7. レット・イット・ホーネット ②

 鮮烈な光が、曇天の菖蒲ヶ原あやめがはらいけのほとりを彩る。


 幸いにも、その金色の光を目にした者は、当事者たちを除いて居なかった。しかし、仮に余人がこの怪奇を目撃していたとすれば、肝を潰したことだろう。


 池の外縁に群生した、春先でまだ青い菖蒲しょうぶが、光が当たると同時に白化し、石の如く固まっていく。そうして、池の東側一帯が、鈍い金の光によって、まじり気のない"白"に塗り替えられてゆく。


 池のすぐそばのグランドに至るかというところで、ようやく光はその勢いを弱めはじめた。蛍光灯が切れていくように、だんだんとぼやけ、しだいに点滅し――消えた。



「はあっ、はあっ、はあっ」



 大河のスラックスの足首を掴んだまま、理里は息を荒げた。すでに体力の消耗は始まっている。


 だが、。あの半金髪の英雄に、これでもかと左眼の光を浴びせかけてやった。たとえこの後おのれが体力の消耗に倒れようとも、珠飛亜が連れ帰ってくれるはずだ。


 一抹の安堵とともに、自分が石化させた男を見上げ。



 ――思考が停止する。



「…………な…………?」



 其処に在ったのは、先ほどまで己が戦っていた男の身体ではなかった。


 壁。白い壁だ。理里の身長をゆうに超えるような壁が、理里と大河の間にそびえ建っている。


 いや、ただの壁ではない。よく見ると――


「よっ、と」


 余裕に満ちた男の声とともに、壁の中心あたりが小突かれる。同時、壁はぼろぼろと崩壊していく。


 その、破片の正体は。


「ハチ…………!?」


 ばらばらと零れ落ち、理里の体を打つ壁の欠片。その形状は、アシナガバチ、クマバチ……種類は違えど、どれも蜂のものに他ならない。


「どうだ、便利な能力だろ? この能力にかかれば、ハチ共は俺のためなら命も惜しまない、忠実な兵隊となるわけさ。おまえの眼の光なんざ敵んだよ」


 崩れ落ちる壁の向こうから、大河の姿が徐々に露わになる。しかしてその引き締まった肉体、童顔の面貌さえ――



 至って、無傷。



「な……そ、そんなっ……!」


 驚愕する理里に、大河はクク、とわらい、天を仰ぐ。


「俺がもう少し凡庸な異能力者だったなら、とっくに倒されちまってたかもしれねえがなぁ。あいにく英雄になってからの時間で言やぁ、俺は3000年に近いんだ。昨日今日で能力者になったペーペーなんぞに負けるわけが無えんだよ、クハハ!


 ……しかし貴様。"邪眼じゃがん"を、使な?」



「うっ…………!」



 大河に告げられた途端、どっ、と大きな疲労感が理里を襲う。身体が一気に重くなる。


「ハッハハハハハハハハハ!!!!!!!!! これだ! これを待ってたんだよ! 邪眼を使い終わったあとのお前なんざ、もう屁でもねえ! あとはサンドバッグみてえにタコ殴りにしてぶち殺すだけだぜェ――! クッハハハハハハハ!!!!!!」


 高笑いとともに、大河は理里を蹴飛ばす。


「がはぁっ……」


 池の縁の浅い部分に、理里は転がされた。


「りーくんっ!」


 珠飛亜の甲高い声が響く。壁の向こうにいたらしく、なんとか光を免れたようだ。


「おっと、お前も居たんだったなぁ……まあ、どの道動ける身体でもねえか。ここは水辺だし、異能を使われると厄介だが……そんな体力もねえだろう。


 さあ、ハチ共! 最後の攻撃だ、このド畜生どもをブチ殺せェ!」


 ざわわ、と再び広がる蜂の群れ。それらが一斉に、理里と珠飛亜に襲い掛かる、



 ――直前。



「グエ!?」


 大河の首に、ぬるっとしたのようなモノが、強く巻き付いた。


 続いて手首・足首も、その"何か"が捉え、大河の動きを止める。池の水面からのびているそれらは、あたかも鎖のように、大河の五体を緊縛する。


「こりゃあ……まさかッ!」



「そう、だよ……あたしの、能力っ……!」



 倒れた珠飛亜が、大河に目を向けている。


「てめえッ……どこから、こんな力がッ!」


「どこから? ふふ……簡単な、ことだよ…………」


 地に伏したまま、珠飛亜は曇りのない、澄んだ瞳で答えた。



「弟を守るためだったらっ! どこまでだって強くなれるっ! それが『お姉ちゃん』っていう生き物なのっ!!!!」



「……小癪こしゃくなあああああァアァァァッ!!!!!!」


 理里と珠飛亜に二分されていた蜂の群れが、全て一団となって珠飛亜に突撃する。


「余計なことしてくれやがってッ! ……だが、これだけの水が周囲にありながら、俺の動きを止める程度のことしかできないってえ事は……てめえ、相当消耗してやがるな? だったらさっさと葬り去るだけだぜェ!」


 珠飛亜の身体に次々と蜂がとりつき、白い肌に針を突き刺す。その数は瞬く間に一、十、百、数千を超え、ついには彼女の皮膚が見える隙間すらなくなり、黒くうごめく塊となった。


 だが、それでも。


『守る……わたしが、りーくんを、守るっ!』


 大河を捕らえる"水の鎖"は緩まない。それどころか、どんどん締め付けがつよくなる。


「ぐえっ……! てめえ、どんな根性してやがんだ……? 体中を蜂にブッ刺されて、地獄みてえな痛みの中に居るはずなのによぉ!」


 驚愕しながらも、大河は必死に水の鎖を解こうともがく。


「クソッ、ちぎれろ、この野郎……!」


 渾身の力を込めて腕を引っ張るが、鎖はびくともしない。大河が焦りはじめたとき。

 視界の隅で、何かが動いた。


「あ? 何だ……!?」


 びくびくと身体を痙攣させ、生まれたての小鹿にも等しい程に弱々しい様相ながらも、未だ何かの為に戦おうとする、人の姿をとった異形。

 ――怪原理里が、立ち上がろうとしている。


「バ、バカなッ! てめえはもう眠っちまってるはずだろうっ! なんで……なんで動けんだよっ!」

「ああ……。俺も、もう動けないって思ったさ…………」


 ぜえ、ぜえと息を切らしながらも、理里は苦笑する。


「正直、もうダメだと思ったよ……左眼を防がれたときにはな。……終わったと思った。ここでこのまま殺されるんだろうな、ってな。けどよ」


 脚はがくがくと震えている。顔は真っ青で、今にも気を失いそうだ。だが、それでも彼は立つ。


 なぜなら。



「姉貴がガンバってんのによ……! 命がけで俺を助けてくれようとしてんのによっ……! 弟が、踏ん張らないでどうすんだよッ!」



「あ、ありえねえ……! 馬鹿かお前ら! そ、それだけの理由で立てるわけがねえっ!」

「ははっ、そうかもな……。だが俺はちょっと、人より意地っ張りなもんでねっ!」


 言い放ち、理里は己の左眼のあたりを押さえる。


「っ!? まさか、テメエっ!」

「ハハ、バカだよな…………これをやったら、俺は死ぬかもしれないんだぜ? ……だけど、珠飛亜を守れるなら! 世界で一番大切な、たったひとりの姉さんを守れるならっ! それでもいいかなって、もう思っちまってるんだよっ…………!!!」


 目蓋に食い込んだ指の隙間から、金色の光が漏れはじめる。


 だが、光の量は先ほどより遥かに少なく、弱々しい。まるで切れる寸前の電球のような。


「……ハ、ハッ、そら見ろ! もう体力の限界だ、再発動なんかできやしねえよっ!」


 大河が一抹の安堵とともに嘲笑する。だが、理里は気にも留めない。


「応えろ、俺の左眼……! 俺は珠飛亜を助けたいんだよっ……ホントに俺の身体の一部なら、オレの言うこと聞いてくれよっ!!」


 理里の思いが強くなるのに合わせ、だんだんと光が勢いを増し始める。こぼれるような弱い光から、しだいに燃えて、煌煌こうこうと。


「こいつっ……!? くっ、防御をっ!」


 大河は、いまだ珠飛亜をいたぶり続ける蜂たちに号令をかける。すぐさま蜂たちは主の護衛に飛び、自分たちの身体でもって壁を形成しはじめる。


「ッオオオオラアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!!」


 理里が押さえていた左手を離す。解き放たれるのを待っていた光が、せきを切ったようにその場に溢れ返る。


「負けるかよッ!!」


 続々と蜂たちは大河の前に飛来する。黒と黄色の嵐が、光の奔流を阻もうと集結する。


 しかし――


「ッ……!? 何、だと………………!?」


 飛来し、壁となるはずだった蜂たちは、来るそばから身を白化させ、石になっていく。そこまではいい。



 だが。変化は、そこで終わらない。



「何だ……!? なんなんだ、これはっ」


 石化した蜂の死体は、集積して壁を築くに至らない。ひび割れが走り、砂となって、その輪郭を喪ってゆくのだ。

 光を遮る間もなく、蜂の死骸は塵になって消えてゆく。となれば――阻む者のない烈光は、当初の標的を灼き尽くす。


「……クッソッがアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」


 憤怒に猛ろうとも、"白"の侵蝕が止むことはない。蜂を差し向けるために掲げた右手から、右腕を伝い、だんだんと大河の身体が硬質化してゆく。温度を失っていく。動かなくなってゆく。


「俺がッ! 太陽の子たるこの俺がッ、こんなクソザコ爬虫類に負けるだとッ! ンなことがあっていいわけが無えっ!!!!」

「知るかっ! オレの一番大切なヒトを欺き、傷つけた時点で、おまえの命の終焉は決まっていた…………!」


 大河の四肢が動かなくなった。下は股関節、下腹部、横隔膜、上は肩口から大胸筋……順々に細胞が動きを止めていく。血が通わなくなり、呼吸が苦しくなる。


 しかし、その状況で彼は。


「ぜえ、ぜえ…………ククク。クハハハ、くっははははは!!!!」


 わらっていた。先ほどまでの憤りをどこに消し去ったのか、不敵な哄笑にかおを歪める。


「これっぽっちも納得いかねえが、どうやら俺はここまでみてえだな…………だが! てめえらの『終わり』への布石はすでに打ったッ! もはやてめえの敗北の未来は決定だぜ、怪原理里ォ!!姉貴との残り短い余生を、せいぜい楽しむことだなあッッ!!! クッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!!!!!!!!!!!!!!!」



 不気味な嗤い声、そして不吉な予言を遺し――蜂遣いの英雄は、真っ白な石像となった。





「終わっ………………た…………」


 光が収まって、理里はその場にどさっと両膝をつく。


 目の前には、自分が石化せしめた、有村大河の像がある。しばらくそれから目を離せないでいると、「ぴしっ」、何か固いモノがひびわれる音がした。



「あっ…………?」



 石化した大河の頬に、亀裂が一筋、走っている。


 だんだんとその亀裂は、ぴしぴし、みしみし、と硬い音を立てながら全身に広がり。


 終には、大河の身体はばらばらに砕け散った。


「うっ…………おえっ」


 その一部始終を見ていた理里を、唐突に吐き気が襲う。


「うっ……ううっ」


 せり上がる胃の中のモノたちを、腹に力を入れ、口を膨らませて、ぐっ、と抑える。


 その間にも、ひび割れて散った大河の「部分」が、崩壊を続けている。腕、脚、中心から二分された胴、そのが剥き出しだ。筋繊維、血管、リンパ管、大腸、小腸、肝臓、膵臓、脾臓、腎臓、胃、肺、心臓、そして四つに割れた頭部からのぞく右脳と左脳ーー


 そこで、ダメだった。


「――――っ!」


 吐いた。全て吐いた。中にあったもの全部吐き出した。つん、とくる胃酸の臭いが鼻腔を刺激して、さらに吐いた。


 もう吐くものがないくらいに吐いても、まだ透明な胃液を吐いていた。全て、全て、全て全て全て吐いてしまって、再び前を見た。


 もう大河の身体はほとんど残っていない。床に落ちて割れたチョークのような欠片と粉が少しだけだ。よろよろと四つん這いでそこまで行って、それを拾い上げた。


「はあ…………はあ…………」


 塵になって消えていくそれらを目にして、悟った。



「これが……"人を殺す"って感覚か…………」



 先ほどまで動いていた、考えていた、言葉を発していた、血液を身体中に送っていた、息をしていた、その全てを自分が止めたのだ。あたりまえのように行われていた生命の活動を、この自分が止めてのだ。



「りーくん……だい、じょうぶ…………?」



 近くに倒れていた珠飛亜が、か細い声を発する。


「ああ……珠飛亜……」


 今にも泣きだしそうな、嗚咽混じりの声で、理里は珠飛亜にすがる。


「俺……人を殺しちまった……さっきまで、俺と同じように考えて、俺と同じように息をして、俺と同じように生きてた人間を……オレ……おれはっ」


 理里は、地面にくずおれた。


 理里は人間ではない。だが、人間の世界で、人間に化け、人間と同じように生きてきた。


 そんな「人間のような怪物」の自分が人間を殺すことは、人間が人間を殺すことと何も変わらなかった。そんなことに、ひと一人殺して、理里ははじめて気づいたのだ。


「オレ……オレは、とんでもないことをっ」


「……りーくん」


 珠飛亜の顔は見えなかった。しかしその声は、どこか辛く、もの悲しかった。


「なあ……オレ、これでよかったのかな……? オレは自分が正しいって信じたことをやった……珠飛亜を傷つけた奴が、珠飛亜を殺そうとする奴が、許せなくて。珠飛亜を守りたいと思って。……そのはずだったんだ。

 だけど、だけどさ……それって、実はすごく、『自分勝手』なことなのかな……?」


「……って、いうと?」


 怪訝そうに、珠飛亜が疲れた問いを投げる。


「いや、だから……オレが、オレだけが、珠飛亜に生きていてほしいって願っていて……でも英雄たちは、俺たちに死んでほしいとおもってる。そうした正反対の思いがぶつかりあって、ずっと、ずっと俺たちだけが、生き残っていったとしたら……その時、何人をオレは殺すことになるのかな……? それともいつか、慣れていくのかな……ハハッ」


 いつの間にか涙が流れ落ちていた顔で、理里が笑うと。


 珠飛亜の声が、唐突に重くなった。



「りーくん。それは、慣れちゃダメだよ」



「えっ……?」


 戸惑う理里。なおも、珠飛亜は重いトーンのまま、諭すように、続ける。


「人を殺してまで生きる苦しみを、悲しみを忘れた時、わたしたちはきっと『獣の道』すら外れてしまう。この世に生きる資格を失うの。


 わたしたちは、たまたま人の姿をもって生まれて、人の中で生きてきた。『その星の食物連鎖の頂点』の姿を持って生まれてくるのが、わたしたち『異形』という種族だから。


 けれど、いくら人間でないとしても、この世界で生きるを忘れちゃいけない。

 その、『マナー』ってなんだと思う?



 愛、だよ。他者を愛し、己を愛すること。



 どんないきものだって自分の子どもを愛する。他の個体とはなるべく折り合いをつけて、殺し合いはしない。でも、己を守り、愛するものを守るとき、いきものは徹底して牙をむくんだよ。


 それがきっと、この世界で生きるための『資格』。『愛』を持たないものは、もはや獣ですらもないんだよ」


「…………」


「わたしたちは、必死に生きようとしてる。でも、それは英雄たちも同じ。いつかまたお父さん魔神テュフォーンが暴れ出して、多くの命を奪うことがないように、戦ってる。

 ……そういう意味では、英雄たちは間違いなく『正義』だし、わたしたちは『悪』。懸かっている、守ろうとしている命の数が、あまりにも違いすぎるからね。


 だけど。だからといって、わたしたちが生きることをあきらめちゃ、いけないの」


「……なんで。なんでだよ」


 理里は全てをあきらめたような、涙目で問う。


「オレたちは『悪』じゃあないか。『悪』はこの世に存在しちゃいけないんだ。オレは『正しく』ありたいんだ。人間でもない、怪物の俺が何言ってんだって思うかもしれないけど。『正しく』あるためなら、オレは自分の命くらい惜しくないんだ。だってそうだろ、生まれてきたからには『正しく』ありたいじゃないか。自分が正しいと信じていたいじゃないか。そうじゃなきゃ、何もできなくなっちまうよ。


 ヒトは、自分の中に『正義』があるから何かをなせるんだ。この場合、『正義』ってのは、『どこかに存在する絶対的に正しい何か』じゃない……『自分の中で正しいと思う何か』だ。それは悪いと思うことをする言い訳なんかもそうだ。それを『正しい』と思えるから、俺たちは行動できるんだ。生きていられるんだ。


 けど、言い訳ばかりの人生なんて、俺は、いやだよ。自分が『悪』だってわかったうえで生き続けるなんて、オレには、とても……」


「違う。違うんだよ」


 抱擁するような、慈愛に満ちた珠飛亜の声が、理里をなだめる。


 そして彼女は、続けた。


「……わたしたちは、幸せになるために生まれてきたの。誰だってそうなの。豊かな国の王子サマだって、スラム街のガキ大将だって、何ならミジンコやアリンコだって。その『生まれてきた意味』を、己の幸せを守ることは、誰にだって否定できないんだよ。


 もしもりーくんがわたしと居て、しあわせなら。家族といる時間がしあわせなら。それを守ることは、りーくんにとって『正しい』ことなの。だから、胸を張っていいの。たとえ、


「…………」


 心安らぐ声が、理里の心を鎮めていく。


「たとえそれが言い訳じみていたとしたって……それが、りーくんの言う、『どこかにある、絶対に正しい何か』なんだよ。少なくとも、わたしはそう思う。


 だから、苦しみながらも戦おう? 生きよう? それが正しいんだよ。たとえ英雄が、世界が、どれだけあなたをののしり、『害悪』と蔑んだとしても。あなたは間違っていないの。お姉ちゃんが、保証してあげるよ」


「お姉……ちゃん……」


 だんだんと、意識が深層へと向かっていく。

 ぬかるんだ地面、心地の悪い泥の上に横たわり、それが完全に消える寸前に、理里は決意した。


(俺……決めたよ、この、『左眼』の名前……)


 暗くなる視界。その中で、つい先ほど思いついた、あの名前を記憶に刻み込む。


(名は、"蛇媓眼じゃおうがん"……俺たちのひいばあさん、蛇の女王メデューサにあやかった名前さ。

 これから俺たちのために、幾多もの英雄を屠るだろうこの左眼……そんな凶行に穢れるものには、数々の無辜むこの人々を犠牲にした邪神の名前が、きっとふさわしい。

 ……けれど。どれだけ屍を積み重ねることになろうとも、俺は幸せをあきらめないよ。それが正しいことだって、あなたは教えてくれたから……)


 桜彩る、四月の夕。空を覆った灰の雲は、いつの間にか山吹色のほむらに変わっていた。





 この戦いの結末を、公園近くの電柱の上に一人立ち、見物していた者がある。


 燃えるだいだいいろの空、春風に黒髪をなびかせ。切れ長の眼で事態の収束を見届けたその影は、プリーツスカートのポケットからスマートフォンを取り出す。キーパッドをポチポチとやって、電話を掛ける。


「私だ。……いや、アリスタイオスの敗北だ。まあ、痛み分けのようなものだがな。……何? ……無防備な者の命を奪うのは無粋だろう。万全の状態の相手と全霊を懸けてうことにこそ、戦いの意義が……む。融通のきかぬ奴め」


 強引に切られた電話をしまい。影は再び、戦いの勝者のほうを見やる。


「あの状況から、アリスタイオスを下すとは……俄然、君らに興味が湧いてきた。いずれ相見あいまみえる時が楽しみだよ…………ふふっ」


 気取った笑みを残した、次の瞬間には、何者かの姿は電柱の上から消えていた。


 ひゅう、ひゅう、吹きすさぶ疾風はやて。理里たちの次の戦端は、既に開き始めている。


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