第48話 彼の傍に、手形がある……

「お父さんがいくらか送金してるみたいだけど……。お母さん、ずっとパチンコに行ってて……。お金も、全部そっちにつぎ込んでるみたい」


「それで、食べ物を入れないんだ……」


 怒気を含んだ小声が後部席から聞こえる。ちらりと見たルームミラーには、怒髪天を突きそうな顔で香川さんがフロントガラスを睨んでいた。


優奈ゆなちゃんは、じゃあ、田部があの家に来るまでは、誰が面倒をみてたんだろうな?」

 俺が尋ねると、田部は小さく首を傾げて欠伸をかみ殺した。


「多分、おばあちゃんみたい。優奈、たまに『おばあちゃん』って言いながら泣くから」

「その、おばあちゃんはどこにいるんだ?」


 その俺の問いかけに明確な返答はなく、ただしんどそうに「さぁ」という声だけが田部の口唇から漏れた。


行橋ゆきはし先生。今は、もうそれぐらいで……」

 控えめな香川さんの制止の声に、俺も頷く。


 田部は。

 助手席でうとうとと、眠りかけていた。


「……ん?」


 ふと俺は目を瞬かせる。

 思わず口からは声が漏れた。


 田部の首がうたた寝のために揺れる。


 こつり、と助手席側の窓ガラスに頭があたった。


 その窓ガラス。


 そこに。

 手形ついていた。


 俺は視線を一度前に向ける。

 先の信号が赤に変わり、先行の車たちが徐々に減速していく。


 自分自身もブレーキで加減をしながら、左手をハンドルから離し、助手席に手を伸ばした。


「行橋先生?」


 訝しげな声が後部座席から聞こえる。ルームミラーを見やると、香川さんが優奈ちゃんの頭を撫でてやりながら不思議そうに俺を見ていた。


「ちょっと、汚れが」


 前の車が停車した頃合いを見計らい、俺は自分もブレーキを踏み込み、サイドブレーキを踏んだ。

 助手席に半身を傾かせる。田部は眠っているのだろう。俺の動きに気づかない。彼のすぐ側についている窓ガラスの手形を指で擦った。


「……外、か?」


 手形は、俺が擦っても掻いても、消えも捩れもしなかった。


 ということは、この汚れは外だ。


 ぴたり、と。

 助手席にいる田部をのぞき込むように。


 その白い手形は彼の顔付近についていた。

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