時は過ぎゆく
街で一通りの用事を終えたリシュリオルとラフーリオンは直ぐに牧場に戻る事にした。
石畳の街道を二人並んで歩いていると、行きと同じように、アリゼルとレグリスがリシュリオルの影から、ぬるりと現れた。
「なんだ? このまま静かにしていて欲しいんだが」リシュリオルは道を塞ぐように浮かぶ精霊達を見て言った。
「静かにしていたのは、レグリスと作戦を練る為ですよ。あなた達に悟られないようにね」アリゼルがほくそ笑む。
「仲良くやってくれていて、大変結構」リシュリオルはつまらなそうに精霊達に言った。
「仲良くはない。そして、残念だが牧場に戻る事はできない。なぜなら……」
勝ち誇ったように話していたレグリスの言葉が途切れる。彼の視線はリシュリオルとラフーリオンの背後に向いていた。
振り返ると、そこにはシュナスェールが立っていた。黒いドレスではなく、青い作業着を着ている。作業着姿のシュナスェールを見て、昨日汚れる作業をしていたのはラフーリオンだった為、彼女は黒いドレスを着たままだった事を思い出した。
「おかえりなさい」シュナスェールの灰色の瞳が精霊達を見つめる。
「……」
小うるさかった精霊共は無言でリシュリオルの影の中に戻った。一体シュナスェールの何が精霊をここまで恐怖させているのだろう。
「シュナさん、何かあったんですか?」ラフーリオンは、牧場にいる筈だったシュナスェールが街道まで出向いてきている事を案じた。
「羊に……」遠くを見つめるシュナスェール。涼し気な表情をしている。
「羊に? なんですか?」問い詰めるラフーリオン。シュナスェールの視線の先を見てみると、一匹の羊が歩いていた。
「逃げられました」
「またですか」ラフーリオンは額に手を当て、大きなため息を吐いた。
「ええ」シュナスェールはまるで、私に落ち度はありません、とでも言うようにその表情を変えなかった。
リシュリオルが詳しい話を聞いた所、以前にも似たような家畜の逃亡事件があったらしい。(きっと精霊と同じで、動物もシュナスェールの事が恐ろしいのだろう)その時はラフーリオンが体調を崩し、床に伏していたのだと言う。
ラフーリオンが来る前はどうやってこの牧場を運営していたのだろうかと考えたが、直ぐに彼女の真の役割を思い出して、理解した。
ラフーリオンがこの牧場に来る前にも、別の異界渡りがいたのだろう。きっとその人物の力を借りて、この牧場を営んでいたのだ。そして、その異界渡りも穏やかな死を望んでいたに違いない。ここはそういう場所なのだから。
リシュリオルはラフーリオンに待ち受けている運命を思い出し、やりきれない虚しさを覚えた。
逃げた羊の確保は、ラフーリオンの手に任せられた。リシュリオルとシュナスェールは途中まで彼の捕獲劇を見ていたが、それもすぐに見飽きて、先に家に戻る事にした。
シュナスェールの隣を歩くリシュリオル。互いに言葉を口にしないので、沈黙が続く。はっきり言って、この沈黙の時間は気まずかった。数回、シュナスェールの顔色を伺ってみたが、彼女はただひたすら家の方を見ながら、黙々と歩いているだけだった。
ふと彼女の左手の薬指にはめられた指輪に目が留まる。結婚指輪という奴なのだろうか。それが何なのか尋ねようかと考えたが、なんとなく触れてはいけない話題のような気がして、言葉にするのは躊躇った。
「この指輪は、この牧場ができた時に貰った物です」
リシュリオルの視線に気付いていたのか、シュナスェールは左手の薬指を見ながら、独りでに話し始めた。突如として放たれたシュナスェールの声にリシュリオルは思わず息を呑む。だが、折角向こうから振ってきてくれた話題を止める訳にはいかない。
「……え、えっと、それは……、その指輪は、誰から貰ったんですか?」驚きは直ぐには消せず、リシュリオルは辿々しく尋ねた。
「私は、私の今までの人生の中で二人の人間を愛しました。一人は男性、もう一人は女性です。この指輪をくれたのは男性の方。ああ、女性の方は『愛している』が正しいかもしれないです。まだ何処かで生きている筈ですから」
「……そ、そうなんですか」いきなりこんな事を話されても、何を言ってやればいいのか分からない。
「彼は、初めてこの地に訪れた異界渡りでした。そして、私がこの世界の方針を決めるきっかけでもありました。そういえば、この牧場を始めようとしたのも彼です。何千年前の話だったか……。今となっては懐かしい思い出ですね」
何か……。何か話のスケールがおかしくなってきている。
「あ、あの……」リシュリオルは恐る恐る手を上げた。
「なんでしょう」シュナスェールはけろりとしている。
「聞きたい事だらけなんですが、取り敢えず一つだけ質問させて下さい。……シュナスェールさんはおいくつなんですか?」
「それは……」
シュナスェールからの答えを固唾を呑んで待つリシュリオル。しばしの時間を経て、彼女は遂に言葉を発した。
「……もう家に着いてしまいましたね。この話はまた今度にしましょう。夕食を作らなければなりませんし」シュナスェールはそう言うと、リシュリオルを置いて、家の中に入ってしまった。
「え、あの……」もう彼女に声は届かない。
あまりに腑に落ちないシュナスェールの返答に、リシュリオルは呆然と立ち尽くす事しかできなかった。しばらくそうしていると、ラフーリオンが逃げた羊を連れて帰ってくる。
ラフーリオンにシュナスェールの事を聞こうと思ったが、羊の確保に相当に手こずったのであろう、ボロボロになった彼の服装を見て、その気も失せた。
シュナスェールの言葉通り、この話は『また今度』にしよう。
その日の夕食、ラフーリオンは酒を飲み、酔っ払った。シュナスェールに対して、戸棚の酒をくれとしつこくせがみ、喚き散らした。
「一本だけなら、あげてもいいですよ」という、シュナスェールの提案に、ラフーリオンは「二本にしてください。それが駄目なら三本で!」と答えた。以前、この戸棚の酒に触れたせいで腕を折られている癖に性懲りもない。
シュナスェールは一度大きな溜め息を漏らすと、目にも留まらぬ速さの平手でラフーリオンの顔を打った。すると、彼は「一本でお願いします……」と情けない声を上げ、シュナスェールの提案に乗った。
本当に情けない姿で、少しの笑いも起きなかった。
ラフーリオンはその後、ぐずぐずと訳の分からない泣き言を喚いた果てに、独りでに眠ってしまった。
シュナスェールは寝息を立てる彼を両腕で抱え、寝室へと運んだ。リシュリオルも最初はラフーリオンを運ぶのを手伝おうとしたが、かえって邪魔になるだけだと気付き、側で見守る事にした。
それにしても、か細い女性にひょいひょいと運ばれていく大の男の姿は、中々に滑稽だった。
(立場が逆だろ)
シュナスェールは、ラフーリオンを運び終えたら、そのまま自室に行って寝ると言ったので、リシュリオルもすぐに寝る事にした。
結局、その日はシュナスェールと話す事はできなかった。
三日目。ラフーリオンの命の猶予は残り四日となった。彼の身体から漏れる光の量は明らかに増えている。
その日は、何処に行く事も無く三人で牧場の仕事をした。中々の重労働だったが、休憩の時に食べた甘いチーズと、爽やかな香りを放つ冷たいハーブティー(これは昨日、医者夫婦から貰った物だ)は格別の味だった。
こういう生活も良いものだ、やってみても良いかもしれない。そんな事をふと思った。
だが、所詮は一つ所に暮らした事の無い旅人の戯言。普通に働き、生きていく事の辛さを知らない人間が、浅はかな考えを巡らせている事に、リシュリオルは自嘲した。
そして、自身を嘲ると同時に、まだこういう思考を持っているからこそ、自分は異界渡りをやっているのだと、認識した。
その日の夜、ラフーリオンから明日は海の方へ行こうと言われた。シュナスェールも誘ってみたが、彼女は牧場の仕事があるからと、誘いを断った。
きっと、影の中に潜んでいる精霊達は密かに喜んでいる事だろう。
四日目。リシュリオルとラフーリオンは予定通り、海へ行く事にした。
ラフーリオンが駄目元でシュナスェールを誘ったが、やはり彼女は断った。その様子を見ていたリシュリオルはある事を提案した。
「仕事は私に憑いている精霊共に任せればいい。あいつら、全く働いてないしな」
リシュリオルの言葉を影の中から聞いていたのか、精霊達が勢いよく現れる。そして、彼らの恐怖の対象であるシュナスェールが目の前にいるというのに、勇ましく声を上げ、猛抗議を始めた。
「私達精霊は奴隷ではありませんよ!」とアリゼル。
「俺の力に何度も助けられた事を忘れたのか? 家畜の世話などまっぴら御免だぞ!」とレグリス。
そんな彼らの言葉を丸っきり無視して、リシュリオルは再びシュナスェールに尋ねた。
「シュナスェールさんも行きませんか、海」
「ですが……」
精霊達が更に喚く。
「勝手に話を進めるな!」
「これは我々の尊厳を踏みにじる悪徳行為だ!」
「こいつらの事は気にしないでください。シュナスェールさんが来れば、きっとラフーリオンも喜びます。彼の為にも……」
「そうですか……。では……」こほん、と一度だけ咳き込み、シュナスェールは精霊達へと身体を向けた。そして、「よろしくお願いします。精霊の方々」と言いながら、小さくお辞儀をした。
まるで蛇に睨まれた蛙のようだった。やかましく騒いでいた精霊達は、シュナスェールの一声で身動き一つ取れなくなっていた。
「じゃあ頼んだぞ、お前ら。逃げたりしたら許さないからな。……私の言いたい事、分かるよな」リシュリオルはシュナスェールを一瞥しながら、精霊達に釘を刺した。
「リシュ……この借りは必ず返しますよ」
「覚えていろ……」
精霊達は小悪党が言いそうな台詞を吐き捨てると、家の外に出ていった。
「大丈夫でしょうか」シュナスェールが心配そうに呟く。
「大丈夫ですよ」
正直、シュナスェールよりも精霊達の方が安心感があった。きっと羊を逃してしまうなんて事は無い筈だ。
精霊達がちゃんと仕事をしているか見届けた後、三人は海へ向かった。
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