15. Sleeping Beast




「くっ…………あ…………」


 木々を吹き飛ばして向こう山に激突した蘭子は、身体が上下逆さまの状態で斜面にめり込んでいた。


 マッハ2で走る際の衝撃波に耐えられる鍛錬はしてある。だが、「マッハ2で転倒し、壁に激突した場合の衝撃」は、彼女にとっては想定外だった。


 ごふう、と血を吐く。頭が下になっている関係で、唾液と混ざった血が、顔面にふりかかる。


「アバラの数本は、イカれたか……? これは……」


 もう走れないか、と思いかけて蘭子は否定する。いな、否否、断じて否。走ることこそ私の存在意義。私の個性にして、誰にも劣らぬ才覚。弓術もそれなりのものとは自負するが、射手座ケイローン真なる英雄ヘラクレスとは比べようも無い。


 わたしは誰よりもはやい。それだけが真理なのだ。たとえどんな妨害を受けようとも必ず勝利する。それがわたしなのだ。あの日、あの一回を除いては――!


「随分と苦しそうね。もう、諦めたらどう?」


 甘く低い声。


「誰だ……いや、その声は。確かスタート地点で聞いたな」

「ええ。うちの息子を誘惑しておいて、そう簡単に忘れてもらっては困るわよ」


 怪原恵奈……いや、エキドナだ。黒い大蛇の下半身をぬめぬめとのたくらせ、蘭子の前に現れた。


 黒く大きな翼は、木々の枝に引っかかりそうで、少しばかり窮屈そうに見える。


「あの……やはり貴様の仕業か」


 さかさまの視界で蘭子が問うと、恵奈は小首を傾げた。


「わたしではないわ。いえ、策を立てたのはわたしだから、そういう意味ではわたしだとも言えるかもしれないけれど」

「やはりな……そういった狡猾なやり方は貴様の得意とするところ。流石は海千山千うみせんやませんの女怪だ」

「……レディに年齢の話はマナー違反よ」


 ひゅう、と恵奈の尾がしなる。


「おお、怖い怖い。……それで? わたしを始末しに来たのではないのか?」

「本当ならそうしたいところだけれど。一応確認を取らせて欲しいの。貴方に、レース続行の意思があるのかどうか」


 あくまで無感情に、恵奈は問いかける。その二択の先に待つ未来が、どんなものかを暗示する冷徹さを放ちながら。


「仮におりると言ったら、貴様は見逃してくれるのか?」

「さあ、どうでしょうね。少なくとも殺すことは無いと思うわよ? それがあの子りーくんの意思ですもの。わたしは、息子の心を尊重したい」

「よくできた親だことだ……とは大違いだな」


 まぶたを伏せて蘭子は苦笑し――次の瞬間、かっ、と目を見開く。


「断るッ!


 結果も出ぬうちに自ら敗北を認めることは、己の生まれてきた意味すら捨てることッ! そうまでして手に入れた余生に、何の価値があるというのか!」


「…………」


 言い放った蘭子を、恵奈は変わらぬ冷たい瞳で見下ろして、告げる。


「そう。残念だわ」


 恵奈は蘭子に背を向けて、ぴいっ、と指笛を鳴らす。すると、山の上の方から、何やらゴゴゴゴゴ、と響く音。


「何だ……貴様、何をした」

「説明する理由も意味も無いわ。ぐに身を以て知ることになるでしょうから」


 そう言い残して、恵奈が虚空へ飛び去った刹那――


 蘭子の視界は、大量の土砂にうずめられた。





『はあ、はあ、はあっ』 


 理里は走る。先ほど蘭子が駆け抜けて行った市役所前の大通りを、必死に走破してゆく。


 その姿はすでに蜥蜴男リザードマンのものと化している。体操服は肉体の外側に張る『魂』に取り込まれ、今は一糸まとわぬ姿。しかし、全身を鱗に覆われた身体では、誰に見られたところで恥じらいも無い。


 理里の速さは時速72km。実に100mを5秒で駆け抜ける、乗用車並みのスピード。

 しかしながら、蘭子と比べればウサギカメも同然だ。理里が1秒で20m進む間に、向こうは686m進んでいる。まともに競えば、到底敵う相手ではない。


 だが、理里は負ける気など微塵も無い。自分にはあの、世界最強の家族がついているのだ。理里はただ、走り続けるだけでいい。それだけで、間違いなく勝利は訪れるのだ。


『グオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!!!』


 雄叫びを上げ、一層速さを増す理里だった。





 時を同じくして、柚葉郵便局横のスーパー・『トーヨー』。水産物に定評があるこの店で、折邑紫苑はその鋭い目を光らせていた。


(これはダメ。これは……少し黒ずんでるな、ダメ)


 スカジャン姿の彼女が手に取るのは、本日特売品の鶏卵である。10ヶ入のパックを蛍光灯にかざして、透け具合で鮮度を見ているのだ。


 土曜日の今日も両親は遅くまで仕事があり、深夜まで帰って来ない。よって、夕飯は彼女一人で作って食べることになるために、その買い出しに来たわけだ。


 もっとも、こんなことは小さい頃から慣れっこだ。お陰様で料理の腕は、ヤンキー感満載の外見(と性格)に反してそれなりのものである。……代わりに得られなかったものの方が多い気もするが。


「よし、これだなっ」


 もうぶんないひとつを買い物カゴに収めて、レジへと向かう。


 今晩の献立は卵焼きと味噌汁と……野菜炒めが大盛りで。一人だからこんなものだ。両親はいつも通り、外で済ませてくるはずだ。


 会計を済ませ、野菜を一番下に、卵を一番上に袋に詰めて、店を出る。まばらに自転車が並ぶ駐輪場に向かう。


 そこで、が聞こえた。


「…………?」


 ぐおおおお、と、恐竜の雄叫びのような声。しかしどこか人間らしさもある叫び声だ。いや、恐竜の雄叫びを直に聞いたことはないが。


 スーパー前の大通り……その南側、市役所の方から聞こえてくる。だんだんと近づいてくる。


(何だ、動物が逃げ出したのか? いやでも、ここいらに動物園なんて)


 隣の市には小さいが動物園がひとつある。そこに運送中のものが、何らかの事故で放たれてしまったのか? とかく気になった紫苑は、買い物袋を持ったまま道路の方へと向かう。


 そして――


「――っ!?」



 目の前の幻想ファンタジーに、度肝を抜かれた。



 それは走っていた。雄叫びを上げ続け、陸上選手のように綺麗なフォームで、指をまっすぐに開いた両手を振って。



 裸足がアスファルトを捉え、強く蹴り出す。その度にそれはぐん、と加速する。それを、目にも止まらぬ速さで繰り返し、乗用車を軽々と追い抜いていく。


 速度的には、目視は可能なレベルだ。高速道路を走る車くらいのスピード。つまりは時速80km程。今車を追い抜いていけるのは、ここが地道だからだろう。



 しかし、その幻想は、紫苑の目を捉えて離さなかった。



「いやあっ!?」


 思わず悲鳴を上げてしまうほどには、紫苑は恐怖した。


 鱗。鱗だ。緑色の鱗が全身を覆った人間……いや、人型のトカゲ。太い尾を振り回し、長い舌、牙がずらりと生えそろった口から唾液をまき散らして、トカゲが人間のように走っている。それも、自動車並みの超人的なスピードで。


『グオオオオオオオオオオオオオオオオアアアアアアアッッッ!!!!』


 疾風はやてとともに、トカゲ人間は紫苑の目の前を通り過ぎて行った。飛んだ唾液が、びちゃり、と紫苑の頬に当たる。


「なっ……!?」


 急いでスカジャンの袖で濡れた頬をこする。


(なんだありゃ……他の人には見えてないのか!?)


 道行く人々は、走り去るトカゲ人間を気にも留めていない。少し強い風が吹いたな、と気にしている程度のもの。スカートを風にまくられて悲鳴を上げた女性は居たが。


(なんなんだ……あたしがおかしいのか?)


 幻覚か、と紫苑は惑う。しかし、であるならば自分の頬に飛んできたこのねばっこい唾液はなんなのか。これすらも幻覚の為せる業だというのか。


 が……彼女にふりかかる災厄はこれにとどまらない。


「……っ……!?」


 混乱する紫苑を、突然の頭痛が襲う。思わずその場に座りこんでしまう程の、強烈な痛み。


 視界がぼやける。キーン、と耳鳴りがする。その中で、紫苑はひとつの声を聞いた。



――せ――



「……何っ? 何だっての!」



 ――せ――          ――せ――



「どこだよ……どこから呼びかけてんだよ、クソっ!」



――ろせ――    ――、ろせ――






 ころせ。





「っ……!?」


 一切の音が聞こえなくなるほどの頭痛の中で、確かに聞こえた


 それは、『殺せ』と彼女にのたまった。



 殺せ。あの畜生共を殺せ。神に歯向かう不届き者ども、この世界に存在するに値しない醜き者どもを、みなごろしにしてしまえ。



 殺せ。殺せ。殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺――――



「やめろ……黙れ……だまれだまれだまれ、だまれぇ――――――っ!」


 喉が千切れる程の叫びを最後に、紫苑はその場に崩れ落ちた。


 彼女の右手の袋から、10ヶ入特売品の卵パックが抜け落ち、無残に中身が砕け散る。白い殻から流れ出た黄身が、ピンク色の歩道のタイルを染め上げるのだった。



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