#2 第1話「サーガとクリシュナ」①



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 瞳を焼き焦がすほどの夕陽がビルとビルの合間からじりじりと漏れていた。

 東京都目黒区、私立梅原学院、この中高一貫校もまた、この四月の陽に当てられ、校舎壁やグラウンドを燃え盛るようなオレンジ色に染めていた。

 私立梅原学院は、高級住宅街の敷地内に建っているにしては、そこそこの敷地面積を持っていた。校門から校舎沿いに並ぶイチョウ、、一周400メートルのグラウンド、外周1.2キロのピロティ、体育館の前には石造りの踊り場なんかがあり、文化祭の時はここでダンスパフォーマンスを行う生徒が多い。

 敷地の反対側ではテニスコートが6面ありかなり充実している。ぽぉん、ぽぉんと跳ねる硬式のテニスボールの上では、吹奏楽部のパート練習があり、いささかリズムの崩れたメロディがまるでショッピングモールのBGMのように響いている。そしてテニスコート裏、そのイチョウが立ち並ぶ裏門スペースに、まるで誰から忘れ去られたかのような倉庫がぽつんと建っている。 

 私立梅原学院、何ら変わりない普段の放課後の様子であった。

 さて、その倉庫の影に二人の男子生徒が、隠れるように路地裏に潜んでいた。

 背の高い男子と、髪が長く中性的な二人の男子。

 その一方はブレザー姿で壁に背を持たれている。吊り上がった目尻と対照的な大きい黒目はさしずめ猫の目のようだ。前髪は長く目まで届き、後ろ神は襟まで届くもしゃもしゃ具合だ。

 青年の名前は、サーガと云った。

 もちろん、本名ではない。

 本名は佐原 凱という。

 だが彼や彼の友人は、それを縮めてサーガというあだ名で呼ぶのだ。

「ねぇ、サーガ」

 『サーガ』と呼んだもう一人の青年は、バッグを胸に抱え今にもここから逃げ出したい様子であった。

 逃げたい気持ちも当然である。

 サーガの片手には細く白いものが携えられていた――タバコである。

 彼は放課後、人に見つからないような場所で煙草を吸っていたのだ。なるほど確かに、『倉庫裏』は誰も人が来ない絶好のスポットであった。

 しかし、その青年『サーガ』は、煙草を吸うような、所謂『不良』には見えなかった。ブレザー式の学生服は着崩す事は無く、スラックスには新品のように折り目がついている。シャツの第一ボタンはさすがに外しているが、それでもネクタイを必要以上に緩めてはいない。

「なんだよ、クリシュナ」

 濁った瞳でサーガはクリシュナへ首を傾けた。何もかも疲れ切ったかのような、生気の無い目だった。

 クリシュナは一瞬口を淀ませたが、すぐ眉を吊り上げぷんぷんと怒り始める。

「何でここでタバコ吸ってるわけ? 自殺したいの? 吸いたきゃすぐ向こうの公園とかで隠れて吸いなよ。少なくとも先コーに見つかる事はない」

「でもおかげで、一緒に帰りやすいだろう? 待ち合わせのスポットとしても最適だ。むしろ感謝してくれよ」

「待ち合わせスポットじゃない。ぼくが君と一緒に帰ろうとするといつもサーガがここにいるから、自然にそうなったんだ!」

「俺にゾッコンなんだな、クリシュナ」

 そう茶化すと青年は唇に煙草をつけ、一息の後、切れ長の目を細めて、ふぅと白い煙を吐き出した。MEVIUSの8ミリ、吸い込むときは辛いが吐き出す煙のほんのりとした甘さが、ニコチンと共に脳を癒してくれる。

 少年は煙草を心底美味そうに吸っていた。決して大人ぶろうとか、恰好をつけようとかというわけではなかった。

「あきれた」

 心底うんざりした表情でクリシュナは肩を大きく落とした。

 クリシュナ――もちろんこれも本名ではない。

 本名は栗山修奈という。

 クリシュナは身長百六十センチ弱で細めの、少女に見えるような少年だった。背中まで伸びてカールした栗色の長髪に、長い睫毛と赤い唇。サーガと違って、第二ボタンまで解放し、ネクタイは必要以上に緩め、シャツの端はズボンからだらしなく出している。

 中性的な顔つきと大きく着崩した服装がどことなくバランスを欠いているようにみえた。

 彼は話を次いで、

「君は今、自分が危険な状況にあるっていうの知らないわけ? まず校舎内では禁煙、これを犯したら少なくともお説教は免れない。まあこんなものは序の口だけど、重要なのは君が今『執行猶予期間』中だって事だよ。一週間前の大事件、忘れたとは言わせないよ」

「さあ、何の事だったかな?」

 サーガはもう一息紫煙を吐いてとぼけた。

 クリシュナは大きくため息。

「何ってもう忘れたの!? 一週間前の大喧嘩だろ? 体育の時間に先生の目の前で田中と藤木を叩きのめしたじゃないか。おかげであいつらは今も病院に通院してるんだよ。全治二か月の重傷さ」

「ああ、あの事か」

 さも思い出したかのように呟くサーガだったが、実はしっかりと記憶していた。

 先週の火曜日の三、四限目、体育の時間でバスケをしていた時だった。

 サーガは試合中突然、ささいな事から同チームのクラスメイトと喧嘩になった。サーガは過剰に相手にダメ―ジを与え、二人を病院送りにしたのである。

「なんであんな事したんだよ。おかげで授業は中止になるし、君は何時間もお説教くらって、二千文字の反省文に三日間の自宅謹慎もおまけにくらったんだろう?」

「そんな事もあったな」

「君が心配なんだよ」

 クリシュナは土から尻を離して立ち上がった。

「最近のサーガは、何か、何というか……自分を傷つけてるみたいだよ。特に高校二年生になってからは、無駄に同級生に喧嘩を吹っかけて、どっから帰ってきたかと思えば顔中血だらけになってる。先生達にも反抗的になってるしさ」

 クリシュナの透き通った言葉を聞きながら、サーガはもう一本煙草に火を付けた。

 クリシュナは親友だ。

 彼の言い分にも一理ある、とサーガは感じていた。

(最近の俺は、いつも以上におれ自身の敵を許せないと思っている。精神と肉体のずれが軋んで、それで荒れてしまっている)。

 自覚はあった。しかしそれが何故起こるのか、あるいは言いようのないもやが、どこからやってくるのか、彼には判別つかなかった。

 サーガの背中の方でエアコンの室外機がぶぅぅんと鳴り続けていた。そのファンの中で、石か屑かが混ざっているのか、時折カラカラと不快な雑音を起こした。そこら一体は室外機のせいで、ムワムワと嫌な熱気がこもっていた。

 サーガは、そんなところにはいたくなかった。

 こんなところにいるべきじゃなかった。

「俺は、こんなところにいるべきじゃないんだ」

 ほろり、とサーガの口からそんな言葉が漏れだした。

 中学以来の親友であるクリシュナ以外には、絶対に打ち明けない悩みだった。

「『こんなところ』」

 クリシュナがおうむ返しに訊いた。真剣な眼差しでサーガを見つめている。

 対し彼は視線を返せず、代わりに地面を睨みつけながら話す。

「……どこまでいっても縛られている気がするんだ。どこにいても監視されているような気がするんだ。俺たちは大学へ行って、良い所に就職して、人並みの幸福ってやつを探しながら働いて、それが当たり前みたいになってる。けど……俺にとっては束縛みたいなものだ」

「この学校じゃ皆そうさ。東大や東工大を目指して、今から受験勉強を初めてるってやつもいる。まだ高三の春だっていうのにさ」

 同意を含めたクリシュナの言葉。彼らが通う学校は中堅レベルの進学校であり、濃密な教育を生徒は受けている。

「俺にとっては、ここは石で出来た檻の柱なんだ」

 サーガは空を見上げた。

 視界の中心には古く色あせた校舎が写り、端に行くにつれて高層ビルやマンションが、まるで空から生え伸びているかのようにそびえ立っている。

「どこまで行っても石の檻が俺を縛ってる。だから俺はどこかに行かなければいけないんだ。俺を縛る全てのものから解放されるために」

「それは、サーガの父親の事?」

 キッ、とサーガの目が細長く光り、クリシュナを睨みつけた。それは、幾多もの学生を再起不能にしてきた、情け無用の喧嘩殺法の現れだった。サーガにとって、父親は触れてはいけないタブーの一つだったのだ。

 だが、クリシュナはひるまなかった。そういう意味ではクリシュナもまた強い芯を持った青年であった。

「いつかサーガは、『父親を乗り越えなければいけない』んだ。ずっと逃げているわけにはいかないんだよ」

「それは、分かっているッ」

「いつかお父さんに立ち向かわなければ、サーガは一生ここから動けない」

 クリシュナの言葉にサーガは閉口し、地面を睨みつけるしかなかった。彼の両拳は強く握られ、やり場のない鬱屈とした怒りや悲しみ、理不尽さに支配されていた。進路も、生活も、未来も、全て縛られている。思い通りに出来ない、そんなフラストレーションの捌け口を、サーガは求めているのであった。

 

 

「サーガ」

「…………」

「サーガってば!」

「えっ?」

 考え事をしていたせいで、サーガはしばらくクリシュナの声に気付かった。

 顔を挙げる。

 血相を変えたクリシュナが遠くの方を見ていた。

 視線の先には校舎裏のいわば出入り口、曲がり角の方に、誰かがいるのが見える。

(げっ)

 心のうちで唸った。

 いつの間にか、サーガ達の数メートル先に、一人の教師がやってきていたのだ。

 逆光で見えづらいがその大柄な体格の正体を、彼らは嫌でも知っていた。

「お前ら……一体何やってるんだ? ええ?」

「前原……先生……」

 にやにやといやらしく歪んだ無精ひげが、サーガ達を睨んでいた。

 理科の教師でバスケ部の顧問も兼任している、前原という教師だった。

 前原はまるでお気に入りのおもちゃを貰った子供のような嬉しさを露わにして、口を開いた。

「よぉ、佐原君、それに栗山君。二人で何をこそこそしてるんだ? ん? それはなんだ? 先生にはお前の右手に、どうやら煙草のようなものがあるように見えるような気がするんだがなぁ」

「…………」

「そうだ、それは煙草だな。明らかに完璧に完全に煙草、煙草だな。しかし変だな、ここは学校だし、ああそうだ、煙草っていうのは二十歳以上じゃないと吸えないんだっけ?」

 二人は黙ったままである。

「知らなそうだから教えといてやるが、煙草っていうのは二十歳以上にならないと買えないし吸えないんだぜ。さて、佐原君は幾つだったかな? ええ? がい君は一体なんちゃいですか? いったいがいくんはなんちゃいだったんですかねぇ?」

「先生、この、それは」

 クリシュナが制する、が――

「何歳だって聞いてんだよッ」

 ――それを無視して前原が大砲のような怒鳴り声をあげた。

 さっきまでのにやつき顔はすっ飛んでいる。バスケ部員を校則に従順する傀儡に仕立て上げた、その鬼のような形相が、二人を捉えていた。

 クリシュナは作り笑いが固まったままである。

 しかしサーガは顔色一つ変えず真っすぐ前原を見返している。

 睨み合いは数十秒程度続き、前原の方が先に口を開く。

「……自分の年齢も答えられないのか、ええ?」

「…………」

「兎も角、お前ら教員室に来い。どうなるか知らんがお前ら『二人とも停学』だろうな。ざまあないぜ」

 かちり、とサーガの中で歯車が鳴った。

『二人とも』、だって?

「待てよッ」

 サーガは大きな声で前原を呼び止める。

「咎められるのは俺だけのはずだ。クリシュナは何にもしていない」

「はぁ?」

 前原は小馬鹿にするように鼻を鳴らした。

「何言ってんだお前。お前らは二人とも同等の罰を受けるって言ってんだよ」

「クリシュナは吸ってねえ。ただ俺の隣にいただけで、無実だ」

 クリシュナは交互に二人を見つめる。彼の心臓はバクバクと鳴っている――すでに彼は、サーガが半分キレている事に気付いていたのだ。

「そんな事信じられねえよ。佐原。栗山をかばってるだけだろ?」

「クリシュナは吸ってない。俺にただ付き合っていてくれただけだ」

「だからなあ、先生はそんな事知らねえっていうんだよッ」

 段々と前原の語気が強くなる。イライラしてきたのか右足が一定のリズムで上下し始める。

 対しサーガは一見冷静、論理的に言葉を紡ぐ。

「俺からは煙草の臭いがするだろうが、クリシュナからはしない。臭いを嗅いでみれば分かる。俺の言ってる事が本当だって分かるはずだ」

「分かんねえかなあ、佐原ァ」

 前原は頭をがりがりとかきむしって、サーガ達の元へ歩き始める。百八十センチの巨体がずんずんと圧をかけ、ついにはサーガの鼻先にまで近づく。

 クリシュナだけが口を一文字に結んで後ずさった。

「佐原君」

 囁き声のような前原の語りぶりは、明らかにサーガを子ども扱いするように挑発していた。

「栗山が煙草を吸っていようが吸っていまいがな、どうでもいいんだよそんな事は。ついでにお前が本当に煙草を吸っていたかどうかだってさえ、どうでもいい。社会っていうのはな、信用で人が判断されるんだよ。お前が毎日事件を起こして、俺達を困らせる問題児じゃなかったらな、こんな事にはなってねえんだ。栗山、お前もだぞ、社会不適合者の悪ガキと話してるから、お前の信用も無くなるんだ」

 そして前原はサーガににやりと笑いかけて、心底人を見下すようにぽそりとつぶやいた。

 

 

「片親の息子だから不幸な主人公気取って何でもしていいと思ったら大間違いだぞ」

 

 

 その言葉が、サーガの逆鱗に触れた。

 サーガの右手から何かが高速で飛びだした。

「あッ!」

 クリシュナが突き動かされるように叫ぶ。

 それは煙草の吸殻であった!

 吸殻は直線軌道で前原の顔にひょいと当たる!

「!」

 突然の出来事に前原は、誰もがするように反射的に目を瞑った。

 顔に小物を飛ばされた人間としては当然の行為――しかしその時! サーガはすでに身体の構えを取っていた。

 左足を大きく前に出し、身体を大きくねじって、右ストレートを発射寸前までため込む!

 それを前原は、視界は半分不能であったが瞬時に察知した

(殴るのか! 教師の俺を!)

 サーガが喧嘩を売ってきた!

 自動的に前原の両腕が持ち上がった。

(舐めやがって!)

 学生時代は運動部、今でも日々の運動で身体を鍛えている前原、しかも相手は身長差十センチはある発達途上の十代だ。前原からすれば、赤子の手を捻るようにサーガを叩きのめせるはずだ。

 ――と、確信していた。

 しかし、ここではっきりさせておこう。

『喧嘩』の勝敗を決める最も重要な要素は、決して『肉体能力』でも『技術』でもない――『殺意』である!

「ッ!」

 サーガの右腕が炸裂した。

 拳が弾丸の如く飛びだす!。

 それは完全なる一〇〇%の力で発せられた打撃であった――倫理観などのフィルターが邪魔するゆえに、人は、人を一〇〇%の力では殴れない、無意識的な罪の意識によって力が『セーブ』される――

 だがサーガにはその『倫理的リミッター』が無かった。

 前原はその『殺意』に、思わず手をガードに持っていった。

 ――だがもう遅い、サーガの拳はその隙間をいとも簡単にすり抜けた。

 それは誇張なく弾丸のようなスピードの突きであった。

「あぁッ!」

 グシャッ! 拳の打突音とクリシュナの叫び声が重なった。

 拳は前原の鼻を完璧に砕いていた。

「うげェッ!」

 前原がうめき声を小さく上げた。

「クソッ! お前ェ!」

手は完全に鼻を抑え、目には涙が浮かんでいる。

 突然の激痛、戦闘意欲を削るには十分すぎるほどであった。これはサーガの狙い通りであった。鼻を狙った理由の一つ――比較的神経が集まった鼻は、痛みを与えやすい。

「ちょっと、サーガ、まずいよ!」

 クリシュナが声を上げたがサーガの耳には届かない。不器用な少年であるサーガは、すでに頭に血が上っている。

「黙ってろ、クリシュナ。こいつは俺を縛り、束縛する男だ」

「調子のんじゃねえクソガキィッ!!」

 お返しとばかりに前原の右フックが飛んできたッ! ――高身長から放たれるそれに、サーガは態勢を整えるのが間に合わず――

「……ッ!」

 テンプルへの右フック!

「サーガっ!」

 サーガの左頭が陥没するかの痛みを帯び、脳みそが大きくシェイクされた!

「ふふっ……」

 脳への攻撃のため足元をふら付かせるサーガだったが、何故か彼は不敵にも笑っていた。

「そんなもんかよ……前原センセ」

「お、お前!」

 その不気味さに叫ぶ前原だったが、ふと鼻から流れる熱いものの存在に気付いた。

 両手が真っ赤な液体に濡れている。

 日常生活では見られない大量の鮮血。

 その普通ではない血の量に――そんな出血量で死ぬわけがないと分かっているのに――

 前原は激しく動揺した!

「てめェーーーッ!」

 数秒『ビビって』しまった――『恐怖』したのである!

 瞬間、サーガの身体がゆらりと動いた。鼻を狙った理由はこれもあった、大量の血液、そのスキを見逃すサーガではなかった。

 前原が構え直すよりも早く、サーガは身体を前傾させる。

「くそッ! いい加減に――」

 前原の構えよりも早く、右拳で追撃――

 ごすっ!

 鳩尾への一撃!

「ぐふェッ」

 唾と共に、前原の口から大量の空気が漏れ出た。

 息ができず、前原はたまらず背中を丸める。

 しかしサーガはまだ容赦はしない。髪の毛を掴み――

「ッ!!」

 ――勢いをつけて顔面に膝蹴り!

「ぅぅい」

 前原はうめき声を小さく上げて地面に倒れた。

 倒れた前原の元に立ち、サーガはさらに追撃をいれた。

 ガッ! ガッ!

 つま先で横腹を蹴り飛ばす。

「アッ……」

 人間のあばら骨は実の所割箸程度の強度しかないという話があるが、そうでなくともサーガは前原の肉体を完全に再起不能に追い込んだだろう――サーガの勝利であった。

「もうやめろ! サーガ!」

 何度も蹴り飛ばすサーガに、クリシュナの怒声が入った。

 サーガはそれでようやく攻撃を止めて、クリシュナの方を見た。

 クリシュナは口を真一文字に結んで、サーガを睨みつけていた。握った両拳がプルプルと震え、目には少しばかり涙も浮かんでいる。対してサーガは苦い表情である。

「お前頭おかしいんじゃないか!? 前原先生をこんなにして……これじゃあ本当に停学になるよ!」

「……こいつは、俺を、俺ばかりかクリシュナまで馬鹿にした。しかも理不尽な理由でだ。理不尽な理由で俺達を縛った」

「そんなの気にしなければいいじゃん! 謝れば良かったじゃん! 何度も頭を下げて!」

「それは違う!」

 サーガは悲痛な声を上げる。しかしクリシュナも負けず叫ぶ。

「何がどう違うんだよ!」

「それは……」

「説明してみろよ! こんな事してさ、これじゃあ本当に停学になっちゃうよ!」

「……退学……だ」

 二人は同時に声の主に振り向いた。

 顔面血だらけの前原が倒れたまま、顔だけこちらを見ていた。

 二人、息を飲む。

 前原は不気味な笑顔を浮かべた。

「佐原……お前は……退学だ……中卒に……なるんだよ……ええ? お父さんが……困るんじゃないか? 高い学校に……入れて……」

 父親を持ち出され、サーガは再び拳を握りしめる。

「親父は……関係ない!」

「どちらにしろ……お前の……未来は……お終いだ……何もかもな……お前は一生……地の底で這い続けるんだ……親不孝ものめ……お前は一生……『くらやみ』に縛られる……」

『くらやみ』に縛られる。

 その言葉が強くサーガを動揺させた

「に、逃げよう」

「えっ?」

 サーガの言葉にクリシュナは聞き返す。見れば、サーガは顔を真っ青にして震えている。

「逃げるんだ。ここにいたら、誰かに見つかる、兎に角、ここから」

「逃げられない……お前は……」

 うめき声で前原は返す。クリシュナは一瞬迷ったが、すぐに親友の言葉の応えた。

「分かった。逃げよう、サーガ!」

 ふらふらと目眩に似た足取りのサーガを、クリシュナは激励する。

「ほら、荷物を持って!」

「お、おう……」

「ほら!走るんだ!」

 クリシュナの濡れた左手が、サーガの血のついた右手を握った。

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