第10話『やがて黒になる』
綾奈先輩は小宮先輩のことを押しのけて、私の手をぎゅっと掴む。
先輩の怒った顔を見るのは初めてだ。瞳が赤くなっているので、かなりの怒りを抱いていると分かる。あと、普段よりも息が荒い。
「私と何があったのか聞きたいなら、私に直接訊けばいいじゃないか。君は私のファンクラブの会長なんだからさ。普通に訊けばそれなりには答えるよ?」
「そ、それは……」
怒っている綾奈先輩に恐れているのか、小宮先輩はさっきの私のように脚をガクガク震わせている。
「きっと、今週になってから、私と一緒にいるようになった百合を見て嫉妬したんだろう。幼なじみの愛花ならまだしも百合なんて……とか思ってさ。そう思うなとは言わない。だけど、今みたいなことは絶対にしないで。もし、今後……百合を傷つけたり、恐がらせたりするようなことをしたら、ファンクラブは解散させるからね」
「……ごめんなさああい!」
小宮先輩は涙を流しながらそう叫ぶと、私達の元から走り去ってしまった。綾奈先輩本人が止めてと言ったんだし、これで一件落着かな?
「綾奈先輩、助けていただいてありがとうございました」
「……いいんだよ」
そう言うと、綾奈先輩は私のことをぎゅっと抱きしめ、
「百合が無事で本当に良かった……」
私の頭を優しく撫でてくれる。
綾奈先輩に抱きしめられるのはこれが初めてだ。温かくて、いい匂いがして。あと、胸が大きいからか柔らかい感触もあって。さっきまでの恐さがあっという間に消えていく。その代わりに、心地よいドキドキが全身に伝わっていって。
「ねえ、百合。もうちょっとこうしていてもいい?」
「もちろんですよ」
「……ありがとう。きっと、今も瞳が赤いんだろうね」
「ええ、綺麗に赤くなってます」
「やっぱり。特に怒りが原因で瞳が赤いときは、こうして親しい女性の分泌液を接種すると落ち着くことができて、黒い瞳に戻るんだ」
「ぶ、分泌液!」
そう言われると何だかいかがわしい感じがする。女性の性欲を引き出すサキュバス体質を持っているからかな。
「分泌液って言うと分かりにくいか。唾液や汗とかのことだよ。キスしたり、舐めたりすれば確実だけれど、こうして抱きしめて、蒸発した汗を鼻で吸う形でもいいんだ。百合の匂いは私好みだし効果がかなりありそう」
「そ、そうですか」
先輩の口からキスとか、舐めるとか言われると凄くドキドキするよ。あと、蒸発した汗を吸われたり、匂いを嗅がれたりしていると思うと恥ずかしい。今みたいなことを会長さんにもしたことがあるんだろうな。
「いい抱き心地だよ、百合」
「そうですか。……綾奈先輩、さっきは助けていただいてありがとうございました」
「いいんだよ。ただ、コソコソしている小宮先輩を見つけてね。それで後を付けたら百合が壁に追い詰められているところを見たんだよ。実は彼女、私が1年生のときに告白してきてさ。そのときは丁重に断ったんだけれどね」
小宮先輩、告白して振られた経験があるのか。それじゃあ、私に対して怒った様子を見せるのは当然のことなのかも。
「小宮先輩からファンクラブを設立したことを言われてね。そんな彼女が会長だからか、会員は私にフラれた生徒が中心で。この体質のこともあってか、熱狂的な会員も多いって話は愛花や黒瀬先輩から聞いていたよ」
「さっきのことがあったのでその話も頷けますね」
「そっか。会長に対してああ言ったから、百合が恐い想いをすることはきっとないと思うよ。ただ、何かあったら言ってきてね」
「はい」
抱きしめられていることもあってか、綾奈先輩が守ってくれていると強く感じて。少しじゃなくて、ずっとこのままでいたいくらい。
「綾奈先輩。助けてくれたお礼がしたいんですけど」
「えっ? 気持ちを落ち着かせるために、こうして抱きしめさせてくれているだけで十分なんだけれどな。でも、百合の気持ちはしっかりと受け止めたいし……」
そうだな……と綾奈先輩は優しい笑みを浮かべながら、どんなお礼をしてもらおうか考えているようだ。あと、気持ちが落ち着いたのか瞳の色が黒に戻っていた。
「じゃあ、明日の土曜日は私のために時間を使ってほしいな。……デートしてくれる?」
「デ、デートですか!」
思わず大きな声が出てしまった。
てっきり、お菓子を買うとか、喫茶ラブソティーでご飯を食べるとかそういうことだと思っていたのに、まさかデートだなんて。
「うん。天気予報が変わって、明日は雨が降らないみたいし。花宮駅から電車で20分くらい乗ったところに植物園があるんだよ」
「もしかして、多摩植物園のことですか?」
「うん、そこそこ。行ったことあるの?」
「ないんですが、夏休みになったら行ってみたいなと思って近くの植物園を調べたら、多摩植物園がこの近くだとオススメみたいで」
「そうなんだ。じゃあ、明日……植物園デートしよっか」
「はい!」
綾奈先輩とデートできるときが来るなんて。本当に夢のようだ。先輩に好意を抱いてからこんなにも順調だと、いつか何か重大なことが起こりそうで怖いけれど。それでも、先輩と一緒にいられる時間を大いに楽しみたい。
「……あっ、急がないとバイトの時間に間に合わない。待ち合わせ場所とかは夜になったら、電話やメッセージをして決めることにしよう」
「分かりました。バイト、頑張ってください」
「ありがとう。あと、百合のおかげで気持ちも落ち着いたよ」
「良かったです。瞳も黒く戻ってます」
「そっか。じゃあ、百合も部活頑張ってね」
そう言うと、綾奈先輩は私の元から走り去っていった。その姿はとても美しい。
さっきまで綾奈先輩に抱きしめられていたからか、急に現実に戻ったような気がして。先輩の温もりや匂いは私の体から離れていって。そのことが寂しかったけど、明日デートするのでそんな想いもすぐに消えていった。
「私も部活に行かなきゃ」
今のことで随分が経っちゃったし。近くに先生もいないので、急いで園芸部の部室へと向かう。
「ごめんなさい、遅くなりました」
園芸部の部室に入ると、若菜部長、莉緒先輩、由佳先生が既に来ていた。
「もう、百合ちゃん。終礼は結構前に終わっていたのに、どこに行っていたの?」
「そういう日もありますって、由佳先生。ただ、今度から遅くなりそうだったら連絡するようにしようね、百合ちゃん」
「分かりました。今後気を付けます」
綾奈先輩と別れた直後にメッセージを入れておけば良かったな。
「何だか嬉しそうに見えるけど、白百合ちゃん。それが遅れた理由に絡んでいると思うんだけどな、あたしは」
「そうです、莉緒先輩。実は色々とありまして」
綾奈先輩ファンクラブ会長の小宮先輩に尋問されそうになったこと。そんな私のことを綾奈先輩が助けてくれたことについて簡単に話した。サキュバス体質が理由で、気持ちを落ち着かせるために抱かれたことは除いて。
「なるほど。それじゃあ遅れても仕方ないね。さっきは怒ってごめんなさい」
「いえいえ、一言も連絡を入れなかった私も悪かったんですから」
「若菜ちゃんの言うように、今度から連絡を入れるようにしようね。あと、神崎さんのファンクラブは先生も知ってるよ。女性の教職員も何人か入会しているよ。確か、他には生徒会長の有栖川さんとうちのクラスの美琴ちゃんにもあったよね」
「ええ」
教職員が生徒の公認ファンクラブに入会していいのだろうか。
「しかし、あの神崎さんが有栖川さん以外の子と一緒にいるなんて。彼女以外の家に行ったって話を聞くのは初めてだよ。白百合ちゃんのことを気に入っているんだろうね」
「珍しいからこそ、小宮さんっていう子は百合ちゃんに強く嫉妬したのかも。でも、百合ちゃんは百合ちゃんらしく神崎さんに接しているだけなんだから、気にしないでいいと思うよ」
「……はい」
綾奈先輩が解散という言葉を使って警告してくれたので、きっとファンクラブの会員から嫌なことをされることはないだろう。
「でも、教え子の恋が順調で担任として嬉しい限りだよ。頑張ってね、百合ちゃん」
「ありがとうございます。明日はデートなので楽しんできます」
「……月曜日の白百合ちゃんが嘘みたいだね。たった1人の園芸部の可愛い後輩が離れていくような気がして寂しいよ。あたしや若菜先輩が一番、百合ちゃんに関わりのある先輩だと思ったのにな」
「綾奈先輩とどんな関係になっても、園芸部は辞めませんって」
あの白百合の花が好きだって綾奈先輩も言ってくれたし。あと、莉緒先輩も美琴ちゃんも、綾奈先輩と距離を縮めていくことで、私が離れちゃうと思っているのかな。
「百合ちゃんの素敵な恋の話はここら辺で一旦終わりにして、今日もそれぞれが担当している花壇や畑の様子を確認しましょう」
「先生も見回るよ」
今日も雨の降る中で園芸部の活動が行なわれた。
私も綾奈先輩も大好きな白百合の花は雨に当たりながらも美しく咲いており、独特の香りが感じられる。
4日前にここで綾奈先輩と出会って、恋が始まったんだよね。あれから想像以上に彼女と関わるようになって。簡単じゃないかもしれないけれど、綾奈先輩と「恋人」という関係まで進んでいきたい。まずは明日のデートで先輩と楽しい時間を過ごそう。
「頑張るね。見守ってね」
白百合の花にそんな言葉を掛けて、私は校舎の方に向かって歩くのであった。
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