを、いつも薬指の爪に付けているのです。栄養不良の爪の筋のようにバーコードが刻んであり、先端のごく僅かな部分に、複雑に切り欠けがあるのです。

 この透明な付け爪に、発振器や受像機などなどがつまっているというのですから、驚きます。ナノテクノロジーの賜物です。

 一時は、悪魔の刻印そのものだといって、非難運動すらあったと聞きます。30年くらい昔の事だそうです。あ、でもそんな市民運動の話は今は関係が無いのでした。とにかく、見た目はただの爪なのですから、事情を知らない者にはただのゴミにしか見えない、というより、そもそも見えもしない代物なのです。

 最も、有力なのはやはり運転手でしょうか。彼は、ここの地下駐車場に入ってきたのです。もちろん、来客用スペースになら、証明が無くても入れますが、非情放送の時刻から考えても、辻褄があうのです。別の誰かが社員証を手に、同時間に会社へ進入しくるとは思えません。

 となれば、昨夜の勤怠記録は、運転手の行動記録になっているはずです。もし、運転手があの人間弾丸で、平喇香鳴さんの顔を盗んだ犯人なのだとしたら、その様子は克明に記録されている筈です。あの物置での会話も残っているかもしれません。


 私は、重要な手がかりの手がかりを掴んだと、思いました。この調子で、私は尚も推理を重ねようとしたのですが、突如として、地媚さん(型端末)が唸り始め、思考の糸が断たれてしまったのです。

 彼女は、はっきりと私を見ていました。両方の瞳のLEDが明滅し、合成音とは思えないほど感情豊かな声で、私に呼びかけました。

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