第75話74.障壁 3
二日後の朝。
「レーニエ殿下、用意が整いました。どうぞお出ましを」
しっかりしたノックの音の後で、セルバローが大股に部屋に入ってくる。そして、部屋の主を一目見るなり、その足がピタリと釘づけになった。
「オヤ」
サリアがさっと脇にどき、後ろに庇うように立っていた主の手を取る。
「レーニエ殿下、では」
「……ああ」
レーニエは王家の正装を纏っていた。それは王家の象徴たる、黒とみまごう程の深い紫紺のガウンで、何の飾りも付いていない簡素なものだったが、それを着る人の若さや美しさを余すところなく引き立てている。
その下に同色の飾りのない長衣。人目を引く珍しい白銀の髪は編みあげられて、後ろにまとめられている。装飾品は一切身につけていない。
やっぱりこの人、女だったね。
内心ニヤリとする赤毛の男。
「先日路上にてご挨拶申し上げましたが、改めまして。私はジャックジーン・セルバローと申します。レーニエ殿下をお迎えにあがりました」
天衣無縫にみえるセルバローは、意外にも優雅な所作で長い手足を操り、真っ赤な頭髪を揺らしながら頭を下げた。傍若無人なように見えて、その気になればどんな綺麗な動きもできる男である。
彼の髪色や瞳の色もレーニエに負けず劣らず珍しいものであった。
「よろしく頼む、セルバロー大佐」
澄んだ細い声は震えているようにも聞こえる。セルバローが顔をあげると、見上げる赤い瞳とまともに目があった。大きな虹彩に万華鏡のような光が揺らめいている。それは酷く悲しげにも、不安げにも見えた。
この二日間、レーニエは与えられた部屋を一歩も出ていない。その間、部屋に入ったのはこの侍女と随身のドルトン、そして二人の将軍達だけだった。
セルバローもこの不思議な人物に会うのは、彼女がここに到着して以来だったのだ。
それは長旅を終えたレーニエの休息と安全保障の為であったが、セルバローはこの美少女の使者が少しも癒されていない事を見てとった。どころか、着いた時よりも少しやつれたような気さえする。
「あのえっと……ヨ……いや、もう一人の……黒髪の将校殿は?」
躊躇いがちに小さな声が発せられた。
「は? ああ、ファイザルのことでございますか。彼ならば既に広間にて、殿下のお成りをお待ちしていおりますよ」
にこやかに彼は応えた。しかし、その不思議な金色の瞳はレーニエの一挙手一投足に注がれていた。
こんなに近くで見るのは初めてだが、この子、まるで天使の置物だな。
あいつの事を気にしている。それではやはりこの二人は見知った関係なんだ。
「……そうか」
セルバローの言葉に、信じられないほど長い睫毛がそっと伏せられた。見ると赤い唇が僅かに震えている。
その瞬間――セルバローは理解した。
どういう経緯があったかは知らないが、この娘はファイザルを愛している。そして彼もまた、おそらく。
しかし、当のファイザルは二日間、寝る間も惜しんで働いていた。
不可解な冷たい態度の裏で激情を押し殺し、努めて彼女を避けている。
そうか。俄かには信じられんことではあるが……ふむ。これは面白い。
セルバローは戦友の心の内を推し量り、内心ニヤリと笑った。
「それではご案内いたします」
かつては来賓をもてなすためのものであったらしい、ウルフィオーレ市庁舎のさほど大きくもない広間が、この度の休戦協定の場であった。
壁の何ヶ所かにひびが入り、調度の多くは失われているが、昔日の栄華が偲ばれるような部屋である。
ザカリエ側の人選は難航したようだが、エルファランの使節が付いた翌日、つまり一昨日、ようやく二十名の規模でウルフィオーレの街に到着していた。
宿舎は市庁舎ではなく、広場を挟んで少し離れた場所にある屋敷に入っていた。そこはかつての裕福な商人の屋敷だった。
使節の首席はオシム・ヴァン・ジキスムント。
ドーミエによって失脚させられたかつての宰相が、長の蟄居先から再び担ぎだされ、かつて同じ戦場を戦ったドルリー、フローレスらと再び見えることになったのだ。
そして、ジキスムントの孫娘で、彼が唯一の後継と押す、シザーラ・ヴァン・ジキスムント。彼女は祖父の第一補佐として、その手腕を学ぶために、常に祖父の傍に寄り添っている。
協定の場に臨む人間は、警備のものを除き、両国とも八名ずつと決められた。
エルファラン側はレーニエ、ドルトン子爵、文官二名と祐筆一名、武官からはドルリー、フローレス両将軍とファイザル少将の八人。
ザカリエ側は宰相ジキスムント、その第一補佐のシザーラ、他に六人の文官武官。進行役はドルトンである。
商人、ドルトンが実は特殊な部署に属する文官で、ハルベリ少将の懐刀という存在だと知れたのは、レーニエが女王よりこの役割を許されてすぐのことだった。
彼は下級貴族であったが、様々な功績を通じて女王の信頼は厚い。かつてアンゼリカの秘かな命を受け、商人としてノヴァゼムーリャまで出向いてレーニエと接見したこともある。
商人としての腕も一流で、その別の顔を利用し、様々な方面に情報網を持つ人物だった。そして、優秀な股肱でもある彼は、今回の休戦協定の条約草案をまとめた文官の一人でもあった。
ドルトンはこの二日間、敗戦国とはいえ辣腕家として知られたジキスムント宰相を相手に不眠不休で対等に渡り合い、女王や元老院の意志を伝え、停戦の条件を概ねザカリエ側に呑ませた。
その後の事務官達による、仮の条文にもかなりの割合で口を挟み、細かい文言を何回も訂正させた。
休戦協定の表舞台は、これから行われる両国首席大使の会見だが、それは形式上で、水面下ではもう既に決定されていることを、ただ承認するというだけのものであった。
「レーニエ・アミ・ドゥー・ワルシュタール様のおなりでございまする」
その声にファイザルは視線を扉に向けた。
レーニエが最後になったらしい。セルバローの先触れにより、開け放った扉からレーニエが入って行くと、居並ぶ人々の視線が彼女に集まるのが彼にはよくわかった。
無関心な様子で、武人らしく背筋を伸ばしているファイザルの顔をちらりと盗み見れただけで、セルバローは意地の悪い満足を感じた。厚い樫の扉は重々しい音を立てて閉ざされる。
セルバローは予め定められたとおり、大人しく扉の前に陣取り、同じ役割の目深に兜を被った地味なザカリエ士官と共に、出入口の警備にあたった。
すべての役者は揃った。ドルトンが両国の面々を澱みなく紹介する。
いよいよ休戦協定が始まろうとしていた。
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