五章

行橋教諭と香川ボラコ、田部は、あの家に相対する

第63話 それではだめだ、と自分を叱りつける

◇◇◇◇


「こんばんは」

 俺は小さく声をかけて、病室のスライドドアを開く。


 四人部屋だと聞いていたが、病室の番号が入ったプレートの下には、認識番号がひとつしか書かれていない。


 多分、香川さん以外、入院患者はいないのだろうが。

 ちらりと腕時計に視線を走らせて顔を顰める。もう、22時を過ぎている。


『眠っていたら帰ってください』

 面会を申し出たら、看護師にぶっきらぼうに言われた。


 時間外だということも知っているし、香川さんが運び込まれた経緯や警察からの申し送りもあって、看護師自体も迷惑だと思っているのだろう。


 俺はひたすら上半身を縮め、『すみません』と『ありがとうございます』を繰り返した。香川さんのために買ったコンビニスイーツの中からいくつか取り出し、せめてもの詫びのつもりで差し出したのだが、一瞥しただけで受け取りを拒否され、さらに落ち込む。


 俺は深い息を吐き、室内に視線を走らせた。

 病室自体の電気は消灯時間の関係で落とされているらしい。一番窓際の病床だけがカーテンを敷かれ、うすぼんやりと光って見える。


 やっぱり。

 病室にある病床の3つは空だった。


 俺は、白い、牛乳の被膜のようなカーテンの向こうで、人影が揺れるのを確認し、そっと近づく。


「お兄ちゃん?」

 香川さんの声がして、俺は足を止めた。コンビニのビニール袋がかさり、と音を立てる。


「すみません。行橋ゆきはしです」

「え!?」


 戸惑ったような声の後、カーテンの影絵が動く。

 カーテンレールが走る音がして、細く開いた先からは、目をまん丸に見開いた香川さんが顔を覗かせた。


「……どうしたんですか?」

 香川さんは、驚いた顔のまま、俺に尋ねる。


 病衣は来ているが、つるんとした丸い頬や、潤んだように見える黒瞳はいつもどおりだ。


 ただ、頭からすっぽりと被っているネットや、シーネに固定された右腕をスリングで吊っている姿には正直、胃がしめつけられたように痛んだ。


 胃どころか、警察で事情を聞かれているわずか一時間の間で、何度俺は便意に襲われてトイレにかけこんだことか。


 結局、市販の薬と痛み止めを飲んで状態は落ち着いたが、多分薬のお蔭と言うより、腸の中が空になったからだと思う。


「消防の救急の方に、此処を教えて頂いて、一言お詫びを、と……」


 カーテンの前で立ち尽くし、俺は香川さんを見下ろすふりをして、リノリウムの床を見る。語尾が続かない。「帰ってください」。そう言われたらどうしよう。


「田部君は? 先生ひとりなんですか?」

 だが、香川さんは不思議そうに俺の背後を覗いた。俺は幾分、安堵の息を吐きながら彼女に答える。


「さすがにこんな時間ですし。警察に事情を聞かれた段階で、芝原先生にお願いして、俺の家に来てもらっています。田部は、俺の家で芝原先生と……」


「警察? 先生が事情を聞かれたんですか?」

 香川さんは素っ頓狂な声を上げ、それから時間を気にしたのか、口元を左手で覆った。


「あの。どうぞ。パイプイスとかしかありませんけど」

 香川さんは俺にそう声をかけてくれたけど、慌てて首を横に振った。


「香川さん、疲れてるでしょうし。様子だけ見に来たんです。すいません。時間的に店がどこも開いてなかったので。あの、これ……」


 俺は手に持っていたコンビニのレジ袋を香川さんに突き出すが、香川さんはいつもどおり、くすり、と笑った。


「もうすぐしたら、入院手続きとか私の着替えなんかを持って、兄がくるはずなんです。よければ、それまで私の話し相手になってくれませんか?」

 俺は彼女の提案を、ただただ黙って聞いていた。


 心の中に広がる罪悪感が、彼女の笑顔や言葉で徐々に薄れていくのだけれど。


 それではだめだ、と叱りつける自分がいる。

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