#3 第1話「サーガとクリシュナ」②

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 走った。

 ひたすらに走った。

 自分たちがどこに向かっているかも分からないまま。

 サーガは引っ張るクリシュナの手が、とても暖かだと感じた。握っているとどこか心の空虚に一筋、暖かなな涙で濡らしてくれるような気がした。

 十分後。

 サーガとクリシュナは名前も知らない小さな神社へとたどり着いていた。

 草のにおいが強く鼻を突いた。

 夕暮れの赤い光がじりじりと頬を焼いた。

 苔むした鳥居の下で、二人は地に尻をつけ、肩で大きく息をしていた。

 もうすぐ五時になろうかという時だ。

「ぼくはね、サーガ」

 ようやく息が落ち着いたころ、呟くようにクリシュナが口を開いた。

「君が羨ましかったんだ。身体も、心も強くて、勇気があって、誰にも負けない、負けようとしない、そんな君が羨ましい。それに対してぼくはさ、こんな女みたいな顔と身体に生まれて、すごい悔しい思いばかりしてきた」

「そうか……そうだったよな」

 中学に入学したばかりの頃。

 名前でいじめられていた栗山修奈に、クリシュナというあだ名を付けたのは自分であった事を、サーガは思い出していた。

「でもな、クリシュナ。俺こそ、お前が羨ましいよ」

「え?」

「前にも話したろ? ……俺は幼稚園生の頃から習い事、習字、ピアノ、空手……自分のやりたくもない事をたくさん父親にやらされてきた。俺の親父は、英才教育だとか何だとかいって俺の為にやらせてたみたいだけど、子供の立場からすれば地獄同然さ。結果が出さなければ怒られる。試合に負ければ突き放す。失敗すれば愚痴られる。母さんがいなくなってからはさらに酷かった」

「…………」

「そうして中学生の頃に出来上がった俺は、自分の嫌なものだらけで構成されていた。自分の精神が、肉体が、全部嫌だった思い出ばかりで作られてるんだ。何で自分が生きてるのか、まるで分からなかったよ。死にたいだなんて何度も思った。自分が何のために頑張ってるのか、さっぱり分からないからさ。

 でもクリシュナ。お前には夢と未来がある。小説家になりたいって夢」

「正確には童話作家……絵本を作りたい、だけどね。小説というのはその副産物的なものさ。……でもサーガ、君にだって」

「俺には何にもないよ。未来に求める希望とか理想とか、何にもないんだ。いつかこうなりたいっていう夢が。例えもしそれがあったとしても、それは誰か他人に作られたものだから。親父という他人にね」

「だから喧嘩ばかりして、何かから逃れようとしてるの?」

 クリシュナの茶色い瞳が、鋭くサーガを睨んだ。

「ふざけんなよな。誰かを殴って、痛めつけて、それでどこかへ辿り着けたと思ったら大間違いだ。今日みたいな生活をずっと続けていたら、本当にどこにもいけなくなっちゃうんだよ。

 君が大切な友人だから言ってるんだ。もう、暴力だとか乱暴はやめろよ!」

「クリシュナ、俺は」

 サーガはうつむき、喉から絞り出すように呟く。

「誰にも縛られたくないだけなんだ……自由になりたいだけなんだ……」

「…………」

 そんな様子を見てクリシュナもまた、閉口して空を見上げた。

 木々に囲われた空に、青白い雲がゆっくりと左から右へ流れていた。一迅の風が通り過ぎて、広く茂った青葉がざわざわと大きく鳴いた。手についた土の感触は冷たくて、耳の奥では常にどこかで騒ぐ子供たちのはしゃぎ声がこだましている気がした。

 このままどこかへいなくなってしまいたい。

 何もかも嫌な気分になって、サーガはじっと、そんな事を考えていた。

 

 

 ひと時の沈黙がじっと流れた、その直後であった。

「サーガ……ねえ、なんか鳴ってない? スマホ」

「ん?……えっ?」

 クリシュナに言われて、携帯電話のバイブレーションが鳴っている事に、サーガは気付いた。

 ブレザーのポケットに入ったそれを、彼は取り出す。

「何だこれ? 電話じゃない……」

 スマートフォンには、落とし物機能なるアプリの認証画面が映ってる。デフォルトで入っているアプリケーションだが、無論サーガはそれに全く見憶えなかった。

「サーガ……まずいよ。車だ」

 クリシュナに言われてハッと顔を上げる。

 遠くにある神社の入口のところに、一台のパトカーが止まっていたのだ。

 瞬間、サーガの携帯に電話が来る。

 画面には父、の二文字が。

「くそっ! あのクソ親父!」

 すぐさまサーガは電話に出た。

 すぐさま片耳から父親の声が聞こえる。

『凱、何をやっているんだ? 今何をしている?』

「何だよ。何をしたんだよ、俺の携帯に!」

『学校から直接電話がかかってきた。学校の先生に、どうやら暴力を振るったと聞いた。しかも重症だってな。バットやらバールやらの鈍器で殴りつけたんだって?』

 一瞬、サーガは耳を疑った。

 バットで殴りつけただって?

「ちょ、ちょっと待てよ父さん、俺は道具なんて一度も――」

『ふざけるんじゃあない!』

 電話越しに聞こえたサーガの父の怒鳴り声は、クリシュナにもはっきりと聞こえた。

「サーガ、ちょっとまずいんじゃ……」

『学校の女の先生が、校舎裏で倒れてる前原先生という方を発見したんだ。彼からは、凱、お前が鈍器を使って一方的に前原先生に暴力を振るったと、はっきり証言を得ているんだ』

「嘘だ! 俺はただアイツに因縁を付けられて――」

『先生が嘘をつくわけがないだろう! まあいい。こんな事もあろうかとお前の電話にはある保険をかけておいた。お前の場所は分かっている。学校から少し離れた小さな神社だろ? 学校にそれを伝えたら、どうやら警察に連絡したんだという。補導との名目でな』

 冷たい汗がじっと背中に流れるのを感じた。サーガは父の言葉を聞きながら、同時に眼前に映る最悪の光景を直視せざるを得なかった。

 パトカーから二人の男性が降りてくる。

 見るからに警官の姿、手にはトランシーバーで何事か話している。

「……ちら……葉班……通報のあった男子生徒らと思わしき二人組を発見……三人のうち……二人で向かい……」

「サーガ! サーガ! 逃げなきゃ!」

 サーガは足が震えて立てなかった。補導された事は過去に何度かあった。それよりもショックだったのは、実の父が息子を信じずに勝手に携帯電話などに細工をしていたという事だった。

「サーガ! ねえサーガ!」

 袖を引っ張るクリシュナ。だがサーガは震える声で電話に話しかける。

「違うんだ……僕は……僕はただ……殴っただけなんだ! そんな、武器なんて使ってない! 僕は!」

『そんな事何が信じられる? 今まで何度も俺に迷惑をかけてきたお前の言葉に、何の重みがある?』

「佐原くんに栗山さんだね?」

 あと数歩というところまでやってきた警官は、作り笑顔でゆっくりと声をかけてきた。

 クリシュナは立ち上がり慌てて言葉を紡ぐ。

「違うんです! あの、ぼくらは、決して前原先生に、何にも……」

「分かってるよ。取り敢えず落ち着こうか。ちょっとお話を聞きたいだけなんだ、僕らは――」

 警官らとクリシュナが何かを話してる声すら、サーガの耳には届かなかった。呆然と尻をつき、耳に聞こえるのは忌々しい父親の言葉だけだった。

『いいか、社会っていうのはな、信用で人が判断されるんだよ。お前が毎日事件を起こして、父さんを困らせる問題児じゃなかったらお前の言葉も信じられたかもしれない』

 目の前でクリシュナが何か叫んでいる。

 必死に宥め、そしてクリシュナの手首を握り肩を持つ警官の姿。

『でもな、お前は何度も父さんを裏切ってきた。全部お前は裏切ったんだ。小さいころからあんなに習い事をさせて、大切に時間と金をかけてやったのに』

「佐原くん、お父さんと電話中かな? ちょっといいかな?」

目の前に別の警官、だがサーガは動揺で気づかない。

「父さん……違うんだ……僕はただ……」

『違う? 何が違うというんだ?』

「さあほら立って。立つんだよ、男の子だろう!」

 手首を取られ、無理やり立たせられる中、最後の父親の止めの声が、呆けたサーガの胸を貫いた。

 そしてそれこそが、サーガの一番聞きたくない言葉でもあった。


『あんなに大切に育ててやったのに、凱、いい加減大人になりなさい』


 カチリと、サーガの中で何かの歯車が噛み合った。

 

 どすりッ。

 げえ、と目の前の警官が喉を鳴らす。

 サーガ! やめて!

 どこか遠くで声が聞こえる。

 だめなんだ。クリシュナ、もうだめなんだ。

 地面に落とした携帯電話からは、もう何も聞こえない。

 強く握りしめた拳を警官の腹にめり込ませる。

 涙を滲ませたその目はただ色を失っている。

 おい! 暴れるな!

 クリシュナを押さえつけながらもう一人の警官が叫ぶ。

 クリシュナは何事か自分に叫んでいる。

 パトカーからまた一人、警官がこちらへ走ってくるのが見える。

 目の前の警官が口端から唾液を垂らしながらも、掴んでいた手首を離して、大きく右腕を振りかぶったののが見える。

 ぼくは……おれはもう……!

 サーガはそれに対し、強く睨み返した!

 

『俺から自由を奪うな!』


 がつりと警官の拳がサーガの顎にめり込み、サーガは意識を失った。

 

 

――――

 

 数秒後、サーガは目覚める。

「ッ!」

 慌てて立ち上がり態勢を整えた瞬間、

「……えッ……ここどこだ――?」

 何も無い。

 360度一面の無。

 ただ一面の地と天蓋が、絵具をまき散らしたみたいに白く均一に染められた世界。

 サーガは、自分が何もない真っ白な空間に立っている事に気付いた。

 

 

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