第79話 古傷
アクアを守るべく、彼女を守る為の騎士団も所属するラグナ教団よりの招聘を受けたカイン。彼は表向きオーシャン家家令として、ラグナ教団の騎士団長や神官らに邪教徒との一幕を報告していた。
そうして、それから少し。彼はひとまずの情報共有を終えると、急ぎ副聖都へと帰還する用意を整えていた。
「良し……急いで戻らないと。一応、アクア様だけでも問題は無いだろうが……」
そういう事じゃないもんな。カインは夜を徹して帰る予定を立てており、すぐにでも発つつもりらしかった。幸い彼はオーシャン社の最高責任者でもあるのだ。専用の特別便を密かに用意させる事なぞ造作もない事だった。と、そんな彼に用意された部屋の扉が唐突にノックされる。
「……はい、どなたですか?」
『カイン。少し良いですか?』
「アルマさん……どうしました?」
扉を開けるなり入ってきたアルマに、カインが首をかしげる。基本的な話として、表向きカインとアルマの間には教団とその関係者という以外の繋がりはない。
と言ってもアクアがアルマと親しくしている、という表向きのカバーストーリーから、カインもまたアルマと知り合いである、とはなっている。万が一今回の様に何かしらの呼び出しや話し合いが必要な場合に会える様にするためだ。
「いえ……まず、お疲れ様でした」
「いえ……奴らと我々は犬猿の仲。アクア様の存在を知れば、まず間違いなく奴らが動きます。それを守る為にこれは必要な事です」
「それでも、わざわざ来てくれたのだから礼ぐらい言わせてください」
笑って首を振ったカインに、アルマもまた笑ってそう告げる。そんな彼女に、カインも折角先輩がそう言ってくれているのだから、と受け入れる事にした。
「ありがとうございます……で、本当にどうしました?」
「はい……少し貴方に話しておきたい事があって」
「話しておきたい?」
「ええ……あまり、話したくない事ではあるのだけど」
首を傾げたカインに、アルマは僅かに顔を顰める。これに、カインも僅かに真剣な目をした。
「……アレクセイ。彼が日本に入っていたと。今はまたヨーロッパに帰ったそうですけど」
「……」
ぎりっ。カインの奥歯が強く噛み締められ、そんな音が鳴る。その顔はアクアを前にしたなら決して見せないほど強い感情が滲んでおり、一言憎悪としか言い得ない色が浮かんでいた。
「あのクズが……ですか? どこに。どうして」
「ちょ、ちょっと……カイン……殺気と殺意を抑えてください」
「っ……すいません。どうしてもあいつだけは……ね」
あまりに猛烈な殺気と殺意の発露に気圧されたアルマの言葉に、カインは一度深呼吸して自身を抑えて苦笑に似た笑いを浮かべる。これに、アルマも胸を撫で下ろす。
「まぁ、聞いてはいますけど……」
「……あいつだけは、オレは絶対に許せない。あいつは……あいつはオレの家族に手を出した」
アクアには決して見せない顔で、カインはアルマへと小さく自身の過去を告げる。とはいえ、彼女もカインの過去は知っており、何が起きていたのかは知っていた。
「あいつは……あいつはオレの妹を犯そうとしやがった。許せるわけがない」
目を閉じれば、それだけであいつの事を思い出せる。カインは自身がまだアクアと出会う前の事を思い出し、手を強く握りしめる。
常に自分の後ろを必死で歩く小さな女の子。自分にどれだけ疎まれても、必死で一緒に居てくれた女の子。たった一人だけの本当の家族。辛い時、嬉しい時。苦しい時も悲しい時も一緒に乗り越えて、肩を寄せ合って生きてきた最愛の家族だった。
それに、手を出されたのだ。彼の怒りは、とてつもないものだった。が、そんな彼が唐突に悲しげに手の力を抜いた。
「……いえ。だめですね。今更、こんな物を得て良い立場じゃない。オレはもう、アクア様の従者。従者カイン……それだけに過ぎないのですから」
「……良い、と思うんですけどね。私は。おそらくアクア様もそう仰って下さると思います」
「……けじめの問題です。オレは、ここに居る事を望んだ。あの方と共に居る事を。カインである事を望んだ……あいつの兄ではなく……だから、カインで良いんです」
アクアの慰めにも似た言葉に、カインは儚げに笑う。これに、アルマがため息を吐いた。
「名に、縛られてはいませんか?」
「名に、ですか」
「ええ……弟を殺した古き咎人の名に」
カイン。その名をもし二十一世紀までの人間が聞いた場合、誰を思い浮かべるか。それは言うまでもなく、聖書に書かれたカインとアベルの兄・カインだろう。
アクアの従者となった事で妹の事を努めて忘れようとしている彼が、自身の事をそう考えているのではないか。アルマはそう思ったのだ。それに、カインは首を振る。
「……わかりません。が……裏切ってしまったのは事実だ」
元々、カインは記憶喪失でアクアに拾われたというのだ。その記憶は今はもう元通りになっているが、それまでに五十年の月日を要していた。その間の事を想い、彼は妹に対して裏切ってしまった、と考えているらしかった。故に悲しげに、彼は呟いた。
「オレは……オレはあいつが一人苦しんでいる間に、一人のうのうとアクア様の下で幸せに暮らしてしまった……あの方を愛してしまった。カインである事を望んでしまった……だから、あいつの事を忘れない為に、オレはカインで良いんです」
「……」
泣きそうなほどに悲しげなカインの言葉に、アルマは今は言うべき言葉は無いだろう、と判断する。こればかりは彼が解決するしか無い問題だ。
そして今のアルマは聖職者ではなく、カインと旧知の仲にして従者仲間のアルマとして立っている。故に、彼女は口出しするべきではない、と判断したのだ。とはいえ、だからといって引く事は彼女の信条に反した
「……ですが、何時か。何時の日か、妹さんに会うべきです。どんな形でも。どんな姿でも……貴方が本当に彼女の家族であったのなら」
「……そう、するべきなのでしょうね。オレの為にも……」
わかっている。わかってはいるのだ。が、踏ん切りがつかない。そんな様子でカインが微笑んだ。
「それに……いえ。ここらはオレが解決するべきですね。ありがとうございます」
「いえ……ごめんなさい、差し出がましい事を」
「いいえ。あはは……確かに、今のは聖女アルマでしたよ」
「もうっ」
僅かに気を取り直して冗談めかした言葉を述べたカインに、アルマが拗ねた様に口を尖らせる。そうして、彼は少しだけ気分を持ち直して、改めて本題を聞いた。
「それで、どこにあのクズが?」
「……あ、そうでしたね。えっと……副聖都のスラムで大宴会を開いているのが目撃されていたそうです」
「っ……」
よりにもよって、自分の近く。知らされたアレクセイの近況に、カインは盛大に顔を顰める。が、先のアルマとの一幕もあって、最初のように剣呑な顔をする事はなかった。
「何をしに、と?」
「さぁ……そこまでは。ただ入国審査官がそう言っていたのを、教団の者が聞いたそうです。それで私の所にまで報告が」
「そうですか……」
となると、あたるべきは三つ葉葵か。基本的にカインはアレクセイとの因縁から、ラグナ教団の関係者には彼を最大限に注意させている。万が一にも信者が食い物にされる事の無い様に、というわけだ。
それは本当に徹底的に警戒させており、特に日本にアレクセイが入るのであれば即座に報告が上げられる様にしていたのである。
今回はそれが功を奏した、というわけだ。勿論、アレクセイが日本に来たと聞く度に彼のあの憎悪満載の顔を見る事になるので、報告を行うオペレーター達は若干苦い顔だったが。そんな彼に、アルマが問いかける。
「アクア様は」
「ああ、大丈夫ですよ。アクア様はあのクズのストライクゾーンから思いっきり外れてますから」
先程までの剣呑な顔から一転、カインは楽しげにアクアの事は問題無いと明言する。そもそもアレクセイを最大に警戒させているのは、アルマの為という趣が強い。アクアとは真逆に成熟した色香があるアルマだ。アレクセイのストライクゾーンど真ん中だった。
「それより、それならアルマさんも気をつけてください。アルマさんの容姿。あのクズのストライクゾーンに入ってますからね」
「知っています……が、私に手を出せば、というのはいかに彼でもわかっているはずです」
「ですね。流石に貴方だけは手出し出来ない。それは奴もわかっている筈……ですが、万が一もありえます。十分に警戒を」
アルマはアレクシアと並んで唯一世界政府が聖女と認めている存在だ。その立場はアレクシアと対等か、それ以上だ。そしてラグナ教団の存在があり、信者は世界中に広がっている。
何より、世界政府は公的な歴史として母体はラグナ教団である、と明言しているのだ。いくら七星のアレクセイと言えど、アルマに手を出せばどうなるかはわかっていた。故に彼もアルマの前では一切自身の欲を見せた事はなかった。と、そんなふうに少しだけ笑い合う二人だったが、アルマが楽しげに告げる。
「で、カイン。それは良いんですが……」
「どうしました?」
「……ふふ。やっぱり貴方も少しうっかりさんですね」
「はぁ……っ」
ぶるっ。カインは何かを感じ取り、顔を真っ青にして震え上がる。
「ご、ごめんって! 本当にそんなつもりじゃなくてだな!」
「ふふふ」
どこかへ向けてペコペコと頭を下げながら大慌てで謝罪するカインに、アルマが楽しげに笑う。常々言われている事であるが、アクアは女神だ。
そしてカインがアクアを溺愛しているように、アクアもまたカインに過保護である。故に基本は彼女が見守っているのであるが、それ故に先程の会話も聞いていたのであった。まぁ、とどのつまり。大いにアクアがへそを曲げていたのであった。
「す、すいません、アルマさん! 大急ぎで帰ります! 何か他に情報があれば、社を通して連絡ください!」
「頑張ってくださいね」
「はい! ご、ごめんってばぁ! そんなつもりなかったんだって!」
先程まであれだけ悲しげにしていた顔とは思えないほどに、カインは半べそに近い様子でアクアへと謝罪を続けながら大慌てで荷物をまとめ上げ、脱兎のごとくその場を後にする。と、そんな彼を楽しげに見送ったアルマは、部屋に燕尾服の上着が忘れられている事に気が付いた。
「……あ、スーツの上着! カイン! 忘れてます! 忘れ物です!」
「あぁ! すいません! じゃ、また!」
「はい! ふふ……長生きしても、どれだけ生きてもあの子も変わりませんね。いえ、変わったのかもしれませんが」
結局、長生きしようと人はこんなものなのかもしれない。アルマは大慌てで歩くカインにそう思う。そうして、二人は行くべき所に向かう事にするのだった。
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