44. 氷雪に舞うангел(アンギル)


「ママ、ママ……わたし、ひどいことしちゃった……ううん、ずっと、しちゃってたの。りーくんのこと、だいすきなのに、だいすきすぎて……」


 涙と鼻水まみれの顔を、珠飛亜は恵奈の胸にうずめる。これにはさすがの恵奈も戸惑った。


「ちょ、ちょっと珠飛亜ぴあちゃん、どうしたの? ほら、落ち着きなさい? いい子、いい子……」

「いい子なんかじゃないっ!」


 叫んだ珠飛亜に、恵奈の胸が騒ぐ。


「どうしたの、本当に……ぴあちゃんらしくないじゃない」

「違うの、本当に……わたし、ちっとも、いい子、なんかじゃ」


 泣きじゃくりながら、珠飛亜はこと顛末てんまつを語りはじめた。





「なるほど……そんなことがあったのね」


 珠飛亜が涙ながらに語った、理里との『喧嘩』の内容に。うなずいた恵奈に、珠飛亜は涙目を向けた。


「わたし、本当に、ひどいことしちゃった……ううん、『しちゃってた』。りーくんが、生まれてからずっと……りーくんのことが好きすぎて、大好きすぎて……それが暴走して、りーくんにすごく迷惑かけてた……りーくんの人生を、奪ってた。全部、わたしが、独占しようとしてた……」

「……そうね。そうだったわね」


 抱きつく珠飛亜の背中を、恵奈の手がさする。ゆっくり、ゆっくり。

 けれど、珠飛亜の感情はまだおさまらない。


「わたし……ダメだったの。ずっとりーくんにうとまれてたの。そんなことに気付きもしないで……」

「そうね。はたから見てても確かに、嫌そうにしている時もあったわ」


 恵奈は否定しない。それを聞いて、珠飛亜はよりいっそう確信を深めた。


「……もうわたし、あんなふうにりーくんにつきまとったりしない。教室にも行かない。一緒に帰ったりしない。手もつながない。一緒に寝たり、お風呂に入ったりもしない。だってぜんぶ、りーくん、『迷惑』だっていうから……そしたら、りーくん、困らずにすむから……」


 それは、決意。もう二度と、理里の迷惑になるようなことはしないと。彼を困らせるような言動はしないと。それで、彼から奪った時間を返してあげられるわけではないけれど。せめてこれからの時間を、奪わないように。彼の悩みの種にならないように。必要最低限の時以外は、もう彼とかかわらない。そこいらに居る姉弟と同じように。疎遠そえんな仲になればいい。それで、彼の邪魔をせずに済むなら。

 ――けれど。


「……珠飛亜ぴあちゃんは、それでいいの?」


 なぜか、恵奈が疑問をはさんだ。


「……えっ?」


 一瞬、珠飛亜の思考が止まる。すると、恵奈は抱擁を解いて、珠飛亜の肩を両手で掴み。その眼を、しっかりと見つめた。


「『あなた』は、どうしたいの? 本当に、それでいいの?」

「……良い、って、言ったんだけど……」


 困惑する珠飛亜に、恵奈は眉根を寄せた。


「本当? それが本当に、あなたの『気持ち』?」

「……意味、わかんないよ……わたしは、そうするって言ったじゃん」

「……そう」


 珠飛亜の言葉を聞いて、恵奈は姿勢を正し、背を向けた。


「わたしは、あなたの『気持ち』に聞いたのだけれどね。りーくんのため、とか、迷惑をかけないように、とか。そんな『べき論』の話ではなくて。本当のあなたがどう『したい』のか、聞いたつもりだったのだけれど」

「…………」


 珠飛亜は、ようやく恵奈の言いたいことを理解した。

 つまりは、珠飛亜の『感情』。理論を、利他を抜きにした、気持ちの部分が何を望んでいるのか。それを恵奈は問うているのだ。


「……嫌だよ」


 ぼそり、つぶやくと。

 途端、熱いものが、珠飛亜の胸にこみ上げた。


「いやだよっ!! わたし、ほんとうは、もっとりーくんと一緒にいたい! 毎日いっしょに学校行きたいよ! 休み時間のたびに教室行きたいよ! 手もつなぎたいよ! たまにはデートもしたいよ! ずっと、ずっと、ずっと一緒にいて……毎晩、『おやすみ』を言いたいよっ!」


 吐き出して。しかし珠飛亜は首を振る。


「……でもダメなの。それじゃあ、りーくんが困っちゃうの。わたしのこと、うざったく思っちゃうの。今までずっと、そうだったから……もう、そんなことがないように、したいの」

「それは……りーくんに嫌われたくない、って感情も入ってるでしょう」

「……うん」


 珠飛亜は力なくうなずく。

『一緒にいたい』と、『迷惑をかけたくない』『嫌われたくない』。どちらの気持ちもある。であれば、理里の役に立つ方を。理にかなっている方を。それが珠飛亜の選択だった。


 それを聞いた恵奈は――笑った。


「……やっと、本当のこと、言ってくれたわね」

「……?」


 珠飛亜はいまだに、母の真意が見えない。

 視線で問うと、恵奈は優しく首を横に振った。


「そこまで思い詰めること、ないのよ。だってりーくんは、

「……。そ、そんなわけ……」


 そう、そんなわけはない。珠飛亜は確かに聞いたのだから。『迷惑してきた』と。『近寄るな』と。彼が、冷たく言い放ったのを。


「確かに、そのようなことをりーくんは言ったかもしれない……でも、いいえ、それだけじゃないのよ。あの子があなたと一緒にいて、感じていたことは」

「……!」


 珠飛亜の目の色が、一瞬変わる。しかし、その黒曜石こくようせきのような瞳には、すぐにかげが差した。


「気休めだよ……ママからはそういうふうに見えた、ってだけでしょ。りーくん本人がそう言ったんだから、それはそういうことなんだよ」

「……そう? 言葉ほど多くを語らないものは、わたしは無いと思うけれど」


 目を細めた恵奈に、珠飛亜は黙り込んだ。

 虚空を見遣って、恵奈は続ける。


「あの子、本当に嬉しそうだったわよ。ときどきわたしに、『今日はこんなことがあった』って教えてくれるのだけど。まあ、ほとんどがあなたの話題でね。それはもちろん、それだけあなたがりーくんに付きまとってた、ってことだとも思うけど……『何歳だと思ってんだ』とか、『こっちの身にもなれ』とか、内容もほとんど愚痴ぐちだったけれどね。

 だけどあの子……いつも、笑ってた。確かに、多少は疲れていたと思うけれど、それでも嬉しかったんだと思う。あなたがずっと、自分に構ってくれることがね。お姉ちゃんに愛されすぎるのが疲れるなんて、幸せな悩みだってこと……あの子も、わかってたのよ。あの子、優しい子だから……自分が疲れても、ちょっと腹が立つことがあっても、飲み込んでたんでしょう。だって、言ってしまったらお姉ちゃんが構ってくれなくなるかもしれないし。

 けど……今回は、その『対価』と『利益』が、釣り合わなかったのでしょうね。少しのことなら見逃していたあの子も、直接交友関係に、しかも友達のことにまで口出しされるのは我慢ならなかった。それに加えて、今まで『対価』と感じていたストレスが爆発してしまった……あの子の中での『Giveギヴ & Takeテイク』のバランスが、そこで崩壊してしまった。

 そのポイントはやはり……あなたの『束縛』よ」

「……束縛……」


 それについては、珠飛亜も思い当たる節があった。

 珠飛亜は、独占欲の強い女である。好きなヒトが、他の女を気にすることすら我慢ならない。自分の目の届かないところに行ってしまうことなど、許せない。

 いや……許せないのではなく、『耐えられない』のだろう。それだけ珠飛亜は寂しがり屋なのだ。孤独が怖いために、相手をいつも目の届くところに置いておきたがるのだ。いつも甘えていたがるのだ。


「あの子があなたといることに、幸せを感じていたのは間違いないけれど。多少のストレスがあったのも事実。特に『縛られる』という点においてね。

 あなたの気持ちもわかるわ、わたしもそういうところがあるから。あなたのそういう部分は、わたしの遺伝かもしれない……だけど、それもほどほどにしなさい。

……これは女としての忠告だけど。縛り付けようとすればするほど、男は逃げていくわよ。彼らはプライドの高い生き物だから、常に自由を求めているの。……そんな男が自ら求めてくるような、気高く咲くはなのように、優雅にたたずむことを覚えなさい」

「……」


 しばらく珠飛亜は黙って、恵奈の言葉を咀嚼そしゃくした。

 自分の罪は、『束縛』。愛する弟を、愛ゆえに縛りすぎたこと。恵奈が言うには、それはとてもむなしい行為だった。束縛しようとするほど、相手は珠飛亜のもとから逃げ出したがる。解き放たれたがる。

 しかし、その点さえどうにかすれば……。


「……許してくれる、かな」

「……?」


 首をかしげた恵奈に、珠飛亜は顔を上げてうた。


「りーくん、許してくれるかな? わたしのどこが悪かったのかちゃんと反省して、ちゃんと謝ったら、りーくんも、許してくれるかな……?」


 その声色こわいろは切実だった。誰よりも大切な弟に、もう一度目をかけてもらえるかもしれない、一筋見えた光明こうみょうに、必死ですがりつく彼女の思いがあらわれていた。

 そんな彼女に、恵奈は。


「……ええ、きっとね。だってあの子、


 元気づけるように、静かに笑った。


 ぱあっ、と。その反応を見た珠飛亜の表情が輝く。 


「……うしっ!」


 雪の降るちゅうに、彼女は右手を握り。


「じゃあわたし、行ってくる! りーくんと仲直りして綺羅きーちゃんを見つけたら、一旦家に帰るから! ママも、はやく帰ってね!」

「ええ……そうするわ」


 どこか寂しげな顔でうなずく恵奈に手を振り、珠飛亜はブラウスの


 そして……次の瞬間広がる、真っ白いつばさ


 珠飛亜の居る部分にだけ、まるでスポットライトのように、灰色の雲間から陽光ようこうが照らす。降りしきる雪の結晶とともに、純白の羽根が舞い落ちる。


 それは、彼女の絶望の闇が取り払われたことを、神が祝福したものか。いや、彼女は神にあだなす者である。最凶最悪の魔神の長女にして、オリュンポスの絶対者たちに抗い、生を得ようとする一匹の怪物。それだけだ。

 ならばこの奇跡の光景は……彼の魔神テュフォーンが、己が娘を讃えたものであったのか。その真相は、世界かみのみぞ知る。


「ありがとう、おかあさん」


「……!」

 少し驚いた顔になった、母に笑顔を向けて。人面の雌獅子スフィンクスは、愛する弟のもとへと飛び立った。





「おかあさん……ね」


 地面もベンチも電灯も、何本か生えるいつかの卒業記念植樹しょくじゅも氷に包まれ、閑寂かんじゃくの広場にひとり。残された恵奈は、感慨にふける。


 彼女が記憶する限り、子どもたちにそう呼ばれたことは、無かったのではなかろうか。希瑠や理里は『母さん』、珠飛亜と綺羅は『ママ』、吹羅は『母上』……最後のものは呼ばれているヒトの方が少なそうだが。

 呼び名が変わっただけだというのに。もう一度会う時には、また戻っているかもしれないのに。少し、少し娘が大人になってしまったようで、嬉しいような、寂しいような。


(いや……あの子はもっと、年相応のいになった方がいいのだけれど)


 なぜか目元にあふれ出ようとしたしずくを、人差し指でさっとぬぐって。恵奈は背筋を伸ばす。


「さて……すぐ帰る、とうなずいたはいいけれど。どうやら、そうもいかないようね」


 その視線の先、珠飛亜が飛び立った北より少し東側。怪原家の在る住宅街のほうに、飛んで行くがある。


 さながら流星のごとく、一直線に飛翔するその物体。その正体を超人的な視力で見て取った恵奈は、悪態をついた。


「……これは、帰りが遅くなるわ」


 眉間に皺を寄せ。黒翼こくよくへびが、セメントの地面を打って空へつ。

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