第33話32.領主の恋 8
ファイザルは特に急ぐ様子もなく、ゆったりと馬を打たせながら山道を進んでいる。既に何度も通った道で、愛馬ハーレイ号もよく知っているのだ。天候もよく、明日の昼過ぎには北の砦に到着できるだろう。
二人の兵士は並んで少し先を進んでいるので、彼は自由に物思いにふけることができた。振り返ってももう、小さな山城は見えない。
彼は先日レーニエからの依頼を果たすため、アルエの町まで行き商人ドルトンに会った。彼はいかにも裕福な商人のように振る舞い、
「ご領主様からのお
封をした書簡筒を恭しく受け取り、ドルトンは、ファイザルの見ている目の前で金属製の小箱に入れて鍵をかける。
「ドルトン殿が直接先方に渡されるのか?」
敢えて単刀直入にファイザルは尋ねてみる。流石に相手が女王とは言えないが。
「はい。さようでございます」
ドルトンはにこやかな表情を崩さない。
レーニエの話からすると、この男は国王の私的な使者の役目を担っているのだろう。もしかすると軍の特殊部隊に属する者かもしれないが、どうせ聞けもしない事だったのでファイザルは黙って頷くだけに留めた。
「時にファイザル指揮官殿、あなた様はこの中身をご存じなのですか?」
「いや、知りませぬ。ご領主様からは大切なものだとは伺ってはおりますが、私ごときが中身を尋ねるわけにもいかないので。そうでしょう?」
相手の度量を見定めるように、ファイザルは答えた。偽りを言う時には、真実をある程度織り交ぜた方がよい。諜報戦ではお決まりの手だ。
「左様でございますか。よくわかりました」
「……」
「ご領主様のご容態はその後いかがでしょうか? そのことについてもお伝えないといけないのです」
「それならばご安心を。私がこの書簡を手渡された時には既に熱は下がり、食事をされたと聞きました。今はまだ大事をとっておられるが、あと数日もすれば、本復されるとの医師の見立てです」
「左様でございましたか。それはよろしゅうございました。では、そのようにお伝えいたしましょう。どうかファイザル様、くれぐれも」
ドルトンは不意に体を深く折った。
「くれぐれも、ご領主様をよろしくお願いいたします」
あの男はすべて知っているのだ。レーニエ様の今までの経緯を、そして国王陛下から、あの方のご様子を拝察してくるように命ぜられたのに違いない。
ファイザルはそう確信していた。しかし、ドルトンの真の役割は定かではない。敵ではなさそうだが、得体の知れぬものを信じるわけにはいかない。自分がレーニエから彼女の身分や秘密を打ち明けられたことは伏せておいた方がいい。彼はそう考えた。
あの方も数奇な運命の元に生まれられたものだ。
「あなたは行ってしまうの?」
療養のために訪れた山城。萌えはじめた若葉を背景に、童女のような瞳で見上げられた時、人目も
瞼に浮かぶ幻影を彼は首を振って払う。
最近の俺はまったくどうかしている。
彼は幼少の頃から大人、つまり戦地の兵士たちの中で過ごしてきたおかげで、普通よりもかなり早熟な少年だった。
大人の兵士によい事も悪い事も叩き込まれ、十代の半ばには既に色事では、一端の口を聞くようになっており、彼の精悍な風貌につられて寄ってくる女たちをいいようにあしらってきた。
女など飽くほど知っている、彼はそう思っていた。
正式に軍に入って様々な教育を受けてからは、その時属する部隊で定められた規律に従ってきたが、最前線ではその規律もまちまちで、若い兵士たちは死の恐怖から自制の
ファイザルも同様だった。
仲間で娼館を借り切り、給料を一夜にして使ってしまったこともある。思えば若気の至りというか、昔はずいぶん無茶をしたものだと我ながら呆れる。今の従卒のジャヌーなどは自分から見ると優等生に見えた。
若くしていろいろ場数を踏んだせいか、二十歳を半ば過ぎた頃からあまりそう言うことに関心が薄れてきた。傍目には輝かしく見える軍歴のおかげで地位も上がり、軍務の方が忙しくなったせいもある。特にここ数年は、高僧もかくやという程の禁欲ぶりであった。
それが最近赤い瞳の娘のことばかり考えている。それは彼女の素性を知る前からだ。
日差しに透ける白銀の髪をすくい上げたい。
白い頬を己ゆえに上気させたい。
柔らかい唇に触れ、折れそうな手首を握り、そして――
「馬鹿な」
上官の声を拾ったか、先を行く兵士が何事かと振り返る。それへ、何でもないと手を振ってファイザルはハーレイ号の
いくら美しいとはいえ、あの方はまだ
しかし、彼女は自分が罪の子だと思い込んでいる。おそらく幼少期に植え付けられた観念が尾を引いているのだろうが、人には気を遣うくせに、自分については何時でも
その細い両肩に重苦しい真実を背負い、閉じ込められた暗い幼児期を過ごしながらも、レーニエが豊かな情操を損なうことなく成長できたのは、殆ど奇跡に近いと思われた。
セバスト達の深い愛情もあったろうが、彼女自身が元々強さを内に秘めていたからであったろう。それは正に、彼女の受け継いだ高貴な血筋のせいなのだろう。
本来なら俺などが足跡を拝むこともできないお方なのだ。
それなのにレーニエは、その庇護を受けるべき場所から離れ、一人この地にやってきた。詳しい経緯は分からないが、おそらく自分自身を探すために。
そして、それは実を結び始めている。この北の辺境の地を愛し、人々に受け入れられている。
今まさに開きはじめた美しい蕾。
――だが。
自分自身はどうなのだ。
ファイザルは自問した。目の前にいくつもの苦々しい光景が蘇る。
彼の腕の中で、虫の息で恋人や家族の名前を呼びながら、涙を流して死に行く兵士達。どんなに生きて帰りたかったろうか――彼らの無念は、家族のいない彼にも痛々しいほど伝わってきた。
また、援軍の遅れた街で無残に殺された妻の
愛する者など、家族など、生涯持たぬ。こんなに心を引き裂かれるものならば。
若い頃からそう決めて生きてきた。だから彼は付き合う女は数多くとも、そこに心を残したことはなかった。その代り部下を大切にし、勝利の次に出来るだけ彼らが生き延びることを考えて作戦を立てた。
そのためには敵をだまし、陥れ、そのために犠牲になった敵国、ザカリエ国の民は、兵士だけでも相当な数に上った。そしてそれ以外でも自由国境に住む民間人、子どもや年寄、若い娘たちも彼の立てた作戦によって死んでいったのだ。
敵だけではない。味方の全滅を免れるため、敵地の奥深くに取り残された友を見捨てて退却したこともあったのだ。彼の命で敵陣の奥に潜入した友が、どんな死に方をしたのか確かめることすらしていない。どんな言い訳をしようと、自分が卑劣な裏切りをしたことに違いはない。
しかし、一方で戦果は確実に上がった。一時は絶望的とみられていた有望な鉱山のいくつかは奪還することができたし、国境が北に移動することもなかった。
いつしかその功績が認められ、若くして大佐にまで昇進した。兵の命は将に懸っている。彼はそう信じていたので、興味はなくとも出世するのは|躊躇(ためらわ)わなかった。
しかし、これ以上の昇進は、親も知らない平民の出身で、士官学校も正規の年数行けなかった彼には臨めそうにない。それはちっとも構わないが、作戦は指令官室の大テーブルの上で立てるものだと思っている貴族出身の上官に、大切な兵を無駄死にさせられることだけは我慢がならなかった。
俺は軍しか知らない、軍人以外にはなれない。そう思って生きてきた。
なのに――
薄暗い部屋の中で、彼の目の前に立つ銀髪の娘。男物の黒い服ばかり
「……ヨシュア?」
躊躇いがちに小さな唇が彼の名を紡ぐ。なんです、レーニエ様? と答えると、生真面目な美しい顔がふっと柔らかくなる。その一瞬は何度見ても飽きなかった。
ファイザルは無論とうに気づいている。レーニエが純粋に素直に自分を慕ってくれていることを。そして自分がそう仕向けてしまったと言う事を。
清らかすぎる彼女の心には、まだ恋と言う概念はないのかもしれない。だが、人は恋と言う言葉など知らずとも、人を愛することはできる。レーニエの忠臣達はそれを知っているのだろう。それでも主の事をただ黙って見守っている。だから自分もそうすべきなのだ。
なんだかんだ言ってもあの人は全くの世間知らずで、純粋培養のお姫様だ。自分の価値を知らず、いつも自信がなさそうで、そのくせ驚くような発想をする。あどけないかと思えば、時折ぞくりとする程艶めかしい顔を見せる。俺は……そうだ、確かにあの方に惑わされかけているのだ。
素直で、懸命で、可愛くてならない。ついつい甘やかし、構ってしまう。彼に家族はいないが、年の離れた妹に対するような気持で接していけると思っていたのに、いつの間にかこんなに心奪われている。そんな資格も身分もないと言うのに。
なんて愚かしいのだろう。こんな血に染まった手で、いったい何度あの娘を抱き上げ、触れては口づけをしたのか……思い返せば我ながら常軌を逸してしまっていた。無垢な心に汚らわしい染みをつけたのはまぎれもなく自分。こんなことが許されるはずがないのに。
だが、戸惑いながらもなんとか前に進もうとするレーニエの力になりたかった。彼女の微笑む顔を見たくて、身の程を考えず手を差し伸べている内に、いつしかそのはにかんだ笑顔の虜になっていた。
自分自身を受け入れろだと? よくも
俺自身が自分を許せていないのに……お笑い草だ。あの人がこの事を知ったら俺のことなど、まともに見ようとはなさらないだろうよ。
俺は多分それが怖いんだろう……。
限りなく苦々しい笑いが薄い口元に浮かぶ。太陽はちょうど南中し、馬鹿馬鹿しいほど澄んだ空の下で、ファイザルは自分を呪った。
潮時だと思った。
今後はあまり一緒に過ごさない方がいい。その方がお互いのためだ。そう思って、
ヤキが回ったな、俺も。あんな小娘から逃げ回るなんて、そろそろトシなのだろうな。
一つだけ確実に言えるのは、自分たちは決して想い合ってはならないという事だった。
大したことではない。大人の俺から自然に離れればいいんだ。あの人もすぐに目が覚める事だろうよ。
ふと気がつくと前を行く兵士からずいぶん離されていた。
「お……いかんな、どうも」
ファイザルは上り坂に差し掛かった道を行くハーレイ号の首を叩いて励まし、先を行く兵士達に追いつく。
初夏の空は、もの思う二人の憂いなど知らぬげに、明るく澄み渡っていた。
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