獣人
何とか凌ぐことができた。ベッツバルタは安堵し、兵器の出力を抑える。兵器から送られてくる痛みはすぐに収まったが、激しい呼吸と心臓の高鳴りは中々収まらなかった。
次にあの男に出会えば、まず生き延びることはできないだろう。だが、抵抗してやった。そして、まだ抵抗してやる。この命尽きるまでは。
ベッツバルタは強敵に立ち向かい、運良く生き延びたことに達成感を感じていた。自然と笑みが溢れる。
(ここまで戦うことができるなんて。……流石、私が開発に携わった兵器ということかな)
ベッツバルタはうなじに触れながら、グレスデインとの戦いから生き延びることを可能にした兵器の力を自画自賛した。
戦いの興奮が収まらず、朦朧とする意識の中、ふらふらと階段を上る。踊り場の窓から差し込む月の光はベッツバルタの生還を讃えるかのように、先程よりも眩しく輝いていた。
階段を上りきり、左右に伸びる廊下を右へ進む。いくつかの扉を通り過ぎていると、その中の一つの扉から、ぴちゃぴちゃと液体の滴る音が聞こえた。そして、二人の男の会話も。ベッツバルタは僅かに開いた扉の隙間から部屋の中を覗き込んだ。
ベッツバルタはあの時と同じ失敗をしてしまった。企業から逃げ回ることになってしまった時と。扉の先など覗かなければ良かったのだ。ただ通り過ぎれば良かったのだ。
「今回は長いな。やはり麻酔は多量に使わない方が良いみたいだ。……薬剤の適正なバランスがあるのだろうか?」
「まだ続けるのか、その実験。食える量が増えるのはありがたいが、お前の実験は準備に時間が掛かり過ぎる」
その部屋では、人か獣か、そのどちらでもない曖昧な姿をした生き物、強いて言うならば『獣人』が、人を生きたまま喰らっていた。獣人に喰われている男性は、どういう訳か、身体の大部分を失っている筈なのに、生きていた。恐怖と苦痛に塗れた顔で、もがき苦しんでいた。
もう一人の男は喰われている男性の姿を観察するように凝視していた。そして、手に持った画板に何かを書き込んでいた。男の顔をよく見てみると、顔中に無数の凹凸があり、その一つ一つが蠢いていた。男の顔は常に形を変えていた為、その素顔を見ることは叶わなかった。
むせ返るような腐敗臭。塗装の剥がれたコンクリートの床に血肉が落ちる音。二つの異形の姿。この異常な空間に触れることに対して、ベッツバルタは凄まじい恐怖感と嫌悪感に襲われた。二つの異形は未だ、会話を続けている。
「粒子化が始まった。こいつはもう駄目だな」
「記録更新だ。私の研究もやっと成果が出てきたぞ」
獣人が、凹凸の男を鼻で笑う。
「不死身の人間なんて作れるわけないだろ」
「余計なお世話だ。お前は黙って、大好物の人やら異界渡りやらを喰っていればいい」
頬まで裂けた口角を大きく歪める獣人。
「俺の大好物は異界渡りだ」
「私にとっては誰であろうと構わない。被験者がどんな者であれ、有用なデータは得られるからな」
こいつらは何が目的なんだ? 不死身の人間? 異界渡りが好物だと? いや、こんなことをしてる場合ではない。早く上階へ行かなければ。だが、どうする? こいつらを放っておいて良いのか?
立ち込める血の匂い。目の前の怪人達の姿とその言葉。額を伝う汗が唇に触れ、開いた口の中に流れ込む。ほのかな塩味が口の中に広がるのを感じる。ベッツバルタの五感は彼の頭の中を混沌とさせ、判断力を著しく鈍らせる。部屋の中身を見てしまっても、扉からすぐに離れなかったのは、彼の『人生』においての最悪手だった。
食事中は血の匂いで気付いていないようだったが、獣人はまさに獣の様に優れた嗅覚を持っていた。ベッツバルタの存在に気付いた拍子も見せず、扉の向こうにいる彼の所まで瞬時に近づいた。ベッツバルタも獣人の動きにすぐに反応し、兵器の力を作動させようとするが、獣人の動きは彼が思っていたよりも圧倒的に速かった。
最初は何が起こったのか分からず、痛みすら感じなかった。吐息が顔にかかるくらいの距離まで、獣人は一瞬にして詰め寄ってきたのだ。その直後、ぼとりと何かが落ちる音がして、足元を見る。そこには、うなじに伸ばした筈の右手が転がっていた。
切り落とされた右手を見た瞬間、何処かに忘れていた痛みが一気に込み上げてくる。ベッツバルタは初めて味わう痛みに、叫び声を上げようとした。しかし、獣人の鋭い爪を備えた手が彼の口を塞いだ。
「黙れ」
獣人はベッツバルタの口を塞いだまま、床に落ちた右手を口の中に放り込み、骨ごと咀嚼した。
「おまえ、ただの人間か。異界渡りならもっと美味い」
「そんなことはどうでもいい。どうしてこんな所にただの人間がいる?」
「よく見るとこいつ、俺達の罪を被ってくれている指名手配犯じゃないか?」
「ああ、そうだな。そして、こいつ現在進行系で追われているな。足の切り傷はかなり新しい。……それに、さっきから外が騒がしいと思っていたんだ」
凹凸男が窓へ向かい、外を見回す。そして、ビルの真下に集う無数の自警団の姿を見て、舌打ちした。
「やはりこいつ、街の連中に追われている。そろそろ、この部屋にも追手が来るだろう。こんな奴は放っておいて、さっさとここから離れるのが最善の行動だな」
「だが、勿体ないよなぁ。俺はまだ腹が減ってるんだ」
「私もそう思っていた。久しぶりにただの人間で実験したかったんだ」
獣人と凹凸男は、互いに顔を見合わせ、笑った。二人のその笑みは、悪魔の様に猟奇的だった。
「手早く終わらせれば、逃げられるだろ。……さあ、早速始めよう」
グレスデインがその部屋に辿り着いた時、血の海の中で、座ったまま柱にもたれるベッツバルタの姿があった。その身体は殆どが崩壊し、赤黒い人体の内部が所々に露出している。グレスデインの足音に気付いたのか、ヒューヒューとかすれた呼吸音を鳴らし、青白い顔をこちらに向けた。どうして彼が未だ生きていられるのか、グレスデインには理解できなかった。
ベッツバルタの元に近寄ると、彼は何かを訴えるように、残っていた左手で首の後ろを指差した。ベッツバルタの指先に従い、グレスデインは彼の身体を軽く倒し、首の後ろを見た。すると、うなじに奇妙な形の機械が取り付けられており、青色のライトが緩やかに点滅していた。
「これを、どうすればいい?」
グレスデインは瀕死のベッツバルタに問う。ベッツバルタは残り少ない体力を使い、三回、ゆっくりと床を叩いた。グレスデインはそのジェスチャーを見て頷き、ベッツバルタのうなじについている機械に三度、指で触れた。
すると、機械のライトは赤く激しい点滅へと変わり、ベッツバルタの身体は大きく揺れ始めた。機械の力なのか、次第にベッツバルタの顔から生気が戻っているように見えた。グレスデインはその様子に目を見開いた。
ベッツバルタは数回咳き込み、喉につまっていた血液を吐き出した。そして、ゆっくりと微かな声で、呆然と立ち尽くすグレスデインに話し掛ける。
「……うなじに付いている……兵器の力だ。……応急処置を行える。……この状態になってしまっては、……死ぬことは確実だが……」
ベッツバルタは絞り出すように、しゃがれた声を発した。一言喋るだけでも、かなりの負担が掛かっているように見えた。
「ここで何があった?」
「……化け物みたいな姿をした……二人組に襲われた……。いや、……あれは化け物そのものだな……はは」
死に瀕していると言うのに、ベッツバルタは咳き込みながら笑った。
「その化け物共はどんな姿をしていた?」
「一人は……顔中がでこぼこの隆起に……覆われた、しかも、それが動き回る……気色の悪い男だ。もう一人は、……獣。……いや、獣人というのがふさわしいかな。……とにかく、全身が体毛に覆われていて、……鋭い牙と爪が生えていた」
「それで、そいつらに何をされた」
「でこぼこ野郎に……薬品を打ち込まれた。……そして、……喰われたんだ! 獣人に! 身体を喰われたんだ……。身体が……失われていくのは、壮絶な痛みだった。……だが、私は……死ななかった。……最初に打たれた薬品のせいか、……痛くても……痛くても、死ねなかったんだ」
グレスデインは愕然とした。人を喰らう獣人。ベッツバルタの話す『化け物』とは、彼の、いや、彼等の旅の目的に繋がるものだった。
「はは……、ははは……。信じないだろ? ……イカれた殺人者の妄想だと思うだろ? ……だが、だが、本当なんだよ。……私がこの部屋に来る前、異界渡りが一人、……そこで、……喰われていたんだ」
ベッツバルタの指差す方には血に塗れた衣服が落ちていた。
「……いや、信じるよ。それにやはり、あなたは誰も殺していない」
グレスデインの思わぬ返答に、ベッツバルタは言葉を失った。
「……この街の異界渡りへの風当たりは強い。殺されたり、行方不明になった異界渡りの捜査の規模など、たかが知れている。きっと、碌な調査もしていないだろう。……あなたが先程言っていた企業の秘密。それを知ってしまったが為に、都合良く起きた異界渡り殺しの容疑者として、あなたは上げられてしまった。……そして、もう一つ。私はあなたを襲った化け物の一人、獣人のことを知っている」
グレスデインの淡々と語られる言葉を、ベッツバルタはじっと聞いていた。彼はグレスデインの話を聞き終えた後、左手で自身の衣服を弄り始めた。そして、小型の記録端末を手のひらの上に取り出し、グレスデインの目の前に差し出した。
「……頼みがある。……これを然るべき人の所へと、企業に反する意思を持つ人の所へと……渡してくれ。……企業の開発している兵器の研究データだ。……おぞましいものが入っている」
「どうして、私に?」
「あんたは多分……良い人だ。……こんな、私の話を……信じてくれた……」
「……わかった。任せてくれ」
グレスデインはベッツバルタから端末を受け取り、懐にしまった。
「……ありがとう。……それともう一つ、頼みがあるんだ。私はこのままでも、……死ぬだろうが、今、とても……苦しいんだ。……早く、楽になりたい。だから……」
「……わかった」
「くそっ……。どうして、こんなことになってしまったのかなぁ。……でも、最後にあんたみたいな良い人に……会えて……良かったよ……」
ベッツバルタが完全に沈黙した後、グレスデインは鞘から刀を引き抜いた。
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