第82話 あーそぼ、あそぼ
顔を近づけると、例の化学香料の匂いがする。
ばさり、とタキシードを片手で振り、そのあと三度ほど手形を叩く。
ふわり、とタキシードを片手でもう一度振り、手形を見た。
手形は。
まるで薄い蝋細工のようにはらはらと床に落ち、そしてそこから煙のように立ち上るのはピンク色のワンピースを着たあの女の子だ。
俺はタキシードを眺めるふりをして、
「申し訳ないが、君は家族にできない」
じっと俺を見上げる女の子に、淡々とそう告げた。
「俺は君を、救えない」
女の子の瞳は、相変わらず何も映していない。景色も、感情も、俺も。
ただ、ぽつり、と呟いた。
「あとぼ」
俺は腰を屈め、女の子の顔を覗き込む。
女の子の瞳に初めて俺の顔が映った。彼女は二度、ゆっくりとまばたきをし、口を開く。
「あとぼ」
俺は首を横に振った。だが、女の子は俺から目をそらさない。じっと俺を見ている。
「取れましたか?」
背後から、田部の不思議そうな声が聞こえてくる。「もう少し」。俺は返して、上着のポケットからハンカチを取り出した。
田部のタキシードの汚れを取る振りをし、ハンカチを広げて女の子の頭からかぶせる。
女の子の顔が小さいのか。糊の利いたハンカチは、すっぽりと彼女の顔までも覆った。「あーそぼ、あそぼ」。俺は小さな声で歌う。
女の子は、その声に合わせて肩を左右に揺らした。「あーとぼ、あとぼ」。女の子が繰り返す。
「明るい方は、どーこだ」
俺は囁くように女の子に言う。「あーそぼ、あそぼ」。俺は小さく歌う。
「明るい方を、探してごらん」
俺の小声に、女の子は目隠し鬼のように、両腕を突き出し、ゆっくりと動き出す。「あーとぼ、あとぼ」。
そう、歌いながら。
「明るい方に。明るい方に。さぁ、歩け、歩け」
彼女の耳に小声で囁く。
女の子は、頭にハンカチを乗せ、視界を遮られたままではあるが、よろよろと手を伸ばして体を半回転させた。
「あーとぼ、あとぼ」
女の子は歌う。
俺に背を向け。
壁に向かって。
窓に向かって。
その先に見える。
日差しに向かって。
手を伸ばしながら。
「手を伸ばせ。その、温かい光に、歩き出せ」
俺は静かにそう告げた。女の子は、ほとり、ほとり、と窓に向かって歩き出す。
小さな手を揺らしながら。
「君が安らげるように願っているよ」
俺は呟き、女の子の手が窓に触れる瞬間、ハンカチを奪い取る。
光が、彼女を包んだ。
眩しそうに。彼女は立ちすくんだように見えた。若干、顎を上げ、不思議そうに窓の外を見ている。
「行け」
俺は彼女に言い、タキシードの肩口を両手でつかんで、勢いよく振る。
ばん、と。
存外大きな音を立てた後、軽く二つ折りにしてタキシードを右ひじに掛けた
そこには。
もう、女の子の姿はなかった。
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