第88話 花屋の娘

…全然寝れねぇんだけど。

あれから一睡もできていない。当然だ。楓さんと凄い事しちゃったじゃん。抱き合ってる段階で既に相当だけどさ、ポジションが問題だよね。顔に胸があんだよ?まだがっつり感触あんだけど。今だからぶっちゃけるけど、俺さ、座ってなかったら大変な事になってたよ?もうビンビンだったもん。立ってたら勃ってるやつ楓さんに押し当てて変態として捕まってたよ?

でもね、それは童貞あるあるだと思うんだよ。俺みたいな童貞は女性と抱き合った事なんて無い。そんな免疫無い奴が女性と触れ合っちゃうとそれだけで反応しちゃうんだよ。

もう朝になってみんな動き出してるのはわかってる。でも楓さんとどんな顔して会えばいいんだよ。楓さんだって気まずいだろ。

でもさ…あんな事するって事はさ…楓さん俺の事好きなんじゃね?だよな?でなきゃあんな事しなくね?て事はだよ、楓さんが俺の彼女になんの?マジか。マジなのか!?あんな超絶美女が俺の彼女!?ヤベーなそれ!?人生大逆転じゃん!?

これから何て呼べばいいんだ?男らしく楓か?それとも楓ちゃん?楓たん?困ったな。どれで行けばいいんだ?


そんな事を悶々と悩んでいると、とうとう美波が起こしに来る。


「タロウさんっ!起きて下さいっ!朝ごはんできましたよっ!」


マズイぞ。考えが纏まってないのに楓たんと顔を合わせないといけない。ええい、ままよ!!


「おはよう美波。」


「おはようございますっ!朝ごはんできてますっ!」


「ありがとう。何だかお腹すいたよ。」


そりゃあそうだよな。がっつり起きてるから腹もぐーすか鳴いてるよ。


「みんなもう座ってますっ!」


「よし、じゃあ行こうか。」


うし、楓たんに会いに行くか。


美波と一緒に部屋を出てキッチンへと向かう。昨夜楓たんと抱き合った場所だよな。何だか照れるよな。ヤベー緊張してきた。

別にお屋敷に住んでる訳ではないのであっという間にキッチンに着く。心の準備は出来てないが仕方ない。

俺は意を決してキッチンの戸を開く。


「おはようございます!」


アリスが元気よく俺におはようの挨拶をする。


「おはようアリス。」


さて、楓たんだ。きっと楓たんは恥ずかしがって俺と目も合わせられないぞ。顔も真っ赤にする筈だ。それでモジモジしながら『お、おはようございます…その…いい天気ですね…!』みたいな感じになるに違いない。楓たん萌えー!!


「おはようございますタロウさん。タロウさんもコーヒーでいいですか?」


「え?」


あれ…?おかしいぞ…?いつもと同じキリッとした顔でコーヒーを淹れている。恥じらい顔なんて全くして無い。目もばっちり合わせてる。モジモジどころか背筋ピシッとしてる。完全にいつもの楓さんだ。


「コーヒーの気分ではありませんか?」


「い、いえ!コーヒーで大丈夫です!」


「わかりました。」


あっれー?普通は現場にいたら恥ずかしくなるよね?思い出しちゃうよね?だって俺は今恥ずかしいぞ。

まさか…夢なんてオチじゃないよな…だって感触だってあるんだぞ…そうだ!!缶だよ缶!!ビールの缶!!アレがあれば昨夜に楓さんと飲んでいた事を証明できる。確か流しの傍に置いて…無い…ビールの缶が無いっ!?そんな馬鹿な…祝勝会で飲んだ美波とアリスのジュースの缶は置いてある…それなのにビールの缶だけ無い…

えっ!?マジで夢なの!?あんなリアルな夢あんの!?クッソ恥ずかしいんだけど!?楓たんとか呼んでたんだけど!?うわ、マジかぁ…夢なのかよ…言われた事が嬉しかったから楓さんの夢見たのかなぁ…ショックだわー…


「じゃあ食べましょうか!」


「あ、うん…そうだね…」


「「「いただきます。」」」


「いただきます…」


ショックだわー。


「楓さんは何時頃に帰られるんですか?」


「夕方の電車に乗って帰るつもりよ。」


「なんか寂しいです…」


「そうだよね…」


「ウフフ、ありがとう。なるべく早く転属できるようにするし、週末はまた来るから。」


「1週間後かぁ…長いなぁ…」


「そんなに可愛い事言うと2人の事抱き締めちゃうわよ?」


「私も抱き締めちゃいますっ!」


「私も!」


朝メシそっちのけで3人がキャッキャしながら抱き合っている。いいなぁ…俺も抱き締められてぇなぁ…感触あんのになぁ…


「楓さん、すいません。今日は日曜なので俺は朝から仕事だから見送りに行けません。」


「お仕事ですから仕方ありませんよ。気にしないで下さい。」


「ありがとうございます。そうだ美波、今日は新規の生徒の家庭に行くからいつもより帰りが遅くなるよ。家に着くのは9時ぐらいになると思う。だから夕飯は先にアリスと食べていてね。」


「わかりましたっ。でも私はタロウさんが帰って来るまで待ってますよ。」


「私も待ってます!」


「気を遣わなくていいんだよ。時間が遅くなるから食べてなよ。」


「私はいつも待ってるので問題ありませんよ。」


「うーん。じゃあ美波はわかったけどアリスは食べなよ。」


「待ってます!一緒にご飯は食べたいです!待ってるのなんてつらくありません!」


ええ子やなぁ。わかった!オッちゃんがアイスの他にデザートも買って来ちゃるからな!

…デザートってオッさん臭いかな。スイーツじゃないとヤングっぽくないか?


「わかったよ。ありがとう。2人は優しいな。」


俺は美波とアリスの頭を撫でる。2人が嬉しそうにしてくれてるのを見るとホッコリするな。


「さてと、じゃあそろそろ行くよ。楓さん、気をつけて帰って下さいね。」


「ありがとうございます。タロウさんも気をつけて。」


「ありがとうございます。じゃ、行って来るね。」


「「「行ってらっしゃい。」」」






ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー






「さてと、これで今日の仕事も終わりか。」


新規の授業も問題無く終わり、後は家に帰るだけとなった。指導先は初めて来た場所だから新鮮味がある。

自宅からの最寄駅である小山駅からは3駅しか離れていないが福島県になるので今まで来た事は無かった。


「ケーキ屋でもあれば良かったんだけどな。それどころかスーパーも駅前に無い。田舎は郊外にモールとかが進出しちゃうから駅前が寂れちゃうんだよなぁ。」


仕方ない。小山駅に着いたら行きつけのコンビニでデザート…じゃなかった、スイーツを買って帰ろう。いつものオッさんいるかな。生姜焼き弁当食ってるかな。


そんな事考えながら清水駅に向かっていると一軒の店に目がいった。


「へー、花屋か。凄い良い雰囲気だな。フラワーショップ島村か。」


俺は花に興味がある訳では無い。当然花屋に入った事は一度も無い。でも、この店の出す雰囲気に惹きつけられてしまった。豪華とか大きいという訳では無い。こじんまりとはしているがメルヘンチック且つノスタルジックな造りで、懐かしい古き良き時代の店構えをしている。


俺は入ってみたいという好奇心に駆られて店の戸を開いた。

店内に入ると花の良い香りや、土の自然の香りで満ちていた。照明は明る過ぎず暗過ぎずの絶妙な自然の明るさを再現している。内装はログハウス風になっており、自然との融和が行われている。商品である植物たちは、小さなガラスのケースに生花が入られ、棚には鉢植えが多く置かれている。まるで植物園の中のような幻想的な店内だ。

すると奥から店員と見られる女性が姿を現し挨拶をしてきた。


「いらっしゃいませ。」


とても美しい女性だった。歳は美波と同じか少し下ぐらいだろう。恐らくは天然の色であろう薄い栗色が艶やかな黒色と融和し、見る者を虜にする長い髪をしている。顔のつくりは美しい以外の言葉は不要といってもいいぐらい整っている。俺が一番惹きつけられたのは瞳だ。その柔らかな眼差しには慈愛が満ちている。だが時折見せる哀しげな瞳が俺の心を惹きつけた。俺はその瞳から目が離せなかった。


「あの…?」


「あ、す、すいません。ぼーっとしてしまいました。」


何やってんだよ俺は。恥ずかしいな。朝から恥書いてばっかりだ。それにしても美波や楓さんと同等の美女がまだこの世に存在するなんて思わなかったな。


「何かお探しでしょうか?」


「すいません…これといって探してる物があるわけではないんです。お店の雰囲気が良くて惹かれて入ってしまいました。花屋さん自体入ったのは初めてなんです。あ!でも冷やかしじゃありません!ちゃんと買います!」


言ってから気づいた。何言ってんの俺。そこまで言う事ないじゃん。オススメありますかーって聞けば良かっただけだろ。また恥書いたじゃねぇか。


そんな俺を見てか店員の女性は笑い出した。本当に恥ずかしい。


「正直な方ですね。」


「…お恥ずかしい。」


「でも惹かれて入って頂けたのでしたら嬉しい限りです。ご迷惑でなければ私がお見繕い致しましょうか?」


「ぜひお願いします。」


「かしこまりました。どのような花が好きとかございますか?」


「小学校の時に朝顔を育てたぐらいしか経験が無いので特に何が好きっていうのは…あ!でも花は好きです!本当です!」


子供みたいな物言いに我ながら失笑してしまった。ホント何してんの俺…


「ふふ、本当に正直な方ですね。」


「…度々お恥ずかしい。」


「贈答用ではなくご自宅で育てられるんですよね?」


「はい。」


「ご予算はおいくらぐらいでしょうか?」


「それはお任せします。店員さんの好きな花でしたらきっと良い花だと思いますので。」


「ふふ、ありがとうございます。ではこちらではどうでしょうか?」


店員の女性が勧めてきたのは薔薇のような花だった。でも薔薇では無い。何となく雰囲気が違うし棘が無い。だが凄く綺麗な花だ。その絢爛に咲き乱れる様に俺は一目で魅了された。


「凄く綺麗な花ですね。一目惚れしました。何という花ですか?」


「牡丹です。私はこの花が大好きなんです。実は私の名前もこの花と同じ牡丹と言います。牡丹の花言葉は誠実。父が牡丹のように美しく誠実な人間になって欲しいと願いを込めて付けてくれました。私にとってこの花はとても特別な存在です。」


「お父さんの想いが伝わる良い名前ですね。そしてその願い通りに成長された。お父さんも鼻が高いでしょうね。」


「いえ、私なんてまだまだです。名に恥じない人間になれるように精進しております。そうすれば父も喜んでくれるかな…」


牡丹さんは少し悲しげな顔でそう話した。俺はその表情が気になってしまい考えも無しに尋ねてしまった。


「お父さんに何かあったんですか?」


「…父は半年前に亡くなってしまいました。」


「すみません…」


俺はすぐさま後悔した。今日は一日何やってんだよ。調子悪すぎだろ。


「気になさらないで下さい。もう受け入れてますから。」


受け入れているとは言ったが俺にはそうは思えなかった。牡丹さんからはお父さんへの想いが溢れているように俺は感じた。だが、ただの客である俺がそんな事を言うのはお門違いだ。俺はそれには触れない事にした。


「この花…牡丹を頂けますか?」


「よろしいのですか?」


「はい。店員さんが進めてくれたのですから間違いは無いと思います。何より僕が一目惚れしましたから。」


「ありがとうございます。ではお包み致しますので少々お待ち頂けますか。」


「わかりました。」


牡丹さんが花を持ってカウンターに行ったので店内を少し見て回った。良い匂いがする。花っていいな。ハマりそうだ。でも勢いで買っちゃったけどちゃんと育てられるのかな。美波に聞けばわかるかな。


そんな事を考えている間に牡丹さんが戻って来る。


「お待たせ致しました。3480円になりますがよろしいでしょうか?」


「はい。5000円でお願いします。」


「お預かり致します。では1520円のお返しになります。中に水やり方法などを書いたカードを入れておきましたので宜しければ参考になさって下さい。」


「ご親切にありがとうございます。育て方がわからなかったので助かりました。」


「よかった。喜んで頂けたのなら嬉しいです。」


牡丹さんは笑顔で俺に言った。彼女の笑顔はとても可愛い。でもどうしてだろう。どうしても彼女からは儚さが出ている。失礼な言葉で言わせてもらえば悲壮感が彼女にはある。でも他人の俺がそんな事を思うのは筋違いだ。考えるのはやめよう。


「大事に育てます。ありがとうございます。」


電車の時間も迫っていたので俺は店を立ち去る事にする。


「ありがとうございました。是非またいらして下さい。」


牡丹さんに別れを告げて俺は店を出た。

店の戸を閉め振り返ると、人相の悪い男が3人立っていた。何だろうと思っていると男たちは俺を押しのけて店に入って行く。


こんな男たちが花屋…?


すごく不自然だ。あまりにも似つかわしくない。

俺は気になったので店外から中の様子を伺う事にした。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





店の戸が開く。客が入って来たのかと思い、島村牡丹が挨拶の声を出す。


「いらっしゃいまーー」


牡丹は来客者に気づき声を止める。


「いらっしゃいましたー!!」


「おう、邪魔すんぜ。」


人相の悪い男たちが店内に押し入る。男たちは我が物顔で店内をうろつき始める。


「…何の用でしょうか。」


「おいおい牡丹ちゃん。そりゃあねぇんじゃねぇのか?今月分の利息がまだなんじゃないかい?」


「…わかっています。月末までには何とかご用意致します。」


「月末ねぇ。本当に用意できんのか?ちっとも儲かってねぇじゃねぇか。」


「……」


牡丹はその問いに答える事が出来ない。事実、店の売り上げは思わしくなかった。近年、ガーデニングをする者たちは安い大型店やネットショップで購入する傾向にある。個人経営の花屋では結婚式場や葬儀屋と提携しなければやっていくのは非常に厳しい。先代を失ったフラワーショップ島村ではそのコネクションを維持する事が出来ずにいた。


「なぁ牡丹。もうこの店を手放しちまった方が楽なんじゃねぇか?お前も苦しいだろ?」


「…店は手放しません。」


「ならよ、俺が良い仕事紹介してやるよ。お前ならそんな借金すぐに返せるようになるぜ?どうだ?」


「やめて下さい!!牡丹に変な事を吹き込まないで!!」


店の奥からパジャマ姿の中年の女性が現れる。


「お母さん!?」


牡丹が母親の元へと駆け寄る。


「寝てないと駄目じゃない!!ここは私がーー」

「いいから!!黙っていなさい!!」


牡丹の母が男たちのリーダー格の男の前に立つ。


「借金は必ず返します。ですから牡丹に変な事を吹き込むのはやめて下さい。」


「ふぅ…島村さんね、借金返す返すって言いますけどいつ返すんです?返せないでしょ?俺たちも馬鹿じゃねぇんだ。おたくの店の経済状況は調べてんだよ。だったら店を売るか、娘を売るかしかねぇだろ?」


「…どちらも選びません。」


「チッ。俺たちも甘く見られたもんだな。オイ、ちょっと怖い目みしたれや。」


「ウス。オラァ!!!」


男たちが店内を荒らし始める。鉢植えやテーブルなどをひっくり返し、店内には鉢が割れる音が響き渡る。


「やめて!!!」


牡丹の母が男たちを制止しようと体に掴みかかる。

だが、


「すっこんでろババア!!!」


「ああっ…!!」


牡丹の母が男に突き飛ばされ、床に叩きつけられる。


「お母さんッ!?」


牡丹が母親に駆け寄る。母親の体を抱き起こし店の奥側に避難をする。男たちはそれを見ると顔をニヤつかせながら続きを始めようとした時だった。



「おい、警察を呼んだからな。」


田辺慎太郎が店内へと入って来る。警察というワードを聞き、下っ端の男たちが狼狽え始める。


「龍崎さん…どうします…?」


「チッ…引き上げんぞ。」


男たちは俺の体に肩をぶつけながら出て行く。痛えなこの野郎。楓さんに頼んで訴えんぞ。


「あ…先程のーー」


牡丹さんが喋ろうとする。だがその時、牡丹さんのお母さんが倒れてしまった。


「お、お母さんッ!?しっかりしてッ!?」


「牡丹さん!!身体を揺すらないで!!救急車呼びますから!!落ち着いて!!」


俺はすぐさま119番通報し、牡丹さんとともに病院へと向かった。

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