第47話 なぁ、田部……
「私がドアを開けます。後部座席に私とその子を乗せましょう」
車に近づく俺の背後に香川さんが声をかけてきた。丁度手がふさがっている所だったので、遠慮なくお願いする。香川さんは後部座席の扉を開き、素早く身をかわした。
俺は香川さんと入れ替わりに腰を屈め、そっと後部座席に幼いその子を寝かせた。その間に、扉が開く音がしたと思ったら、助手席に田部が乗り込んでくる。泣きつかれたのか、動きは酷く緩慢で、座ったあともぐったりとシートの背もたれに体を預けて動く様子もなかった。
「寝てても、シートベルトしたほうがいいんですかね」
反対側の扉が開き、香川さんが座ってにじり寄ってきた。シートベルトをひっぱり、俺が寝かせた女の子にシートベルトをまわしてくる。
「一応させましょうか。お願いしますね」
俺が頷くと、「了解です」と香川さんは応じて、シートベルトを締めた。
「病院はどこに行けばいいですか?」
「東野地区の、有川小児科ってわかりますか?」
俺は後部座席の扉を閉め、「ありかわ、ありかわ」と呟きながら脳内地図を検索する。
「陸橋の上り口です。保育園近くの……」
運転手席に乗り込んだら香川さんにそう言われ、なんとなく思い出す。そういえば、古びた白く四角い建物があった気がする。
「近くまで行きますので、誘導お願いします」
そう言うと、香川さんはもう一度「了解です」と返事をしてくれた。
「田部。シートベルトはしたか?」
自分自身もシートベルトを締め、隣を一瞥する。がくり、と首を折るように頷くのを確認し、俺はエンジンをかけた。
「熱があるだけだ。大丈夫だから安心しろ」
俺はそう声をかけて、車を発進させた。田部は無言でもう一度、がくり、と首を縦に振った。
「なぁ。田部。その子は、誰だ」
俺はルームミラーで後部座席を確認しながら、田部に話しかけた。後部席では、香川さんがしっかりと幼女の体を支えてくれているようだ。
「お母さんの、連れ子」
ぼそり、と田部は応えた。
「学校でお前の家族現況シートを見たけど、そんな子、書かれてないだろ?」
一旦車をユーターンさせ、来た道に戻ろうと切り返しを何度か行いながらも、ちらりと助手席に座る田部の様子をうかがう。
「僕も……。多分お父さんはいまでも、
優奈、というのがこの幼児の名前なのだと初めて知った。
「お父さん、僕には言ってないけど、大分借金があるみたいで……」
田部はぐすり、と鼻をすすり、億劫そうな声ではあるが、訥々と話し始めた。
「お母さんとは、引っ越すために結婚したところがあって……。お父さん、いまは鳥取で仕事をしてます」
「鳥取!?」
思わず問い返すが田部からの返事はない。だいぶん疲れて見える。
「こっちに来ても、仕事なかったみたいで……。車の部品をラインで作る工場の期間工みたいなことをしてるって……」
「それで、連絡が取れないのか……」
俺が呟くと、田部は小さく息を吐いた。
やはり大分気だるげだ。
俺は国道に戻りながらも、視線を再度田部に送る。彼自身、熱がありそうな気配はないが、優奈ちゃんの看病と精神疲労がいくつも降りかかっていたのかもしれない。崩れ落ちそうな姿勢で助手席に座っている。
「お父さんとは連絡取れないのか?」
「電話番号知らない。お母さんに聞いても、教えてくれない」
投げやりな様子で田部はそう言い、ほう、と小さく息を吐いた。
「お母さんは多分、優奈の世話をしてくれる人間が欲しかったんだと思う」
ぽつり、と田部は言う。
「お父さんの連絡先を教えたら、僕がそこに逃げると思って、教えてくれないんだ」
田部はかさついた笑い声をたてた。
「優奈を、放り出してこの家から逃げる、って」
「お母さんは、優奈ちゃんの世話をしてなかったのか? お前が学校に行かずに、世話をしてたのか?」
俺が質問すると、田部は溜息とも返事とも言えないものを吐き出した。
「優奈、あんな目に遭ってても、お母さんのこと大好きだったから」
田部は呟くように続ける。
「通報したら、あのクソ親とは引き離されるでしょう? 優奈はそれを望んでいなかったから」
感情などうかがい知れない、訥々とした声音だ。
力もなく、弱弱しい声だった。「……田部」。俺はなんと声をかけていいのか分からぬまま、彼の名前を呼んだ。
「それで、お前が優奈ちゃんの面倒を見てたんだな……。学校に行かずに」
義母が育児放棄をするから、義妹の面倒を見ていたのだろう。
この家に幼児がいる。
しかも虐待を受けている。
そのことに気づかれれば、母子は分離される。
田部はそのことについても、どうにかしようとしていたのだろう。
中学生の男の子が、たったひとりで。
「それに」
田部は囁くように言った。
「僕がいないと、優奈はあの家で、怖い思いをするから……。学校になんて、行けなかった」
田部はそう言って、助手席の上で居心地悪げに身じろぎをした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます