第46話 俺は、田部に話しかける

「……田部。お前、その子……」

 俺は唖然と呟く。そのあとの言葉が続かない。実際、そこで絶句した。


「誰……?」


 俺の背後でも香川さんが驚いたように呟いた。


 そうだ。ここには。

 この家には、子どもは田部ひとりのはずではないのか。


「熱が、下がらないんです」


 田部は、だが、頬や顎を自分の涙で濡らしながら、しっかりと腕の幼児を抱きしめていた。


「全然、熱が……。それに、起きないんだ……」

 田部はそう言ってしゃくりあげ、声を上げて泣き出した。


「熱は……。いつから下がらないの?」

 ようやく我に返ったのは香川さんのほうが先だった。


 彼女のしっかりとした声に、俺も慌てて意識を集中させる。田部に近寄り、幼児の顔を上から覗きこんだ。


 三歳か、それぐらいに見えた。

 正直、小さな子が身近にいないので、正確な年は分からない。ただ、頬が真っ赤で、汗のためか前髪がでこっぱち気味な額にはりついていた。


 若干。この子も痩せ気味だ。

 顎がほっそりとしており、頬もこの年齢にしては薄い。目の下は隈なのか、凹みなのかわからない感じの影があった。


「2日前。夜からどんどん熱が上がっていって……。お母さんに連絡するんだけど、電話が通じなくて……」


 田部は何度もしゃくりあげる。

 俺は田部に手を伸ばし、幼児をバスタオルごと受け取ってやろうと思うのだが、田部は首を横に振って必死に女の子にしがみついた。


「取り上げない。大丈夫だ。俺のほうがお前より力があるから、持ってやるだけだ。大丈夫」


 俺が何度も大丈夫、と繰り返すと、田部は大きなしゃっくりを繰り返す。


 過換気を起こすんじゃないかとひやりとしたが、香川さんが腕を伸ばし、田部の背をなでてやった。「大丈夫。一緒に病院行こう、ね?」。そう言って丸くうな垂れる田部の背をなでる香川さんの声は、とても優しくて、田部は再び泣き始めた。


「熱はどれぐらいあるんだ?」


 田部が幼児から徐々に力を抜いていくのがわかり、俺は逆に力を込めて、田部から抱き取った。


 軽い。


 絶望に胸を押されて息が漏れそうだ。この子も、軽い。

 腕の中でぐったりと動かないが、呼吸はしている。早く、浅いがこの子が息をしていることに安堵した。ただ、バスタオル越しにも、やけにしっとりと汗をかいているのがわかる。


「九度。下がらない」

 田部は顔を覆って泣き始める。


「でも、お金の場所が分からなくて……。薬も、何を飲ませたらいいかわからなくて……。前の家には、パソコンもスマホもあったからいろいろ調べられたけど、ここ、何も無くて……」


 語尾は再び号泣する声に消えた。

 田部は玄関のたたきに膝をつき、体を海老のように丸めて泣いている。その背を、香川さんはゆっくりとなでていた。


「電話が通じてよかったよ。ありがとう、田部君。連絡くれてありがとうね」

 香川さんはそう言うと、顔を上げて俺の方を見た。


「救急車を呼ぶレベルですか?」

「どうだろう……」


 俺は腕の中の幼児を見る。

 確かに具合が悪そうなのはわかるが、意識が無い、というより眠っているように見える。


「どこの救急病院に運べばいいか聞いてみます」


 俺が口ごもっていると、香川さんはそう言い、デニムのポケットからスマホを取り出した。素早くどこかにかけたかと思うと、左手に持っていた新聞紙を地面に広げ始める。


「あ。金田さん? よかったぁ。今日、非番ですか?」

 香川さんは気さくにスマホに向かって話しはじめる。だが、指は新聞をめくり続けたままだ。


「今からね、小さな女の子を病院に連れて行きたいんですけど……。休日夜間病院、どこがいいでしょうかね。ええ。新聞見てます。かなり高熱で……。できれば、小児科があって、そんなに混んでないところがいいな」


 そう言う彼女を見て、ようやく何故新聞紙を握り締めていたか合点がいった。

 地方欄に書かれた休日夜間の当番病院を見るためだったのだ。


「……やっぱり。そりゃ、日曜の昼間は混んでますよねぇ。でもねぇ……、どこか、金田さん。都合つけてくれません? ちょっとあってね……」


 香川さんはそこで、少し甘えた口調になる。「お願いしますよ」。そう言って、可愛らしくお願いする姿を見て、電話の相手が男性だと気付く。

 俺はなんとなく、おもしろくない。


「本当に? 嬉しい。ありがとうございます! 今度ボラセンに来てくれたら、美味しいコーヒーを淹れますね。……コーヒーメーカーが」

 そう言って笑うと、「じゃあ、失礼します」と電話を切った。


行橋ゆきはし先生、車出してもらえますか? 病院は私が案内します」


 香川さんはスマホをポケットにねじ込み、新聞紙を小さく畳む。手際よく動く彼女にうなずきながらも、なんだか心の奥にわだかまるこの気持ちをどうすりゃいいんだ、と思っていたら、香川さんはうずくまる田部に柔らかい声で話しかけた。


「私の知り合いの消防士さんに電話したら、知り合いの個人医院に連絡をして開けてくれる、って。そこに行って、診てもらおうか。お金のことは、あとで大人が考えるよ。大丈夫」


「……消防士さん、なんですか」

 思わず尋ねると、香川さんは不思議そうに顔を起こし、それから笑って頷いた。


「ボランティア登録してくださってる方で……。もうすぐ定年の方なんですけどね。医療関係に強いから、よく無理をお願いするんです」


 現金なもので。

 ”ボランティア”、”定年間近”ということでものすごくほっとした。なるほどなるほど。そういうことね。


「じゃあ、行きましょうか」

 俺は香川さんを促す。香川さんは田部を助け起こした。


 そうして、4人でこの家を出た。

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