第8章 Catch a cold 第2話
午後8時。
起きた瞬間はスッキリして気持ちいいものの、すぐまた咳が襲う。めまいもする。
「行くか……」
とひと声つぶやいて自宅の鍵と自転車の鍵が一緒についている鍵ケースを取り(銀座の店に出ていた頃は、これらに加えて店の鍵がついていた)、プラス財布を取って小銭入れに1万円札を1枚入れ、マンションを出た。
着いた先は仁科夫妻=みゆきの両親が経営しているマツモトキヨシである。咳止めを選んでもらう最中に咳をして、
「大丈夫ですか……これなんかいかがです?」
咳止め、のどの痛みに効く薬、常備薬のバファリンが切れていたのでバファリンと、季節外れだが直接ガスコンロにかけられる鍋焼きうどん、みかんゼリー(ゼリーの中に缶詰め用みかんが埋まっているゼリーのこと。作者がハマって久しい→ちなみに、オレンジ味が付いているゼリーと味のないゼリーの場合がある)、オレンジジュース、パック入りご飯、のど飴、玉子、フランスパン、うどん3人前、袋入りインスタントラーメン5パック入り、といろいろ籠に入れていく。途中から、昼間買いそびれた中でここでも買えるものを籠に入れている。
毬子が咳に悩まされながら籠にいろいろ入れている頃、店に八木が入ってきた。
八木が買い物を始めると、隣の商品列から派手に咳き込む音がする。
「毬ちゃん風邪ひいたみたいで、心配やね」
早番から押上に帰還して真っ先に入った藤花亭で、絢子のこんな言葉を聞いた八木である(りんだたちは話に夢中で口を挟まなかった)。夏ものの薄い茶色のスーツで、ジャケットはなし。
まさかその次に行ったマツモトキヨシで、彼女に会うとは思わなかったが。
缶ビールの次に、缶詰を選んでいると、隣の商品列から咳込む音が聞こえてくる。
これはまさか……と思った。
隣の商品列へ行き。毬子を見てきまり悪くなるものの。彼女を正面から見て、今の彼女は普通じゃないと気付く。頬が赤いし、なんだかいつもよりふわふわしている。
忘れて話しかけることが出来た。
「こんにちは、咳酷いけど、風邪でも引いた?」
「そうみたい……」
「息子どうしたの。買いに来させりゃ良かったのに」
「何か月も前から楽しみにしてたライヴの日にそんなこと言えないよ………げほっ」
という毬子は口調に力がない。先日うっかり八木とキスしたことは完全に忘れている。
「とりあえず俺が家まで送ってやる。明日休みじゃけえ、祐介くん帰ってくるまで世話したるわ。
欲しいものがあったら入れるから言いんさい、あと、風邪ひくと咳が出るタイプ? 熱出すタイプ?」
八木はうすうす見当がついていたが、
「咳……」
と八木の予想通りの答えを返す毬子の声は小さくかすれている。
八木は、毬子の持ってたカートを掴むと、毬子がいろいろ入れた籠を下に置き、自分の買い物を始めた。
八木は毬子の籠をチラ見して、みかんゼリーを見つけると、ゼリーの売り場へ戻って更に5個追加する。
そしてその先で、ポカリスウェットの1.5リットル瓶を八木が掴むと、
「あたしにもそれ」
「え?」
「あたしにもそれ」
「ポカリでええの?」
「うん」
八木は自分の籠と毬子の籠とにポカリスウェットを入れてやる。
店員が居たら、座れるところはないか聞こうかと思ったが、8時過ぎだとレジくらいにしか店員はいない。望みはかなわなかった。みゆきの父親=店長がレジを打っていた。
さすがに八木は買い物のお勘定まではしてくれなかったので、自分で払う。1万円札を持ってきて良かった。小銭入れが千円札でぱんぱんになったけど。
マツモトキヨシの駐車場で、
「チャリなの!? 自殺行為違うのか?」
と、八木は、よく倒れなかったなという気持ちでツッコミながら、後輪の上の籠に荷物を積み、自転車を押し始める。倒れて頭を打ったらどうする、と考えているようだ。
八木は、後輪にひとを乗せるのは自信がないので、後輪の上に籠があって少し助かったという気持ち。
自転車を押す八木の肩を掴んで、俯いて毬子は自宅マンションまで歩いた。歩く間に何度も咳が出た。空気が冷たく湿気っているので暑くもあり寒くもある。
「自転車置き場の入り口にカート置いといたの。赤いの。それうちのだから、うちの買い物それに入れてくれるかな? 入れてくれたら押して歩くから」
小声で言う。
「了解」
八木は振り向かず答えて、歩き続けた。
暗くて見えないが、空には大きな雲が現れている。
毬子は、大量の買い物をする時、自転車置き場の入り口に赤いカートを置いておく癖がある。八木はカートを認めて荷物を詰めてやり、毬子に押させるとよたよた歩くので、年寄りみたいじゃな、と思いながら横を歩いた。
マンションに入った瞬間、ピカっと白く空が光り、ゴロゴロドーン! と音がした。合間に毬子の咳の音。
「またアスカがパニクるかな……ゲホッ」
「ひとの心配しとる場合とじゃないじゃろう。鍵は?」
エレベーターの中で出させた鍵を毬子に開けさせ、中に入り冷蔵庫の前へ行く八木。
激しい雨の音が聞こえてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます