第4話 3.北方辺境の新領主 3

「レーニエ様、まだお休みになられませんか?」

 小さなノックとともに入ってきたのは、レーニエの小姓、フェルディナンドだった。

 彼の主は既に入浴を済ませ、夜着に着替えていたが、まだランプは消してはおらず、小姓はその光を見咎めて主の私室に入ってきたものと思われた。

「……お疲れになりすぎたのでは? 何か温かい飲み物でもお持ちいたしましょうか?」

 小さなロウソクを脇に置いて彼は尋ねる。フェルディナンドは少年にふさわしくない老成した眼差しが、何か足りぬものはないかと部屋の中を一巡した。長めの黒髪を後ろで結わえ、手足の長い、優美な体つきをしている。

「いや、いい」

 とばりも閉めず、窓越しに凍てついた冬の空を見つめながら、レーニエは答える。既に、黒絹の仮面は解かれ、ランプの横に投げ出してあった。

 フェルデイナンドは、うっとりとその後ろ姿を見つめた。裾の長い白い夜着の上からやはり白いガウンを羽織っている。彼の主人が黒以外の色を纏うのは、眠るときだけだった。

 一か月前、主に先んじて領地入りし、両親とともに準備を整えることを父、セバスト告げられた時、フェルディナンドは、自分は都に残り、レーニエと行動を共にすると強く抗議した。

 いくら多少武術の心得があるとはいえ、十九歳である姉とたった二人で旅をする等、世間知らずのレーニエにできるはずもないと思ったからだ。何かあったら一体どうやって自分の身を守るというのだ。

 しかも、都を出る時にはサリアが主人を装う。貴族以外の女が都を出る時は連れは一人と決められているから、フェルディナンドが付き添う訳に行かない。それはこの国にとって、貴重な働き手である女性の移動を最小限度にとどめる為の制度であった。もちろん、商人などはいくらでも袖の下を使ってこの決まりをかい潜る訳だが、自身にたっぷりといわくのあるレーニエは、これ以上面倒を起こしたくなかったのだ。

 絶対に自分が付き添うと言い張ったフェルディナンドを最後に説得したのは、彼にとっての絶対的な主のレーニエだった。サリアは機転も利くし勘も鋭い。そしてまた、北の領地の最後の宿坊までは極秘に護衛も付き添う手筈が整えられている。そして、自分も目立たぬように努めて旅をするからと、いつになく真剣に説明され、忠実な少年はついに折れたのだった。

「レーニエ様」

 久々に見た夜のレーニエは、後姿ということもあって、ほとんど真っ白であった。洗ったばかりの髪は乾かすためにそのまま背中に流れている。

 艶が出るまで梳(くしけず)ったのは、もちろん彼だった。

「何をご覧になっておられます?」

「空を。そして村と山を」

 相変わらず窓の外を見ながらレーニエは答えた。いくら暖炉が燃えているとはいえ、帳を開けたままでは冷気が浸みこんでくるはずなのに、この人は何故動こうとしないのか。

「空はともかく、地べたなど暗いだけでしょう? お寒くはありませんか?」

「大丈夫。でも確かに暗いな、ほとんどは。だけど、ところどころに小さな明かりが見えるよ。まるで地上にもう一つの夜空があるようだ」

 つられてフェルディナンドも暗い窓外へと目をやる。

「やっと都を出られた……」

 低い呟きは誰に向けられたものであったか。

「……もうお戻りにならないのですか?」

 聞き咎めて少年が問う。それは嘆願でも、不満でもなく、真実、主の心の内を知りたいと思う気持ちからだった。

「さぁ……正直、それはわからない。でも、とりあえずは戻らない。この地で出来る限り暮らしていこうと思う」

「それなら私も正直に言いますが、ここは随分陰気で、つまらないところのようです」

 少年はずけりと言い放った。

 彼は家族といるときは、自分のことを「俺」という言うが、レーニエと二人でいる時には大人ぶって「私」という。そんな使い分けも、この負けん気の強そうな少年にはふさわしいように思えた。

「くくっ」

 珍しい主の笑い声にフェルディナンドは、はっとなる。

 暗い窓ガラスに、すらりとした白い姿が写り込んでいるが、その顔の表情までは見えない。彼は思わず窓辺の主人の横に立った。

「ふ……フェルにとってはそうかもしれない。けれど、私にとっては王宮ほど陰気で……恐ろしいところはなかったよ。ここは寒い地方だけれど、私には合っていると思う。つまらないとは思っていないよ」

「……あの人と何をお話しに?」

「あの人? ああ、あの指揮官の事か。問われたので、私の身分証明を。それから、この土地についてもう少し教えてほしいと頼んだ。それと、明日は、この土地の代表に会いに行くつもりだから紹介して欲しいとも」

今夕こんせきこちらに着いたばかりでもう? 一日二日、お休みになられた方が……」

「この十八年間、私はずっと休んできたのだ。フェル、そろそろ働いてもいい時期ではないか?」

「では、私もお伴を」

「ああ、そうしてくれるかな」

「でも、本当は私は反対です。見ず知らずの男と行動を共にするなど。父にも行ってもらいましょう」

 灰青の瞳をきらめかせて少年はその主に意見を言った。

「……大丈夫だ。あまり大げさにはしたくない。それにあの人は信頼できる」

「今日会ったばかりで何故そんなことがわかるのです」

「……わかる」

「レーニエ様が初対面の人にそのように言われるのは珍しいですね」

 少年の声には些か棘があったかもしれない。

「そう?」

 意外なことを聞いたような答え。

「ええ。そんなにあの人がお気に召されましたか?」

「気に入る? いや……そんなことは考えなかった。ただ……うん、そうだな。上手くいけばこれからも私を助けてくれそうな人物に見えた」

 レーニエはその人物が去っていった方角に目を凝らしているようだった。このずっと先に国境警備隊の駐屯基地があるはずなのだ。

「レーニエ様」

「ん?」

 ようやく窓外から目を離し、レーニエは自分の小姓に顔を向けた。

「……お顔をお見せくださいますか?」

「こんな顔を見たいのか?」

 そこにはやや哀しげな赤い瞳があった。びっくりするほど長い睫毛が、その色を目立たなくしている。

「……やはりお疲れのようです。もうお休みください。レーニエ様」

 主の顔を崇拝の表情で見つめながら、フェルディナンドは大人びた態度で断じた。

「そうか……そうだな」

 レーニエは素直に寝台に向かった。天蓋の付いた大きなそれは、かなりの年代物のようだった。もちろん寝具などはすべて真新しく、清潔にオリイの手で整えられていたが。

 フェルディナンドは主の脱いだガウンを受け取り、きちんと畳んでそばのテーブルに置いた。そして布団にもぐりこんだ主人の肩を甲斐甲斐しく包み込んでやり、長い髪が絡まぬよう、絹のリボンで結ぶ。もう乾いているので大丈夫だろう。

「お休みなさいませ」

「おやすみ」

 暖炉が|熾火(おきび)になっているのを確かめると、少年は小さなランプの芯を絞る。部屋はとたんに闇となった。この部屋に来る時に彼が持ってきたロウソクだけが心細そうに瞬いていた。

 静かに扉を閉じて廊下に出ると、寒さが身にしみる。蜀台しょくだいに手をかざしてフェルディナンドは唇をかみしめた。

 この哀しい運命を背負った人に、いったい自分は何をしてあげられるのだろう。早く大人になってこの人を守れるようになりたい……そう思って小さなロウソクだけを手に、暗い廊下を進んだ。

 領主は暗い天井を見上げていた。窓の外に耳を澄ます。

 高い空で風が鳴っているようだ。

 風は、石でできた迷路のような通りを抜けてゆく都のそれとは異なり、大きく、自由に空を渡っている。それは寂しげでもあり、また楽しげでもあった。


 ああ。風の音さえも都とは違います。母上……あなたから離れて私はこの北の大地に来たのです。どうか、もう私のことでお気をわずらわすことの無きように……

 レーニエにとって新天地である最北の地、ノヴァゼムーリャでの初めての夜。

 この土地で一体何が待っているのか?希望や展望というものをあまり持ったことのない若者にとって、この地は生きる意味を見いださせてくれるのだろうか?

 その運命は夜空を渡る風の行方に似ていたかもしれない。




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