26. We, wanna believe 春を往く



 西暦2018年、4月21日。少し前までこぼれんばかりに咲いていた桜にも、ちらほらと葉が見え始めた、この快晴の日。


 まだまだ咲き誇る桜がちらほらと見かけられる山肌。しかしながら先月の豪雨による土砂災害の影響で、いまだに通行止めの滝道に、人影は少ない。


 その滝道を辿った終点。大瀑布を望む、滝から距離にして10m、滝壺からの高さ約2mほどの高台。そこに居たのは、2人の人間と、5匹の怪物であった。



 いや……うち1人は、もはや、人間でも怪物でもなかったかもしれない。



「ごぼあああああああああああっ、あああああああああああああああ」


 そのヒトは獅子だった。その獅子はヒトだった。


 他人など、世界など、彼女にとってはどうでもよかった。ただ、自分を満たす敵さえ存在すれば。満足に終わらなかった自分の人生を終わらせるにあたう、対等の相手と出会うことさえできれば。


 世界を滅ぼす魔神が、あるいはその相手かとも思ったが。ついには、直接拳を交わすには至らなかった。弓矢部隊に所属していた彼女は、遠くからあれを狙うことしかできなかった。


 彼女の人生は、この2000年近く、常に悔恨かいこんと共にあった。太陽神アポロンの戦車をく獅子として、夫とともに在った時間。これほどの苦痛はなかった。あの、ただ一度の敗北の記憶を、何度も夢に見た。いつまでも拭えなかった。たとえ夫ともう一度勝負し、勝利したとしても、それは消えなかった。そういうことではなかったのだ。ただ、ただ「絶対的な力の前に敗北した」という事実だけが、彼女を苦しめ続けた。


 劣等感の地獄から抜け出せないままに、現代に転生し。そこで出会ったのがあの少年……怪原かいはら理里りさとであった。


 少年は弱かった。とても、とても脆弱ぜいじゃくであった。蘭子にとっては取るに足らないほどに。象の前の蟻のように。


 だが、同時に彼は。能力ではない、その心のようが。彼は、大切な姉を守ろうとした時に、家族を守ろうとした時に、はじめてその「強さ」を見せた。


 それはきっと、彼にとっては単純なことで。大切なものを守りたいから戦い、そのために怒る。それは、ごくごく普通の、当たり前のこととして彼が認識しているだろうことで。

 けれど、蘭子にとってはそうではなかった。度肝を抜かれた。今まで自分にとって「戦い」とは、自分の強さを証明するためのものでしかなかったから。理里のような人種は、英雄の中には腐るほどいたけれど。そんな理由で「敵」として現れたものは、いなかったから。


 ああ、この男ならば、あるいは。この男を、この家族を打ち破った時、わたしの心は満足するのではないだろうか。あの苦しみを、乗り越えられるのではないだろうか。



(ああ……そうだ。今、ようやく分かったぞ。だから私は……あの男を、「最後の敵」と定めたのだな)



 怪原かいはら吹羅ひゅら……ヒュドラが、言った。「生き物は、大切なものを守るときにこそ最大の力を発揮する」と。

 怪原理里のその精神は、際立きわだって他よりも強い。それはおそらく……彼には、からではなかろうか。


(……いや、奴の事情などどうでもいい)


 ここまでは、ほんの刹那せつなの思考。レースが終わろうというこの瞬間になって、走馬灯のように蘭子の脳裏を駆け抜けた。


 あと、1歩いっぽ。わずか1歩だ。この身を打つ無限の大激流をぶち抜いて、あの弱くて強い怪物に勝利する。


 そう決意した途端――ふわり、と。唐突に、蘭子の身体が軽くなる。


(何だ……!? 後ろの駄犬が力尽きたか? まあいい、これは好都合……!)


 きっ、と前を見定めて。目に見えないゴールを目指す。


 迷うことはない。自分をとどめるこの水流に、あの蛇に、駄犬に、打ち勝つ。残り1歩、たった1歩を踏み出す。それだけで、わたしの人生は終わる――





「グオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアッッ!!!!」


 薄桃色の花の群れに、ちらほらと芽吹く若芽のような。そんな新緑のウロコまといし蜥蜴が、1匹。前方で水流に耐える蘭子をめがけて、最後の追い上げをかけている。


 1歩、2歩、3歩。大地を蹴る度に、ぐんぐんと、動かない蘭子の背が近づいてくる。


 目指していた、白い布の帯ゴールテープは既に無く。今は切れ端が、それを持っていた者の手と、結ばれていた橋の高欄こうらんに在るのみ。


 けれど、そんなことはどうでもいい。いま彼にあるのは、何としても、数十m先に居るあの獅子を追い抜く。追い上げて、追い抜いて、大切なヒトたちをきっと守ってみせる。


 理里は今までずっと、守られてばかりだった。無能力の蜥蜴男リザードマンとして生まれた彼は、自分を守る力など持ち合わせていなかった。


 それは、どう足掻いても返せない恩であり、劣等感。永遠に拭えない、心にめられたかせおもり


 けれど、今。このレースでなら、理里はその恩を返すことができる。理里ががむしゃらに走ることでしか、勝利することはできないのだから。


 ……もちろん、恵奈たちが蘭子を殺害してしまうという手もなくはない。だがその瞬間、今のところ「観客」の立場を保っている他の英雄たちが、いっせいに牙を剥いてくることとなる。蘭子との闘いで消耗した理里たちにとって、それは愚策だ。


 レース前に蘭子を暗殺してしまえばよかったのではないか……という考えも無くは無い。だが、それでは希瑠と恵奈が定めた、「理里の成長のために、当面は彼自身に戦ってもらう」という決定を崩すことになる。それに、過ぎたことを悔やんでも仕方がない。今は今、この瞬間この場所で、全力を懸けるしかない。



(…………)



 理里の視界に、あのヒトの姿が入る。レースを申し込まれてから6日間、一度として見ることができなかった、あのヒトの顔が。


(いつの間に回復したんだろう……。もしかして最初から、寝込んでるなんて嘘だったんじゃ……)


 ふ、と疑問がよぎったが。すぐさまそれは消え去る。



 あのまっすぐな、ぱっちりと大きい瞳を見ているだけで。理里の身体に力が湧いてくる。脚の回転がどんどん速くなる。それだけでいい。



 あのヒトもまた、理里のために戦ってくれている。全神経を集中させ、「むげんだい」の水流で、あの獅子をとどめようと踏ん張っている。それは、あの獅子を転ばせた末妹まつまいも。あの獅子を縛る妹も。自らの身体をいかりにした兄も。後ろでレースの顛末てんまつを見守る、母も同じ。



 きっと、ここであのヒトたちに応えることが。ようやく始まる、恩返しの、第1歩だと思うから。



 理里は走る。ただ、未来だけを、めがけて。


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