第22話 田部滉太
「……あの。大丈夫ですか? 怪我はないですか?」
俺は彼女の異変に気づきながらも、先にそのことを尋ね、詫びた。「急に叩いたりして……すみません」。怖がらせてしまったのだろうか。そう思い、付け加えると、香川さんは首を横に振る。
「いえ、大丈夫です」
そう言って、もう一度目を細めて笑う。
少しぎこちなくはあったが、それでもいつもの笑みに戻りつつある彼女に、俺は心の底から安堵した。
「玄関に……」
行きましょうか、そう言いかけた彼女の口は、だが、重々しい開錠音を聞いて閉じられた。
がちり。
何かを断つような、そんな金属音だった。
二人同時に玄関扉を見る。
その視線の先で。
毛羽立つ古びた玄関扉が開き、小柄な少年が姿を現した。
「こんにちは」
少年は、そう言って、会釈をする。電話口でよく聞く声だ。
田部だ。田部、
俺は家の中から姿を現した少年を、まじまじと見る。
細い、少年だった。
尖り気味の顎と、小さな肩をしていた。洗いざらしのTシャツ越しでもわかる、薄い胸板をしていた。ハーフパンツから伸びる脚も、随分とか細い。
毎日、
ただ。
久しく陽に当たっていないような白い肌や、曇天でさえ眩しげに細める目に、なんだか胸をつかれた。涙腺が緩みそうになる。
「やぁ、田部」
意識して笑みを浮かべた。俺史上、最高の笑みを。
それから声をかけ、香川さんを促して彼に近づく。
田部は一瞬不思議そうな目を香川さんに向けたが、すぐに俺が話したボランティアコーディネーターだと気付いたようだ。微かにうなずき、それから。
玄関扉を後ろ手に閉めた。
がちり、と。
重く、意外に硬い音を立てて扉は閉まった。
同時に。
空気に乗って、すぐに霧散したのは化学的な匂いだ。ハーバルではあったが、自然なものではなく、柔軟剤の香に似ていた。
屋内の匂いなのだろう。
香川さんが推測した通り、ごみらしい匂いではなかった。
しかし。
扉が閉ざされたせいで、その香はすぐにかき消える。
玄関扉の前には。
門番のように田部がただ、立っていた。
『玄関外で』
そう言った、田部の母親の言葉を唐突に思い出した。
「初めまして、田部君。私はボランティアコーディネーターの香川です」
香川さんは、にっこりと微笑むと、「かがわ」と大きく聞き取りやすい言葉で発語した。
「田部、滉汰です」
田部も几帳面に名前を告げる。
俺は香川さんと自己紹介がてら、二言三言会話を交わす田部を見て思う。
挨拶といい、仕草といい。
育ちの悪さは感じられない。
田部のお父さんと、実のお母さんは、田部をしっかりと躾けたようだ。
それに比べ、と舌打ちしたい気分だ。
あの、いまの田部の母親の態度や言動はなんだ、と。
「ボランティアさんに来ていただいて、数学を教えてもらいたいんだよね?」
香川さんは、心地よいメゾソプラノの声で田部に尋ねる。田部は頷き、ハーフパンツのポケットから、四つ折にしたコピー用紙を取り出した。
「頂いたプリントも、解いてみました」
香川さんに手渡した紙を、俺も彼女の背後から覗き込んだ。
どうやら、事前にボランティアが彼の家にファックスを入れていたらしい。パソコン打ちされた印字の荒い文字が記された用紙に、田部の文字が書き込まれていた。
几帳面な。
少し小さめの文字だ。
一応全て解答はしているようで感心する。ただ、ざっとみただけだが、確かに連立方程式の問題数問が途中で間違っているようだ。
「じゃあ、ボランティアさんに渡して……。添削してもらって、持ってきてもらうね。でね」
香川さんは預かった用紙を丁寧にポストマンバックに入れ、それを背後に回した。
「ボランティアさんに勉強を指導してもらう場所なんだけど……」
「玄関外で」
田部は、硬く、緊張を感じられる声で短く答えた。
その声は、さっき聞いた施錠音に似ている。ばちり、と関係性を断つような鋭い音に。
香川さんもその声の調子に戸惑ったのかも知れない。笑顔のまま、だけど一瞬だけ様子をうかがうように俺に視線を向けた。
「なぁ、田部」
ゆっくりと声をかける。同時に、香川さんの隣に並び、田部を見下ろした。
「例えば、今日みたいにこんな雨が降り出しそうな日とか、外だと困るだろ?」
俺の言葉に、田部の顔がみるみる険しくなる。俺は慌てた。
「いや、家の中に入れろ、って言ってるんじゃないんだ」
「図書館とかはダメかな?」
香川さんも助け舟を出すようにそう申し出たが。
田部は、沈黙した。
沈黙というより。
俺は気付く。
これは。
電話口のフリーズだ。
肩に力を入れ、視点を動かさず、口を横一文字に引き絞って田部は立ち尽くしていた。
余程歯に力を入れているのか、顎が張っているのがみえる。
ぎりぎり、と。歯ぎしりをしそうなほどの食いしばり方だった。
田部は。
電話口でこんな表情をしていたのか。
俺は彼を見つめ、胸が締め付けられた。
フリーズじゃない。
これは。
我慢をする表情だ。
何かを堪える表情だ。
自分の感情や考えを、押しつぶす時の表情だ。
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