第94話93.障壁22

「きゃ~!! レーニエ様~!」

 漸く戻ってきた二人が市庁舎のホールに入った途端、悲鳴を上げてサリアが駆けてきた。

「おや、遅いお帰りで」

 回り道をしていた二人より、余ほど早く帰りついていたセルバローは厭味ったらしく朋輩を出迎えた。やや後ろにジャヌーも控えている。

「なかなかお戻りにならないのですもの、大層心配いたしましたわ! ん? まぁ! レーニエ様、お顔が赤ぅございますわ。よもやお熱でも? 一体何があったんでしょうねぇ」

 サリアはじろりと主の背後に立つファイザルに流し目をくれたが、男は慎ましく頭を下げるだけで何も説明しようとしなかった。

「ふぅん……さ、レーニエ様、ともかくお部屋にまいりましょう。御髪も乱れてございますわ」

 文句はとりあえず飲み込んで、サリアはいそいそと主の世話を焼きはじめる。

「え? あ……うん」

 確かにサリアが鋭く指摘したように、レーニエの頬は幾分紅潮しており、髪は乱れ瞳が潤んでいる。

「さ! さぁっ! さぁさぁ!」

「あ~あ。あの子叱っかられるぞぉ」

 泣く子も黙る「掃討のセス」に凄まじい一瞥いちべつをくれ、プイっと背を向ける忠実な侍女に追い立てられながら階段を昇る娘の後姿を見送って、セルバローは大げさに溜息をついて見せた。ファイザルも苦笑してどちらが偉いんだか分からない主従を見送っている。

「一体どこで何をしてたんだかなぁ? え? 俺がちゃんと周囲の哨戒人数を増やしてたからいいようなものの、もし殿下に何かあったら……」

「レーニエ様は俺が守る」

「……」

 やれやれ、畜生め。生まれ変わったような顔をしやがってこの野郎!

「なんで、王女殿下のほっぺたが赤いんだろうなぁ」

 セルバローは意地悪い流し目を朋友にくれた。

「季節のわりに肌寒い日だからな」

 しれっとファイザルは応じ、勘の鋭い朋友に背を向けて自室に向かうが、セルバローの追及は容赦ない。

「それにあの、うるうるした瞳は尋常じゃないな」

「今日は風も強いし」

「(てんめぇ)……あの侍女な、さっきまで大騒ぎしてたんだぞ。可哀そうに、お前の従卒は首を絞められて責められてたんだぜ」

「ほんとうか、ジャヌー?」

 ファイザルはさすがに驚いて振り返り若い従卒を見たが、ジャヌーは真っ赤になって両手を振る。

「えっ!? いえっ! 俺は大したことではございません……ですが、司令官殿、それでは、そのぅ……お二人は仲直りされたのですね?」

「……お前にも心配をかけたな……済まん」

「いえっ! いいえ! 俺は……俺は嬉しいんです。あの方のあんなに嬉しそうな顔を見られて……本当に……俺は……」

 若々しい顔の片側がぐしゃりと歪み、彼は慌てて顔を反らした。夏の空のように澄んだ瞳の縁に光るものがある。それを振り切るようにジャヌーは白い歯を見せて笑って見せた。

 ジャヌー……忠実に俺についてきてくれたこの青年に自分は何を返せただろうか……

「済まん」

 ファイザルは繰り返した。

「迷惑をかけた」

「……おい」

「なんだ」

「迷惑は俺にもかけただろうが!」

「記憶にないな」

「ちぇっ! どうでもいいが、その締まりのない顔を何とかしろ、気持ちが悪い。お前今夜話して聞かせろな。洗いざらい」

「ご免こうむる」

 相変わらずこの朋輩にだけは素っ気ないファイザルである。

「ふぅん……なら、お前が今日アローウィンの城壁の上で何をしてたのか言いふらしてやる。確か殿下を赤ちゃん抱っこで降りてきたよなぁ。それでな、ジャヌー」

「おい」

 慌てるファイザルを見ないようにジャヌーは下を向いて黙っているが、さすがに好奇心がその背中から滲み出ていた。

「なら、諦めろ。酒は上等のを俺が用意してやる。まさか、こんな場所でお姫様の寝所に忍び込むつもりでもなかろう。飲み明かそうぜ。おおっと、剣に手を掛けるのはやめろ。くぉら、ここをどこだと心得るこの無礼者!」


「それではレーニエ様、お湯から上がられる時にお声を掛けてくださいね。それから今夕の晩餐の儀は、お断りになられると申し伝えてよろしいのですね」

「そうして」

「ではそのようにいたします。ごゆるりとお疲れを癒してくださいませ」

「ああ、ありがとう」

 レーニエは湯船にゆったりと身を伸ばした。領主館の浴室ほど大きくはないが、この施設の中で一番良い部屋を自分が独占している。そのことに対する後ろめたさはあったが、ゆっくり湯に浸れることは風呂好きのレーニエにとって素直にうれしい事だった。

「ん……」

 つい先ほどファイザルが触れた場所をレーニエは指で辿ってゆく。

「んぁ」

 湯の中で彼と同じように自分の胸に触れてレーニエは身を捩った。自分の物でないような声が漏れ、驚いてしまう。

 だって……だって思い出すと変になるんだもの……

 このまま変になってしまったらどうしよう、とレーニエが真剣に悩み始めた時「失礼いたします」という声と共にサリアが顔を覗かせた。途端にじゃぶんと大きな音が鳴る。

「レーニエ様? あれ? どうかなさいまして?」

「なんでもっ!」

「はぁ。あの、ただいまシザーラ様がいらしてお目通りを願っておられますが、いかがいたしま……あら、随分お顔が赤いですわ。もう上がられた方がよろしいのでは?」

 着替えと体を拭う布を脇に置きながらサリアは怪訝そうに主人を見た。実は彼女には大方の想像はついている。大切な主に今日、何があったのか。

 このところ伏せられることの多かった瞼を久々に凛々しく上げて、見つめる先に誰がいるのかを。

「レーニエ様?」

「あっ、ああそうするっ! って、え? シザーラ殿が!?」

 かなり混乱してレーニエは勢いよく湯船から立ち上がった。

「はい。お疲れだと言って、お断りいたしましょうか?」

「いやいやっ! 会う、お会いするからっ!」

 レーニエは慌てて布を体に巻きつけた。


「晩餐前のこんな時間に失礼いたします」

 シザーラはすっかり晩餐用に衣装を整えて部屋に入って来た。対してレーニエは湯あがりの髪も乾かさぬまま、急いで身につけたいつもの通りのゆったりした黒の平服だ。

「私こそ、このような成りで申し訳ない。さっき湯を使ったばかりで……今日は少し遠出をしていたものだから。それであの、晩餐の儀は今夜は断ろうと思って、先ほどそう申し伝えたのだ」

「あら、存じませんでした。それなら私も断ればよかった」

「え? お身体の具合でも?」

「そうではなくて。あの、失礼を承知で申し上げますが、私はレーニエ様と少しお話がしたいと思いましたの。レーニエ様さえよければなのですが」

「ああ、そう。私は構わない。ちょうど一人で身を持て余して……あ、いや、その……サリア?」

「はい」

「今ならまだ間に合うかもしれない。ドルトン殿にシザーラ殿と私はここで夕餉を摂るからと伝えてもらえないかな?」

「かしこまりました。それでは厨房にも、もう一人分こちらに運ぶように申したがよろしいですわね」

「ありがとう」

 サリアはレーニエが同年代の娘と仲良くなるのを、自分の事のように喜んで身軽に部屋を出て行った。

「……で、シザーラ殿、お話とは?」

 椅子を勧めながらレーニエは尋ねた。

「……」

 シザーラは相変わらずうっとりとレーニエを見つめていた。長い髪は早く乾くように解きほぐされ、滝のように背中に流れている。

 湯上りの頬が上気して白い肌に際立ち、同性ながら惹きつけられずにはおれない妖艶さだ。そのくせすらりとした身に纏う男物の服が大変よく似合い、美しい王弟アラメインを見慣れているシザーラですら見惚れてしまう。

「シザーラ殿?」

「えっ? これはご無礼いたしました。つい見蕩れてしまって」

「何に? ま、とりあえずお座りになられるがよろしかろう」

「はい。では」

 シザーラは、はす向かいに置かれた婦人用の椅子に腰を掛けた。目線が同じ高さになり、今度は鋭い観察者の目でレーニエを見つめる。

「あの、レーニエ様?」

「なぁに?」

「レーニエ様は先日お慕い申し上げておられる殿方がいるとおっしゃられておられましたが、私、要らぬお節介を申したでしょう?」

「え!? ああ。でもあれはお節介ではなくて、ご忠告だと思っているけど」

 一体何を言われるのだろうとレーニエは目をぱちくりさせた。

「この間のお話ではその……レーニエ様はその殿方に厭われているとか。あの……」

「ああ、それはもういいんだ」

 晴々とレーニエは宣言した。

「まぁ! それでは、きちんとお話ができましたのね!」

「え、うん、まぁそう。それで……その方も私を……そのぅ」

「まぁ! そうなのですか。それはようございました。実は私、余計なことをしたのではないかとずっと気に病んでおりましたの」

「いいや? シザーラ殿のご助言は大層役に立った」

「あ、ああ。その事は。でもそれだけじゃなくて……え~」

「ん?」

 レーニエが襲われた日の夜、ファイザルに喧嘩を売ったとはまさか言えないシザーラである。

 おまけに啖呵まで切ってしまい、あの後どうなるかと内心ドキドキしていたが、上手くいったんだからまぁいいやとこの事は伏せておこうと心に決めた。

 あの人は女の悪口を言うような男じゃないし……レーニエ様には絶対にばれないわ。

「いえ、あの……あの時とはお顔のご様子が全然違います……今お幸せ?」

「……たぶん」

「ふ……それはようございました。これで私もお節介のし甲斐があったというもの。どなたかは存じませんけど」

 シザーラはそんなレーニエを微笑ましく見つめて言った。

「あ~あの」

 ファイザルの事を打ち明けたものかどうなのかレーニは居心地悪そうに、椅子の上でもじもじと指先を弄っている。

「お名前を伺おうと思っている訳ではありませんの。ただ同じ恋する女として嬉しかったので」

「ありがとう」

「私も……私も同じ思いをしておりますから」

 シザーラの率直なものの言い方はレーニエの好みに合った。

「アラメイン殿はどのようにあなたに接するのですか? 伺ってもよければ」

「殿下はそうですね、お優しい方です、でもお優しすぎて……よく迷われますの。ドーミエがずっと宮廷や政治を牛耳ってきたので仕方がないのかもしれませんが、今回の事も随分迷っておられた。以前申し上げた通り、私を諦めようとさえされて……それは私も同様なのですが」

「うん。よくわかる。あの方もそうだったから」

「まぁ」

「自分の生い立ちや経歴に一人で苦しんでおられた。だけど、私にとってはあの人の生き方、心のかたち……そんなものがどうしようもなく好きで……瞳に自分を映してほしくて、ここまで追いかけてきてしまった……」

 レーニエは込み上げる想いの大きさに言葉を無くした。そんな彼女を理解のある眼でシザーラが見つめる。

「ええ、そうですわ。女にとっては恋しい方と供にあること以上の幸福はありませぬ」

「その通りです」

「ですが、私……あの、ご相談事があるのですが」

 シザーラはちょっと居住まいを正した。

「なんでしょう?」

「私はレーニエ様と共にエルファランの首都、ファラミアに赴こうと思いますの。おじい様の許可は既にとってあります」

 恋する乙女の顔は消え失せ、宰相ジキスムントの後継者としてのシザーラがレーニエの前にいた。

「あなたがファラミアに?」

 驚いてレーニエは腰を浮かせる。

「はい。かの地で我が国代表の一人として、平和条約締結の準備をお手伝いさせて頂きたいと」

「そう言えば、シザーラ殿は政治家になられるのだったな」

「はい。我が家に生まれた者の宿命にございますれば。父も兄もドーミエのために既に鬼籍に入っておりまする。残ったものは私しかおりませぬ」

「それだけであのジキスムント殿が後継に指名するとは思えぬが。あなたには優れた資質があられるんだろう。脳なしの私などから見れば、大変ご立派だ」

「レーニエ殿下こそご立派ですとも! ともあれ私はファラミア行きが楽しみになってきました。エルファラン国では学ぶ事が多くありましょうが……大変無礼な事を申しますが、レーニエ様とお近づきになれることが嬉しゅう存じます」

「私もあなたともっと語り合いたいと思う。だが、私はいずれ領地に帰らねばならない」

「ご領地? 国王陛下の一人娘の殿下が王都にお住まいになられないのですか?」

「王都には私の居場所はない。だから母上に乞うて北の辺境に領地を頂いた。そこで名ばかりの領主に納まっているのです」

「北の辺境……でございますか」

 先日その話を聞いたシザーラはレーニエの表情から、さぞかし素晴らしいところなのだろうと感じる。

「いつか行ってみたいですわ! ええ、本当に」

「ああ、ぜひ来られるといい。冬が長く、貧しい土地柄だが人々は懸命によく働く。心は美しく、皆穏やかに暮らしている。とても心安らぐ場所で」

「レーニエ様はその土地を、人々を愛しておられるのでございますね」

「そう……とても。早く帰りたいと思っている……あの人と一緒に……」

 夢見るような瞳は、遥かなノヴァの地を思い浮かべるように、窓の外に馳せられた。





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