第23話22.領主の役割 9
この日、ファイザルが再び領主館を訪問したのは、宵をかなり過ぎてからだった。
宵と言っても、昼過ぎから空は暗いままで、吹雪に覆い尽くされた屋外では時間の経過は非常に分かりにくい。あの後すぐに激しくなった雪は風と共に縦横無尽に吹きすさび、気温は氷点下を大きく下回った。
ガツン
正面大扉に何かがぶつかる音がした。
館に詰めていた兵士二人が、風に吹き飛ばされた物が扉に当たりでもしたのかと、確認のために二人がかりで扉を開けたところ、ものすごい雪風と共に、黒い大きな馬がホールに飛び込んできたのだった。
「うわぁ!」
「なんだ!」
蹄を高く上げた軍馬は大きくいななき、兵士達が思わず身構えるところに、雪にまみれた大きな塊がどさりと落ちる。
落ちた衝撃で、雪と氷が四方へ飛び散り、黒い物体が明らかになった。
「な……!」
「こ、これはっ!」
額まで覆っている皮のフードはガチガチになっていた。顔の下半分を覆った口布も同じで、慌ててそれらを剥ぐと彼らの崇拝する指揮官、ファイザル指揮官の鉄色の髪が、フードの中にまで吹き込んだ雪と共に現れた。
「し、指揮官殿っ!」
「大変だ! 早く手当てを!」
慌てて一人が奥へ駆け込んでいく。程なく駆けこんできたサリアはホールに馬がいるのを見てたまげたが、すぐにただならぬ事態を解し、大声で母を呼んだ。
「母さん! 母さん大変!」
「ヨシュア!」
階上から悲鳴のような声が落ちてくる。
兵士たちが何を言う暇もなく、レーニエが転がるように階段を駆け下り、兵士たちがいるのも構わずに銀髪を振り乱し、仰のけに倒れ伏したままの大きな体に取りすがった。
「ヨシュア! ヨシュア! ああ、どうして……」
必死で取りすがるレーニエの頭にぎこちなく触れて来るものがある。はっと顔を上げたレーニエはファイザルの青い瞳が細められ、唇の端が僅かに上がるのを見た。
「ヨシュア!」
「レ……エ……フェルは……無事ですよ」
領主館は騒然となった。
まず、手足のどこにも凍傷がないのを確認してから、ファイザルはゆっくりと立ち上がった。
「俺は大丈夫です。それより馬を」
凍えきったファイザルを温める為、サリアは湯を溜めに奥へ駆け込み、温かい食事を用意しようとオリイもそれに倣った。
彼の部下たちは疲れ切っている彼の愛馬、ハーレイ号をホールから暖かい奥の廊下へ連れ込むと、馬身を麻布でこすり倒し、こちらにも特に異状がないのを確かめると、とりあえず厨房の横の物置に彼の寝床を作り、そこに落ちつけてやった。
砦の厩よりは狭くて気の毒だったが、幸い飼葉になる野菜は沢山の備蓄があったから、餌に不自由はさせなくてすみそうだった。
残されたレーニエはどうしていいのか分からず、ただうろたえ、涙ぐんでファイザルの胸に取りすがった。
「ヨ、ヨシュア!」
「俺は平気です。このままではあなたが濡れてしまいます」
そう言って優しくなだめ、体を離そうとしても、レーニエはしがみついて離れようとしない。
「よくぞ御無事で……」
「無事ですとも。でも俺の近くにいるのは危険です。あなたなど一呑みにしそうなくらい腹が空いている」
「あ……す……すまない」
ファイザルの冗談を真に受けて、レーニエはやっと外套を握りしめていた手を緩めた。
その時、風呂の支度ができたとサリアが声をかける。この館には大きな炉が二つもあるため、いつもふんだんに湯が沸かせるのだ。そして、湯を使いながら彼は、まだおろおろとしているレーニエのために事の顛末を説明したのだった。
「……と、言う訳で、フェルも、ヒューイも、セバスト殿も現在セヴェレ砦内で休んでいます。どこも怪我はありません。ま、この吹雪は少なくとも二三日は続くでしょうから、その間は缶詰でしょうけど」
ファイザルは厨房を横切って掛けられた布の向こうで、大きなたらいに張った湯を使いながら説明した。密やかな水音が響く。
滅多に入れてもらえない厨房の椅子に腰かけ、領主は大人しくしていた。皆は遠慮して下がっているので、ここには二人だけしかいない。
奥で炉が燃え盛っているのでここは暖かかった。背後の炉の灯りを受けて、布に映る逞しい影がゆるやかに動いているのをレーニエはぼんやりと見とれていた。
彼は誓った言葉の通り、この館を出るとその足で直ぐに森に向かい、捜索を行っている兵士たちを指揮し続けた。
事は一刻を争う。
森は大木が密生しているので風や雪は荒野ほどではなかったが、気温はどんどん下がり、少年たちの体力では二時間程度が限度だからだ。
ファイザルは闇雲に探すのではなく、彼らの目線で物を考えようとした。この地に慣れないフェルディナンドはともかく、しっかり者のヒューイがついている。彼等は罠を確かめに行ったのだ。そしておそらくそれは小動物を捕えるためのものだろう。
とすれば、それらの出没するような場所に餌をまくはずだ。森の中を流れる小さな流れに向かう斜面の部分。そこは比較的木が少なく、小動物の巣となる藪が冬でも茂っている。
彼はその辺りを重点的に捜索するように部下たちに命じた。
「いました! 二人とも無事です」
だみ声の兵士の叫びが天使の声に聞こえたのはファイザルが森に入ってから一時間後のことだった。
彼等は吹雪の気配に気がついたが、あと少しだからと罠にたどりついた。
しかし、獲物を外し、ヒューイが斜面を登った時には既に、強風が積もった雪を巻き上げ、視界が利かなくなっていたのだった。
それでもヒューイは川沿いになんとか伐採の作業現場に戻ろうとした。だが、視界はますます悪くなり、凍り始めた流れと土手の区別がつかなくなった。
ここで無暗に進み、誤って流れに足を突っ込んでしまっては、凍傷は避けられない。
一大決心をしてヒューイはフェルに事情を話し、少しは風が避けられる斜面に窪みを見つけ、藪で覆って、大人たちが見つけてくれるまでの時間をしのごうと思ったのだった。
しかし、二人ともそれほど重装備はしていなかったので、発見があと一時間遅れていたら、確実に命は危険にさらされていたということだった。
見つけられた時、彼等はお互いに抱きあって暖を取ろうとしていたが、歯の根は合わないくらいガチガチに震えていた。
ファイザルは二人を保護すると、心配のあまり合流していたアダン、セバストと共に、ここから近い砦に運ぶように命じ、自分はレーニエにこの事を伝えるため、再び領主館に引き返したのだ。
困ったのはファイザルの着替えで、彼の着ていたものは半ば凍っており、それが融けるとびしゃびしゃになってしまったので、洗っても乾くまでは着られない。かと言って、ここには、大柄な彼が着られるような衣類はなかったので、仕方なくオリイは、当分帰ってこられないセバストの一番大きな寝巻着を着せることにした。
サリアは彼の部屋を素早く整え、温かい食事を準備していた。
既に夜半になっていたが、レーニエは自分だけ休む気にはさらさらなれず、普段あまり入っていかないような物置や、厨房の周りをうろうろして何か自分に出来ることはないかと声をかけて回った。
やっと温まったファイザルが用意された部屋に落ち着く。
食事を彼の部屋まで運ぶと言い張ったレーニエが、持ち慣れない盆を運んで来た時、彼は寝台に腰をかけて、部屋に飾られた古い装飾品を眺めている所だった。
ドアが開く音がして、レーニエが湯気の立つ盆を持って来たのを見て、驚いたように彼は立ち上がった。
「おや、これはご領主様直々ですか。痛み入ります。お持ちしましょう」
「構わない。私に出来るのはこのくらいのようだから。それよりあなたは座って休んでいて」
「すみません。こんな恰好で失礼いたします」
窮屈にならない程度のセバストの寝巻きだが、丈の短さは如何ともしがたく、長い|脛(すね)が飛び出ている。貴人の前で見せる格好ではない。
「いい。これからはあなたの着替えを用意しておくようにする」
レーニエは恥ずかしそうにしながら、寝台のそばの小卓に持って来たものを並べた。小卓の上に乗っているランプと暖炉だけが部屋の灯りである。
「……」
ファイザルは食べようと伸ばした手をとめて、レーニエを見上げた。
「お部屋に戻られないのですか?」
「あ……えと、そのう……先刻のことを謝ろうと思って……でも、あなたは疲れているのだろうし……下がった方がいいなら……」
「疲れていないことはありませんが、この程度は平気です」
もじもじしながら後じさるご領主様に真面目な顔を見せようと、かなりの努力をしながらファイザルは言った。
「どうぞ、お話なすってください。椅子を持ってきますから、あなたも腰を下ろされるといい」
あっという間に二つ椅子が用意され、薄暗い部屋に二人で向き合うことになった。
「す、済まない。私に構わず食事をとってくれ」
「はい。では失礼いたします」
ファイザルはてきぱきと出されたものを平らげていく。軍人の常で食事に時間をかけることをしないのだ。そして、レーニエは謝ると言ったわりには俯いたままで、彼と目線を合わそうとしない。
こうして見ると、本当にあどけない普通の娘なんだよなぁ。
先刻は激昂したレーニエを落ち着かせようと緊急手段に出た。少年時代から戦と女の扱いには慣れているとファイザルは思っている。しかしあの時、気を散じさせようとした口づけが、いつの間にか別の意味を持ちかけた事に自分は気がついている。腕の中の娘が力を手放した後も、その唇を執拗に貪ったのは間違いなく自分の意志だった。ほんの少し脅かすつもりが止まらなくなり、小さな花弁を割って侵入してしまった。
一瞬我を忘れてしまったのか……この俺が?
そして知ったのだ。唇を離した後のレーニエが、疑いのない女の表情をしていたことに。本人は全く気づいていないが、赤く色付いたそれは、今も彼の目の前に晒されている。
「……で?」
話の水を向けてみると、はっと顔が上がる。先ほどは怒りであれだけ煌めいていた赤い瞳はランプの灯を映し、今はけぶった橙色に染まっている。
「俺に何を謝ってくださるというんです?」
食べ終えた食器を脇に押しやり、組んだ両手の上に顎を置いて、ファイザルは目の前の美しい少女を見た。
「あ……」
レーニエは、今は部屋着に着替えてガウンを羽織っている。
首筋が露わで、その細さが痛々しかった。どうしてこの娘を一時でも男だなどと思えたのだろう。確かにまだ体に丸みが少なく、人形のような顔は、天使のように中性的な印象を受けるのだが。
「その……えっと、先ほどは随分取り乱して……さぞ見苦しかったろうと……済まない……ごめんなさい……」
長い睫毛を伏せたまま、ぽつりぽつりと言葉を探す姿は本当に素直で。
「フェル……あの子は私にとって、かけがえのない存在だから……」
ふっとファイザルの目が細められた。フェルディナンドは幸せだ。こんなにその主に愛してもらえて。
「いいえ。フェルを心配してのことですから、当然だと思います。俺の方こそ、臣下にあるまじき振る舞い、申し訳なく思っています」
そう言った途端、自分がされた事を思い出したのか、白い頬がみるみる赤く染まった。以前にも見たことがあるが、その様子は言葉を失うほど愛らしい。
「それは……や、やむを得ない事だったのだろうから。あなただってしたくてした訳じゃないだろうし、何よりあなたは私の臣下ではないし……」
ついさっきのように思える唇の感触を思い出し、レーニエはますます言葉に詰まる。
「わ、私は前に話した通り、その……普通ではない環境で幼年時代を過ごしたので、おそらく感情のどこかがおかしいのだ。普段は気をつけているのだけれど……だから」
「あなたの感情はとても豊かで素直だ。少し不器用なだけで、おかしくなどない。俺はそれでいいと思います。」
「……そうかな?」
「そうですよ」
レーニエは目の前で組まれた、彼の骨ばった指を見つめた。
大きな手、力強い指先。この掌で――
「そ、それで……さっきは聞きそびれたのだが……どうしてフェルが救出できたのに、危険を冒してここに戻って来られたの?」
「それは約束したから。この吹雪はいつ止むか分からないし、これ以上あなたに心を痛めて欲しくなかったので」
「私のために……命の危険を冒してまで……?」
「まぁ、私だけではおそらく無理でしたが、ハーレイがいましたしね。奴は賢いし、頑丈だ。ついでにヒューイのところにもジャヌーが伝令に行っているはずです。あいつは若いし、たぶん今頃は俺と同じようにアダンの家でこうしているでしょう」
「すまない……」
自分のことしか頭になかった自分を痛感し、またしても白銀の頭が深くうなだれた。
「……しかし、なんですか? あの風呂は」
急に話題を変えたファイザルに思考がついていけず、レーニエは思わず顔をあげる。
「え? フロ?」
「なんだか知らないが、湯にお花がいっぱい浮いていてびっくりしましたよ。しかも、なんだかいい匂いがするし」
「あ、それ……」
どうやらサリアがファイザルをリルアの花風呂の実験台にしたらしい。
心配事がなくなったらこれだ。なんてちゃっかりしているんだろうか。
「見てください。今でもなんだか匂うんです。まるで貴婦人のような香りが。俺のような無骨な男のさせる匂いじゃない。おまけになんだか皮膚が、するするぽかぽかするし。一体あれはなんです。都じゃあ、ああやって風呂に入るんですか?」
「いや……そう言う訳では。あ、本当だ……なんだかまだ香っている」
「!」
目を閉じて体を乗り出したレーニエに、言葉を失ったのはファイザルの方だった。まるでもう一度口づけして欲しいと言わんばかりの仕草に思わず手が伸びる。
「ほら……匂うでしょう?」
やわらかく顔を覆われて、レーニエはこくんと頷いた。確かに甘い香りが腕の方から立ち上ってくる。
「こんな香りはあなたのような人に相応しいのです。それからこれは、覚えておいてほしいのですが……」
レーニエの頬から下を手の平で覆いながらファイザルは赤い瞳を見つめた。
「男と二人だけの部屋で、決してそんな顔を見せてはいけません」
「……?」
何を言っているの? と言う風に小首を傾げる娘に、これ以上どうやって男の本能について説明できようか。あなたのその仕草がよからぬ感情を抱いた男を煽るのですとでも?
「……さぁ、もうお部屋にお戻りください」
仕方なくそう言うと、彼は指を滑らせ、耳の横の髪を梳いてゆく。長い白銀の髪は梳かれるままに指の間を通り、やがてするりと落ちて行った。
「今日はお疲れでしょう? ゆっくりお休みください」
大きな掌に頬をあずけながら、素直にレーニエは頷いた。
「食器はそのままで。明日の朝、俺が片付けます。お風邪をお召しにならないように、すぐに寝台に入ってください。ああ……それから」
「え?」
ドアのところでレーニエが振り向く。
「この吹雪が止むまでしばらくこちらでご厄介になります。ご領主様、滞在をお許し願えますか?」
薄暗い部屋で白い顔がぱぁっと輝いた。
「無論だ」
「ふ……ではお休みなさいませ」
レーニエが去ってから、ファイザルはばさりと寝台にあおむけに横になった。
我知らず大きなため息が漏れる。
どうかしている。あの人はまだ子供で……しかもおそらく、やんごとなき血筋だ。こんな感情は馬鹿げている。おそらく庇護欲を変な風に取り違えているのだ、俺は。
そう言えば長い間、女に触れていないからなぁ……とっくにそういうもんから解放されたと思っていたが、まだまだ俺も修行が足りんな。これじゃあ、ジャヌー並みじゃないか
しかし、彼の掌は柔らかい頬の感触をいつまでも残している。その手で瞼を覆うと、今度は瞳を閉じた白い顔が浮かんでくる。
ファイザルは、もう一度あの唇に口づけたいと言う気持ちを、なかなか静めることはできなかった。
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