第343話 緑依風と爽太
土曜日の昼。
緑依風は一人、冬丘街のショッピングモール内にある、大きな本屋に来ていた。
「(え~っと、参考書はどこだっけ……)」
ファッション雑誌が並ぶ棚を通り過ぎ、人気作家が手掛けた小説コーナーを横切り、学習参考書が陳列された棚へ辿り着いた緑依風は、中学生向けの書籍の前で立ち止まる。
二学期の期末テストで、初めて首位陥落した緑依風は、それを知った葉子の表情や声を思い出し、険しい顔つきになりながらページを捲る。
あの時、社会のテストで点が取れなかったのは、問題がわからなかったのではなく、解答欄がずれていたことに気付けなかった不注意からだ。
後日もう一度解いて採点してみればほぼ満点だったし、三学期の期末テストではもちろんこんなことが再び起こらないよう、気を引き締めるつもりだ。
だが、それでも百点だったわけではない。
社会のテストが不出来でも、その他の教科でもっと点数を取れれば、一位を逃すなんてことはなかったかもしれない。
「(英語をあと五点取れれば……数学も、あの問題を間違わなければ……もしかしたら……)」
他の生徒よりも一点でも多く取らなければ、それだけトップからは遠のく。
次のテストでまた二位をとれば……。
それよりも下がってしまったら――母は何を言い出すだろう。
緑依風が脳裏に浮かぶ母の表情や言葉に身を縮こませている時だった。
「あっ、やっぱり松山さんだ!」
「えっ?」
背後から、聞き慣れた少年の声がして振り向くと、爽太が「や!」と片手を上げて、短い挨拶をした。
「日下……」
「今日は一人?」
爽太が聞くと、緑依風は「うん、日下は?亜梨明ちゃんと一緒?」と、聞き返す。
「ううん、僕も一人。欲しかった本が夏城の本屋になかったから」
そう話す爽太の手には、若い男子向けのファッション雑誌が抱えられていて、表紙には人気俳優の写真の上に『女子受けする着こなしテク』『春を先取り!コレさえ守れば間違いなし!』となどの大きな文字が表記されている。
「へぇ~?日下もこういう本読むんだ?」
緑依風がちょっぴり意外な気持ちで聞くと、爽太は少々照れくさそうにはにかみ、「え~っと……最近、ね……」と答えた。
「そうなんだ?……日下って、私服いつもおしゃれだよね?自分で選んで買ってるの?」
「お恥ずかしながら、全部親任せだよ。買ってもらったやつを、適当に自分で組み合わせて着てる」
爽太はそう言って、上着の中に着ている服を見せて笑うが、今日身に纏っているものもとても彼によく似合っている。
「日下のお母さんって、センスいいね!」
「うん。うちは父親もこういうの無頓着だから、家族で買い物に行くと母親がそのシーズンごとにまとめて選んで買ってくれて……。でも、いつまでも親任せは良くないし、それにほら……亜梨明と出かける時に、ダサい格好なんてできないでしょ?」
手に抱えたままの雑誌に視線を移した爽太を見た緑依風は、彼が亜梨明のために自分の身なりを気にし始めたのだと知ると、微笑ましい気持ちでついニヤけてしまいそうになり、口元を隠す。
「この雑誌、服装だけじゃなくて、男子の行動を見た女性の意見とかも書いてあるんだ」
「女性の意見?」
「……僕、人の気持ち……特に女の子の気持ちに鈍感だし、そのせいで周りを振り回したり、無自覚に相手を傷付けてることがたくさんあるって知ったから……だからちゃんと勉強しないとって!」
去年は亜梨明のこと。
そして、つい最近も逢沢のことで一悶着あった彼は、ファッションだけでなく、女性側の気持ちを知るための参考書として、この雑誌を選んでいたらしい。
「ふふっ、日下って真面目だよねぇ~!」
「真面目ってとこは、松山さんも負けてないでしょ?……そういえば、松山さんは何を買いに来たの?」
「あ、私は……」
爽太に聞かれた途端、緑依風の顔から笑みが消える。
「――買うっていうか、どれが一番分かりやすいかな~って……」
「…………」
緑依風の動きに合わせて本棚を見つめた爽太は、彼女のそばにある本に手を伸ばす。
「――ねぇ、二学期の期末……一番取ったのって日下?」
緑依風の問いかけに、爽太は一瞬迷った顔をしたが、「うん……」と頷いた。
「やっとの、一番……」
「やっと?」
「うん……。かっこ悪くて言えなかったけど、僕一年の頃からずっと、松山さんのことはライバルって思ってたから」
「えっ?」
思わぬカミングアウトに、緑依風の口から間の抜けた声が漏れる。
「自慢じゃないけど、これでも小学生の頃は学年で一番勉強できるって言われてたんだ。なのに、中学になってからは松山さんに負けっぱなし……。だから、クラスが別れてからも、次こそ勝つ!って、対抗心燃やしまくってた!」
「ふはっ、なにそれ……!」
緑依風が息を吹き出すように笑うと、爽太も安心したように「ふふっ」と笑う。
「残念だけど、次の期末はまた私が勝つよ?」
緑依風が腰に手を当て、爽太を挑発すると、「いいや、また僕が勝つさ!」と、彼も強気な顔で言い返す。
「ふっ……!」
「あははっ!」
二人の間に、和やかな空気が生まれる。
「ねぇ、本選び終わったらもう少し話そうよ。……っていうか、話したい!」
「いいよ!じゃあ、早く終わらすために選ぶの手伝ってくれる?」
「うん!」
爽太が手伝ってくれたおかげで、緑依風が求める参考書はすぐに見つかった。
少し長い列に並んで会計を待っている間は、他愛もない話で盛り上がり、順番が来るまでが短く感じた。
「(意外だ……日下って、こんなに話しやすかったんだ……)」
去年から友人として接していたはずなのに、爽太と一対一で話す機会が少なかった緑依風は、前を歩く爽太の背を見上げて、そんなことを思っていた。
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