第5話 NEET、逃げる

『――――』


 目があったそれは、睨んでいた通りネズミだった。

 しかし、ただのネズミではなかった。


 でかい。


 ただ、ただただ、でかい。

 それだけのはずなのに、そのでかさがネズミの存在を『動物』から『怪物』にまで引き上げていた。無視出来る存在から、脅威と感じる敵の段階をすっ飛ばし、恐怖すら感じる。


 思考が混乱していた。なんでこんなにでかいのか、という疑問のたぐいではなく、怖いとか食われるのだろうかとか、原始的な恐怖が先走る。身体がぶるぶると震える。自分がアリになったような錯覚さえ覚えた。


 不意に澄み渡った思考の中で、もし俺が”こういう場面”で戦える人間なら、と思った。


 けれども、どうしても戦う自分がイメージ出来なかった。


 負け犬根性。それが俺の身体に、魂にまで染みついているからだ。

 靴にこびりついたガムのように、こびりついて離れないからだ。


 別に身体能力のスペックがどうとかじゃなくて、俺はそういう風に生まれついたとかでもなくって、ただ単純に俺はそういうたぐいの人間に成長してしまったというだけの、当たり前の事実を他人ごとのように思い出す。


 戦力差を考慮するより前に、負けた後のことばかりが頭を過ぎる。


 恐怖で、頭の中が混乱していく。

 恐怖で、身体がガタガタ震える。

 恐怖で、目から涙が流れ落ちた。


 そして、ある一線を越えたのがわかった。



「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――っっっっっっ!!!!」



 俺は逃げた。



 ※    ※    ※



 走って、走って、走った。


 全力疾走だった。

 今ならガキの頃の百メートル走のタイムを更新出来るかもしれないと思ったが、そんな思考すら洞窟の中に置いていかれた。恐怖、恐怖、恐怖、恐怖、恐怖! ただひたすらに、それだけが頭の中を占領していた。


 背後から迫ってくる足音を幻聴し、曲がり角を見るたびにあの化物が顔を覗かせたのを幻視した。息が切れても、それでも足は止まらなかった。


 ――足を止めたら、喰われる。


 頭から喰われるかもしれない。

 足から痛みを感じながら喰われるかもしれない。

 柔らかい舌を喰われるかもしれない。

 首筋を噛みちぎられ、死ぬまで血をすすられるかもしれない――……。


 想像は尽きなかった。ただひたすらに死ぬ自分が恐怖の中にあった。

 恐怖が、さらなる恐怖で塗りつぶされ、そこからまたさらに――永遠にこの流れが続くように思えた。


 どう走ったのかは覚えていない。

 ただ、かなり”俺向き”の良いフォームだったのかもしれない。そうでもなければ、滅多に出歩かない俺が四足歩行の動物から逃げられるわけがないからだ。肉体が限界を超えたのかもしれない。


 ――気がつけば、俺は布団にくるまってガタガタ震えていた。

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