第77話 この子は……
「あーえたいには、おーとであとぼ。うもをあとえて、えんえんあ」
女の子はいきなり、ぱくりと口を開き、歌い出した。
薄く小さな口唇は、突然の動きに耐えられなかったのか、かさついてひび割れ、そして血をにじませる。
「あーとぼ、あとぼ。おーとで、あとぼ」
音程などまるで気にしていない、平板でたどたどしい声で女の子は歌う。
俺はただただ、唖然と目の前の子どもを見つめた。
彼女の目に、感情はない。まるでガラス球を嵌めこんでいるようだ。髪は黒くつやつやとしていたが、切りそろえられている風ではなかった。多分、生まれた時から一度も鋏をいれられていないその髪は、するり、と肩口まで伸びている。
白く、不健康そうな肌は陽の光を拒絶し、幼児であるにも関わらず、全体的に渇いているように見える。
ただ。
ただ。
俺は、奥歯を食いしばる。
怖さより。
なにより。
切なさに胸をしめつけられる。
「ひんあで、たーしぃ、あーぼーよ」
女の子は歌う。
だがこれは、さっき、香川さんが俺の隣で歌ったような歌ではない。
「うーきのひには、おーとであとぼ。あんへんつかって、うきうきき」
俺は涙が出そうだ。
目の前で、ぱくぱくと、ただ口を開いて歌うこの子が、ただただ哀れに思えた。
この子は多分、誰にも「人」に歌ってもらったことが無い。
あの、パンダの付いた電子ピアノの自動音声しか聞かずに育っていたのかもしれない。
誰にも、『「おーと」じゃないよ、「おそと」だよ』と言われずに、この子はひたすら繰り返し玩具の音を聞き続けていたのだろう。
誰とも。
一緒に歌ってもらったことがないのだろう。
誰にも。
その歌、上手だね、と言ってもらったことがないのだろう。
「君は、誰だ」
俺はもう一度尋ねる。
女の子は口を閉じ、無表情のまま立ち尽くす。
その彼女の瞳に。
怯えたような香川さんの姿が映っていた。
映っている、ということは。
俺はゆっくりと俺の手を握る香川さんを見る。
女の子は、香川さんを視界にとらえている、ということだ。
俺を、見ていない。
そのことに気づき、香川さんの手を引いて、下がろうとした。
だけど。
香川さんが悲鳴を上げる。
上げて、畳にお尻から転倒した。
はらり、と。
枯葉のように地面の「手形」が舞い上がる。白い手形は、ふわり、と粉雪のような軽さで香川さんに降りかかった。
手を握っていた関係で、俺も上半身を持っていかれ、腰をかがめてたたらを踏む。
「離して!」
香川さんが叫んだ。
俺は彼女の視線を辿った。足だ。彼女は、自分の足を見ている。
「離せ!」
俺も怒鳴る。
箪笥から伸び出すように。
女の子は香川さんの脚を掴んでいた。
あり得ない。
俺は愕然と香川さんにとりすがる女児の手を見る。
あの距離から、一瞬にして香川さんを捕捉した。
白い枝のような腕が香川さんの右足首を捕え、かつ、女の子は遊んでもらっているかのように、きゃっきゃと笑い声を立てた。
「離せ!」
俺はもう一度女の子に怒鳴るが、全く俺に興味を持っていない。
香川さんにしがみ付いたまま、耳に痛いほどの高音域で笑い声を立てた。
「あーとぼ、あとぼ」。そう繰り返している。
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