52. 黒と白
「居たっ!
柚葉市北部、山麓公園の森の中。歪な人型となった籠愛に、
ピンク色の長いツインテールを揺らし。寒空の中、制服のミニスカートから生足を曲げて。大きく開けたブラウスの胸の谷間から、小瓶を取り出す。
「ひどい……」
籠愛の脇腹にはバスケットボール大の穴が空き、そこから内臓がこぼれている。胸部も同じような状態で、両脚はひざから先が無い。幸いにも頭部は、眼球以外無事だが……常識的に考えれば即死だ。
「あたしのネクタルだけで、足りるかどうかわからないけど……塗っていくよ」
ネクタルの効力は、外傷には直接塗ることでしか発揮されない。瓶の中のぬるっとした緑色の液体を手に広げ、腹、胸、脚に塗っていく。中身を喪った眼孔にも。
(おねがい、間に合って)
べとつく血のグロテスクな感覚も気にせず、麗華は薬を塗り続けた。
ただ、愛しい彼のため。彼の照れる顔をもう一度見たくて。一度でも、心から笑わせてあげたくて。
麗華と籠愛は、恋人関係にあるわけではない。麗華には恋人がすでに居る。それも1人ではない。複数の人間 (男女両方)と、同時に関係を持っている。
だが、そのすべてを麗華は愛している。それぞれに魅力があり、それぞれに平等な愛を注げる。しかし……卜部籠愛という男は、彼女のなかでも特別な存在になりつつあった。
彼は不幸だ。どうしようもなく不幸なのだ。あやまって弟を殺してしまい、ほんの一時の気の迷いですべてを失った。それら全てに彼の責任がないとはいえない (むしろ後者はほぼ彼の責任である)。だが、彼は麗華が出会ってきた相手の中でも、群を抜いて悲しい運命にあった。
だからこそ、麗華は彼を哀れみ、幸せを与えたかったのだが……いつの間にか、「彼と幸せになりたい」。そう考えている自分がいた。彼と過ごすうちに、
彼と一緒にいたい。彼と同じ時を過ごしたい。そのためには彼の心を開かなくてはならない。深い絶望の沼に沈んだ彼を、引っ張り上げてやらなくては。
「なのに……こんなところで死んじゃうなんて、許さないんだから」
麗華は、まだ彼に何もしてあげられていない。だというのに、彼が先に死んでしまうことは、許せなかった。
『魂』の中で創造されたたくましい脚が、臓腑が、皮膚が現れ、傷ついた肉体に繋がっていく。白い眼球が目の虚に嵌り、しばらくしてそこに光が戻った。
「う……」
「ローちゃんっ!」
すぐさま、麗華は籠愛に抱きついた。
「よかった、間に合って……! 本当、本当に、よかったよぉ」
人間は、頭が残っている場合、死後7時間は意識があるという。人間が医学的に規定した「死」と、魂が認める「死」は、どうやら違うもののようだ。
麗華の大泣きに、籠愛もだんだんと意識が戻ってきたらしい。
「……ここは……」
「えっ? あ、ああ……柚葉市の山麓公園だよ。今はもう、見る影もないけど」
青々とした木々も、地面に落ちた枯れ葉も、今は全て氷の下。冷たい牢獄の中だ。心安らぐ緑の森は、今や死の世界。
「そう……か」
籠愛が、納得したようにうなずく。
そして……麗華の腹に、強烈な
「……っ?」
はじめ麗華は、その意味を理解できなかった。ただ、なぜか籠愛の身体を抱いたはずの腕がほどけ、自分の身体が宙を飛んでいる。
「がはっ!?」
地面と平行に吹っ飛んだ麗華は、氷柱と化した木の幹を叩き折る。それが2本、3本目と続いたところで地面に落ちる。氷の刃と化した葉が、ばらばらと落ちてきて頬を切った。
「げほっ、がはあっ……ローちゃん、な、なにを」
血を吐きつつも、麗華は籠愛から目が離せなかった。今、何が起きた? 籠愛が目を覚まし、二言三言交わしたかと思えば、気が付くと身体が浮いていた。
吹っ飛ぶ直前に、感じたあの衝撃……あれは何だったのだ? もしや、籠愛が、自分を……。
「ああ、
麗華の知らぬ間に、籠愛は立ち上がっていた。
肉体の爆発により、ブラウスとスラックスは大きく敗れ、ほぼ裸に近い。手塩とは対照的にスマートに鍛えられた長身で、彼は指の骨を鳴らした。
「そんな……なん、で」
「ああ……実に、実に
ある種の陶酔にも似た表情で、籠愛は髪をかき上げる。
「なに、言ってるの……? 新しい、使命、って」
「ふふふ……今に分かる。さらばだ、
そう言った籠愛の周りに、一迅の風が吹く。積もりはじめていた雪が舞い上がり、次の瞬間、彼は遥か上空へと消えた。
「ロー……ちゃ、ん……」
愛するヒトが、離れていく。届かない右手を、麗華はずっと伸ばしつづけていた。
☆
(りーくん……! どこ……!)
恵奈と籠愛の戦いが始まる少し前。恵奈と別れ、理里を追って飛び立った珠飛亜は、すぐには弟を見つけられずにいた。
一家最弱の怪物とはいえ、理里の肉体的スペックは常人を上回る。最高速度は軽自動車ほど。すでに綺羅を発見し、報告のため集合場所の怪原家に向かっていてもおかしくはない。
が。
(おかしいな……りーくんの匂いなら、どれだけ離れててもわかるはずなのに)
本人が聞けば戦慄しかねないことを心でぼやきながら、珠飛亜は眼下の住宅街を見渡す。
珠飛亜の鼻腔に
どうにも血なまぐさい、何種類かの生き物の体液が混ざったような匂い。それが、少し前からこの辺りに漂っている。
胸騒ぎがして、珠飛亜は高度を上げる。少し高い位置からの
すると……見えた。
「あっ、りーくん!」
南西。遊具の無い、だだっ広いグラウンドがあるだけの公園。そのすぐ横の道路を駆けていく
怪物態に変身した理里だ。氷で足を滑らせないよう丁寧に、(普段の彼と比べれば)ゆっくりとしたスピードで走っている。珠飛亜が思っていたより、彼は進んでいなかったわけだ。
「り――――く――――ん!!!!!!」
大声で呼びかけて、珠飛亜は理里に向けて降下しようとする。
――が。
「……!」
気づいてしまった。理里の後方、屋根を飛び移って接近してくる、
「あぶないっ!」
すぐさま珠飛亜は影に向けて翼を
(っ……! 届いてっ!)
駄目元、周囲の氷を溶かし、「水の縄」にして影の方に飛ばす。冷えた透明の液体が蛇のように影を縛り上げる寸前――
焦げた。
(……えっ?)
何かが焦げるような、燃えるような。
(何……これ……!)
思わず珠飛亜は鼻を手で抑える。が、強烈なその臭いは、それでも消えない。
胸騒ぎ。ただただ胸騒ぎ。何か、何か得体の知れない「熱い」ものが、自分を狙っている。そのことを本能的に識るまで半秒とかからない。
「……!」
珠飛亜は翼をひるがえし、身体を180度転換する。理里を狙う敵に向けて放った「水の縄」も方向を変え、また瞬時に分裂、後方の「何か」を攻撃した。
だが、それが拘束される寸前。
――縄の先端は、「ジュッ」と音を立てて消え去った。
「っ……!?」
宙を惑い飛ぶ小さな蠅でさえ、瞬時かつ的確に叩き潰す「水の縄」。それが、かすりもせず蒸発した。
そして……その振り向きざま、珠飛亜はついに
「なん……なの……!?」
炎。
それは、「炎の鉄人」とでも呼ぶべきものであった。
全身を覆う、白い鎧。そのところどころ、関節や装飾の隙間から、絶え間なく炎が噴出している。特に兜の後頭部からは、かがり火のように大きな火が燃えていた。
それが一歩進むたびに、大地を覆う氷は気体に昇華され、アスファルトは溶けてどろりと広がる。
『
白い煙を吐いて、その鉄人は上空の珠飛亜を見上げた。
――次の瞬間。
『
「……っ!!」
ビリビリと震える鼓膜。空気。
『鉄人』が咆哮した。同時に放たれた熱波が、珠飛亜の肌をじりじりと灼く。
(……! これは、けっこう強敵かも……!)
茹でたまごのようにもちもちとした彼女の白い肌に、ぱき、と、ヒビが入る。
『異形』の人間態は、幻術などではなく、しっかりと人間の肉体や臓器を再現するものである。しかし、それを構成する細胞はこの世ならざるものであり、耐久値に関して怪物態とほとんど差は無い。
それを上回るほどの熱量。もし、あの熱された拳などを喰らえば、ただの火傷では済まないだろう。
しかも、あれには水の攻撃が通用しない。どの程度までかは分からないが、生半可な水の量では蒸発させられてしまう。『
だが。
(市民の人たちには悪いけど……
そう。四方八方まるまる凍らされたこの街は、珠飛亜が「水」を生み出す材料となる「氷」の宝庫。それらを融解させていけば、あの鉄人の炎を消し去れるだけの水量は確保できる……かも、しれない。
(こいつは、りーくんに近づけちゃいけない……わたしが、ここで、仕留めるんだ)
ぱっちりと大きな珠飛亜の眼。その白い部分が、墨を落とした
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