第7話

 着物の少女の手によって作られた太陽と月が幾ら巡ったか分からない。白衣の男が言う通り、着物の少女はあの絢爛豪華な穴蔵から出てくる事はなかった。

 太陽と月の循環を10ほど数えたところで少年は数えるのを止め、今は白衣の男に教えて貰って、着物の少女の言う通り鶏の世話をしていた。

 初めは鳴き声は五月蝿いし臭いに慣れなかったが、徐々に愛着が湧いてきていた。それと同時に鶏達を食べる事に別の意味で抵抗を覚え始めていた。

 屠殺はまだ白衣の男がやってくれているが、追々少年にやらせるつもりらしい。少年は正直この小さな命を手に掛ける事など出来そうに無かったが、白衣の男は珍しく目上の者らしい、諭す口調で少年に話しかける。

「君は今まで人工的な食べ物しか口にしてこなかったから分からないかも知れないが、僕達は本来生きていく上で何かの命の上で成り立っていると言っても過言ではないんだよ。それは命の連鎖と言ってね、僕達はそれに感謝して自分の様々な情報を未来へ繋いでいくのさ。君のお兄さんの意思を君が引き継ぐようにね。そう思っているよ、僕はね。」

 少年にとって今までは、喪失感のある命は兄貴しかいなかった。しかし今はこの五月蝿い鶏達にも愛着が湧いてきている。これが少し前の少年だったら考えられない事だった。命の重み、それを確実に実感するようになっていた。

「俺もちょっと前までは、お前等みたいにただ与えられるだけの飯を食ってるだけだったんだけどな。」

 少年はぽつりと漏らす。勿論少年はこの鶏達が、ただのうのうと暮らしている訳ではなく、その与えられた餌で新たな命を紡ぎ、あの黄色いふわふわに自分の未来を託していることを学んだ。

 畑にはニョロニョロとした君の悪い紐状の生き物が生息していたが、白衣の男曰く、こいつ等がいるお陰で土は栄養を蓄えていくらしい。今の少年の生活の一端は、このニョロニョロに支えられているのだ。

 少年は一仕事終えると、長椅子に腰を下ろし一杯の水を喉に流し込む。今までは泥水を啜るような生活で、水なんて美味いと思った事など一度たりとも無かったが、今は美味いと心から思う。

 今までの命の掃き溜めのような地上よりも、生命に満ち満ちているこの地下の方が快適だとは、なんとも滑稽だなと少年は思った。

「だいぶ作業も板についてきたようだね」

 長椅子の背もたれに手をかけた白衣の男が少年に話しかける。

「ここでの生活も、これはなかなか悪くないもんだろう?」

 白衣の男は煙草をふかしながら少年の横に座る。そして懐からもう一本煙草を出し、少年に差し出す。少年はそれを手で制する。

「君も付き合いが悪いなぁ。君が吸ってくれれば煙草が多数派になって、僕が肩身の狭い思いをしなくて済むっていうのに。」

「俺には煙草もコーヒーも、何が良いのかさっぱりわかんねえよ。」

 つれないなぁ。そう言って白衣の男は空に向かって煙を燻らす。

「ここでの生活にはだいぶ慣れたようだね。悪くないもんだろう?地下での生活ってやつもさ。」

 白衣の男の言う通り、ここでの生活は悪くない。それどころか今までの薄暗い地上での生活から比べれば、更に言えば仮面達の生活よりも、よっぽど恵まれた環境だと少年は思う。しかしそれと同時に少年の中で、この安穏とした生活が少年の牙を鈍らせている、そう感じる事がしばしばある。

 少年は当初、兄貴の仇の事しか頭に無かった。勿論今でもその気持ちを忘れた事は一時たりとも無い。無いのだが、少年の心には不安が翳っていた。

 もしこの生活を続けていたら、いつか兄貴の仇うちのことを忘れて、ここで命を謳歌してしまうのでは無いのか。そんな気持ちが頭の片隅にある少年は、白衣の男に反発するようにきつく言葉を返す。

「俺たちはいつ死んでもおかしく無い所で生きてきたんだ。お前等みたいにこんな生ぬるい生活、俺には耐えられないね。」

 白衣の男はニヤリと口角を上げ、一呼吸煙草を吸った後に少年にわざとらしく大げさに語りかける。

「その割には毎日美味しそうにご飯を食べるし、なんのかんの言いながら鶏達や野菜の世話もしてくれる。僕が思っている以上に、君はここの生活に充足感を覚えていると思うよ、僕はね。」

 少年は心の内を見透かされたようで、羞恥心がじわじわと湧いてきて、顔が赤く強張ってしまった。これでは白衣の男の言う言葉を肯定しているのと同じである。

「今日の晩飯、お前の分の味付けどうなるか覚えておけよ。」

 白衣の男は慌てた様子で口から煙草を落としそうになる。

「勘弁してくれ!ただでさえ君の作る料理は酷いのに、これ以上どう不味くするって言うんだい!?」

 今度は少年がニヤリと笑い、家の中に消えていった。


 凄惨な食卓を囲み、白衣の男の悶絶する顔を見た少年は満足げに床に就く。少年は既に見慣れた天井を見上げ、今日の自分のことを振り返っていた。

 白衣の男の言う通り、自分はここの生活が気に入りつつある。それは否定出来ない所であった。

 もしも、そんなもしもが訪れる事は無いのだが、もしも兄貴の事が無かったら。そう考えた瞬間に少年の心がぐっと締め付けられる。

 自分が一瞬でも考えてしまった事に、少年は自身に対する侮蔑と後悔の念が一気に押し寄せてきた。自分が余りにもこの生活に毒されている、そう考えてしまう。

 少年は人工的な夜風に当たるため、外に出て昼間座っていた長椅子に腰を下ろす。人工的な星空を眺め、人工的な月明かりに照らされて目を眇める。昼間の太陽とは違い、淡い光ながらも少年の心を明るく照らす優しい天蓋だった。

 ここでの生活は、朝でも昼でも夜でも、絶え間なく少年のことを優しく包み込んでくれる。そしてそれが逆に少年を不安にさせていく。

 この柔らかい月の光でさえ、少年の心を焦燥感で締め付けていく。心すら照らす月、その裏に暗い影を落とす。

 少年は月の視線が痛く刺さり、逃げるように寝床に潜り込み、敷布で頭をすっぽりと覆い被せる。

 少年の知識には祈るという行為は存在しなかったが、少年は本能的に祈っていた。それは神や仏などではなく、人工的な太陽と月にだった。

 どうか、どうか俺に兄貴の事を忘れさせずにいてください。

 少年は優しさで擦り減らされた心に殻を被せるように心の中で叫び続けた。気が付けばそのまま落ちるように眠っていたが、夢に出てきたのは兄貴ではなく、明るい日差しの中で食卓を囲む、着物の少女と白衣の男だった。

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