第49話 田部が尋ねるから俺は言葉を失った

◇◇◇◇


 10日後。

 

 俺が校内の職員用駐車場に車を停車すると、田部が助手席でシートベルトを外しているのが横目に見えた。


「今日は、立ち当番か?」

 のんびりと声をかけ、後部座席に置いていた仕事用のバックに手を伸ばした。


 体を動かすとネクタイのあたりがきつい。俺は首元に指を入れ、左右に揺らして結び目を緩めながら田部を見た。


 田部は、アイロンがきっちりとかかった半袖シャツに、校章の入った学生ズボンを履いて、足元に置いた学生鞄を膝に乗せたところだった。リュックタイプにも鞄にもなるタイプで、教科書等を入れれば重量は10キロを越えるものだから、生徒は皆、背中に背負って通学している。


「はい。このまま、正門に行きます」

 アーモンド形の澄んだ目で見上げられ、「そうか」と頷く。


「俺はもう一回、職員用トイレに行ってから、立ち当番に参加する」


 そう応えると、田部はわずかに笑った。

 その笑顔を見て、心底ほっとする。


 ようやく、田部は自然な笑みを顔に取り戻すほどになったのだ、と。


 あの。

 優奈ゆなちゃんという幼児を助けて、と香川さんに電話をしてきてから、すでに10日が経過していた。


 香川さんが、消防士に紹介してもらった小児科に優奈ちゃんを運び込むと、万事準備万端整えていた白髭の医師はすぐに優奈ちゃんを診察し、「肺炎」と短く告げた。


 総合病院への入院を手配するから、すぐに準備をするように勧められ、俺は校長に連絡と報告を行った。香川さんは、その間に入院に必要な着替えやタオル等を近所の衣料品で買い込んで来てくれた。この辺の機転は俺にはさっぱり無く、また、あれぐらいの幼児が一体どんなサイズの下着や服を着るのか皆目見当もつかなかったので、本当に助かった。


 校長はすぐに能勢のせさんに連絡をし、能勢さんは児相に通報した。


 児相は緊急性あり、ということで警察に連絡。

 町内のパチンコ屋で、あっさりと田部の母親は捕まった。


 そのまま田部の母親は『育児放棄』ということで、警察の留置所にとどめ置かれ、現在も取調べを受けているらしい。田部の父親は、田部が言うとおり鳥取におり、教育委員会の担当者が出向いて聞き取りを行ったそうだ。


 その間。

 田部をどこに預けるか、ということが校内では最大の問題となっていた。


 田部の父親は仕事の関係で、絶対こちらに来られない、と主張しているという。おまけに、鳥取に引き取ることも渋った。三交替だから面倒が見られないというのだ。


『だからこそ、あの女と結婚したのに』

 そうこちらに文句を言う始末だ。もともと、田部を押し付けるつもりで結婚したのだろう。皮肉なことに相手も同じだった。


『優奈の面倒を見てくれると思ったから、結婚して同居したのに』

 優奈ちゃんの母親は口を尖らせ、警察官にそう言っているという。


 田部の親族を能勢さんが辿ったりもしたのだが、誰もが受取りを渋っているという。離婚した実の母親でさえ、きっぱりと田部の受け入れを拒否した。なんでも、すでに恋人がいて、今更来てもらっても困る、という。それに金もない、と。


 だからといって、いまの家にひとりで中学生である田部が暮らすのはまずいだろう、と教頭が顔をしかめたのだが。


 それ以上に、まず。

 田部が、あの家で暮らすことを嫌がった。


『あの家には帰りたくない』。

 俺にも教頭にもはっきりと意思表示をした。


『児童養護施設を探しましょうか』

 SSWの能勢さんがそう提案したが、どこも空きはなく、あったとしても、この校区にはないので、また田部は転校しなければならない。


『俺の家で一緒に住む、というのはいけませんか?』

 いたたまれなくて、思わずそう聞いていた。


『俺は一人暮らしですし……。また転校して新しい環境で一人暮らしだなんて、田部が可哀想です』


 俺の申し出を教頭が田部の父親に電話で告げると、もろ手を上げて賛同した。そして、田部自身も、『あつかましいですが、宜しくお願いします』と頭を下げてきた。


 校長と教頭。それに能勢さんと教育長が随分と話し合ったようだが、結局俺が当分の間、面倒をみるということで折り合いがついたらしい。


 優奈ちゃんを入院させたその日から、田部は俺のワンルームのアパートに同居することとなった。


 優奈ちゃん自身は、退院後、児童養護施設に預けられる予定だと言う。


 いずれはお祖母ちゃんが引き取る予定のようだ。

 そのことを田部に能勢さんが伝えると、『僕はその児童養護施設に行って、優奈に会ってもいいんですか』と尋ねられたらしい。もちろんだ、と返答をすると、田部はほっとした顔で、自転車で行く道筋を確認したそうだ。


 以降。

 田部は、俺と同じ部屋で寝起きし、食事を摂って、一緒に学校に通っている。


「先生」

 エンジンを止めていると、田部が俺に声をかけた。


「なんだ?」

 珍しいな、と思いながら俺は応じる。いつもなら、すぐに助手席から降り、教室やクラス委員の仕事のために場所移動をするはずだった。


「先生、いま、恋人はいるんですか?」

 真っ直ぐに俺を見て、田部が尋ねるから俺は言葉を失った。

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