一週間の重み。

 列に並んで一体どれ位の時間が経ったのだろう。一歩また一歩とその動きは遅いが、着実に個室の入り口が近付いている。それと同時に、ヤツは確実に出口へと近付いていた。


 後方で並んでいた人達の一人が、手で口を抑えて涙目になりながら駆け出した。その奇怪な行動も、ここに並ぶ人達なら瞬時に理解出来ただろう。そして、他人事ではない。と、この場に居る誰もが気を引き締め直したに違いない。最早後戻りは出来ない。もし今、この場を離れたら私ではもうヤツを抑え込んではいられない。待ち受けるのは死(社会的な)だ。


 残りは三人。油断は禁物。残りは二人。背筋をピンッと伸ばし、何処とは恥ずかしくて言えないが、ギュッと力を入れて無表情で一点を見つめる。残りは一人。更に力を入れる。この頃になると身体は微かに震え、額には脂汗がビッシリと浮き出ていた。そして私の番。


 悟られぬ様に普段の動作で個室に入る。ドアを閉めた所から三倍速で動作をし、白磁の器に腰掛ける。この時、ワンピースである事が功を奏した。もし、着ていたのがズボンであったなら、降ろしている最中にヤツが解き放たれたに違いない。それだけギリギリだった。


 我慢して我慢しきって訪れた開放感は、言葉では言い表せない程の至福のひと時を与えてくれた。フニャリと表情筋が緩みきっているのがその証拠だ。遠くから聞こえる歓声も、心地よく耳に届いている。一週間。溜まりに溜まったアレは、姿を見せては次々と重力に引かれて落ちる。身重の身体が軽くなってゆくのが感じられた。


「フゥ……」


 私は全てを出しきった。悔いは無い。あろう筈が無い。そんな満足感に浸っているとドンドン。と扉を叩く音が聞こえた。恐らくは『早くしろ』。という事だろう。


「すみません。すぐに出ます」


 立ち上がってパンツを引き上げる。そして、流水レバーに手を掛けた所で緩みきっていた表情が凍り付いた。


 この時になって独特な香りが無い事に気付いた。眼下の器にはアルミニウムにも似た光沢を放ち、それがうず高く盛られている。恐らくは一週間分。どうやら予定日を過ぎてもボーナスタイムは継続していた様だった。


「どどど、どうしよう……」


 ドンドン。と再びドアが叩かれる。切羽詰まった私に、切羽詰まった人達がまだかと催促をしているのだ。


「どうしよう。どうしたら……?」


 ドンドンドン。三度叩かれた個室のドア。これがバレればあらぬ疑いが掛かる事は目に見えている。あの受付嬢の時の様に、今度は周囲から懐疑の視線を注がれる。そうなればもう街を出るしかない。


 追い詰められた私は、視界の隅に映っていたある物に手を伸ばした。


「すみませんっ、お待たせしましたっ」


 個室のドアを開けるなり、更に人数が増えていた列に声を掛けて走り出す。頃合いを見計らって速度を落とすと、待っていてくれたリリーカさんがヒョッコリと顔を出した。


「ああ、リリーカさん。ごめんね待たせて」

「どうされたのです? そんなに慌てて……あ。まさか、出ませんでしたの?」

「え。ううん、そんな事ないよ。ホラ、この通り」


 全力を出し切った証であるキュッと引き締まったお腹をポンポンと叩く。


「ただちょっと用事を思い出しちゃって、これから行ってくるからもう少し待っててくれないかな」

「でしたらわたくしもご一緒しますわ」

「あ、大丈夫大丈夫。すぐに戻ってくるから」


 リリーカさんを置き去りにして私はとある場所へと駆け出した── 




 ラグビーを見た事があるだろうか? 今の私はその選手の様だと思えた。小脇に抱えた鉱物が周りに気付かれていないかと焦りながら、祭りで溢れかえっている人海を右へ左へと避けてゆく。そうしてやって来たのは換金ギルドの『ポーン』。店内はそこそこに混んでいたが、回転率が良いのかすぐに私の番となった。


「次の方ぁ」


 前の人のものであろう書類を脇に置き、私へと視線を向けた受付嬢は、カウンター上に置かれた包みがわりの上着を見て表情をヒクつかせた。


「これの換金をお願いします」

「は、はい。分かりました。それでは品物を拝見致しま……す。こ、これはっ」


 その中身を見て受付嬢が驚きの声を上げる。それを見た他の人達もざわめき始め、瞬く間に店内に広がっていった。


「し、少々お待ち下さいっ」


 言って受付嬢は奥へと引っ込み、程なくして戻って来た彼女の後ろには、見覚えのある顔があった。確かこの店のマスターの確かザンダさん。


「これはこれは。先の件では大変ご迷惑をお掛けしました。本日のご用件は換金という事です、が……」


 カウンター上に置かれたアルミニウムに似た光沢を放つ物を見て、ザンダさんの口元がヒクッとしたのを私は見逃さなかった。


「友人を待たせているので早くお願いします」

「え? ああ。兎に角ここでは何ですので、奥へどうぞ」


 ザンダさんの後をついてゆき、私の後を受付嬢がついて来る。両手に持った例の鉱物が重いのか、多少足元がふらついている。大丈夫か?


 案内された部屋は応接室と書かれていた。室内には、価値があるであろう調度品が置かれ、私のアレと同じ光沢を放つ壺などもあった。『アルカイック』に比べれば狭い感じがするが、商談をするのには問題の無い広さだ。


 私の後をついて来ていた受付嬢は、応接セットのテーブルの上に鉱物を置いて退出してゆく。鉱物を乗せた際ギシリと聞こえたのは気の所為か。


「いやはや、中々の代物ですな」


 そりゃそうだよ。何しろ一週間分なんだから。こんな事になるなんて私だって予想がつかなかったよ。


「アユザワ様はお忙しいと言う事ですので、早速鑑定させて頂きますね」


 ザンダさんは立ち上がり、棚に置かれていたクッキングスケールを持ち出した。それをテーブルに置いて、その上に例のブツをよっこいせと置いてボタンを押す。青白い光が例のブツを包み込み、程なく消えるとジャコジャコとレシートが出て来た。見れば見る程不可解な機械だな。


「こちらが鑑定額となります」


 渡されたレシートを見る。そこには驚くべき値段が記載されていた。


「じ、十二万?!」


 その金額は金鉱よりも四万高い。たかが銀鉱なのに……


「ええ、これだけ良質で量のある銀も珍しいですからね。彫金師や鍛治師などが高く買ってくれるのです」


 彫金師はシルバーアクセサリに。鍛治師は鎧の材料として使われるのだという。


「ところで、アユザワ様はギルドカードをお持ちでは無いのですか?」


 ギルドカード。身分証明を兼ねた預金通帳だっけ?


「ええ、取り敢えずは後回しにしているけど……」


 他の街に行かない以上は使う機会がほぼ無いし、お金も散歩がてら金融ギルドへと行けばいいと思っているので、特に必要とは思ってない。


「これを機にお作りなられては?」

「カードをですか?」

「はい」

「うーん、でも……時間かかりますよね?」


 広場近くでリリーカさんが待っている筈だ。あまり時間は掛けていられない。


「いえ、そんな事はありません。登録だけならほんの数分で済みます」

「うーん。じゃあお願いしようかな……」

「分かりました。それではご用意致します」


 言ってザンダさんは席を立ち、カードを取りに行った。数分で済むならまあ良いか。




 フーッ。フーッ。荒い呼吸を繰り返し、顔から十センチ程離れた場所に聳え立つ右人差し指と、それに添えられた鋭利な刃物を凝視する。多分、今の私の目は顔の中心に向かって寄っていると思う。血液から情報を読み取ればそりゃあ数分で済むわな。


「あ、アユザワ様。肩の力を抜いて……」

「黙って! ……黙ってて下さい」


 はい。と言って口を噤むザンダさん。そうは言ってもね。裁縫中とかの不意な出来事では無く自らの意思でって事になると、結構な覚悟になるんだよ。


 静かな室内で再び息衝く荒い吐息。瞬きもせずに凝視していた所為で目が乾き、一旦目を閉じて開けると、眼前の鋭利な刃物は指にさっくりと刺さっていた。


「の、のぉぉっ!」


 指から溢れる思いがけない量の赤い液体。それがテーブル上に置かれた名刺サイズのカードにボタボタと落ちると、カード自体が青白い光を放ってすぐに消えた。


「お、落ち着いて下さいアユザワ様っ。傷口を見せて下さいっ」


 オホホっ。血よっ、血だわっ。と、内心でパニクっている私の手を取ったザンダさんは、ポケットから取り出した試験管の液体を傷口に掛けた。すると、赤い液体を溢れさせていた一筋の傷が見る間に塞がり、元通りの人差し指に戻っていた。


「あれ、傷が……」

「ポーションの効果です。切り傷等の軽傷なら掛けるだけで治ります」


 飲めば体力も回復するのだという。元の世界なら暫くはズキズキと痛みが残る所だが、それすらも残らないとはファンタジー様様だな。


「すみません取り乱しました」

「と、兎に角これで登録は完了しました。アユザワ様、カードを手に取ってみて下さい」


 言われた通り、赤い液体に塗れたカードを手に取ると、内枠の白い部分に私の顔写真が映し出された。まるで学生証みたいだ。


「これで入金も出来るのですか?」


 私の問いにザンダさんは首を横に振る。


「いえ、カードに口座の情報を登録しなければなりません。その為には一度金融ギルドへと足を運んで頂く必要があります」


 なんだ。即使えるのかと思っていたら、結局は行かなきゃならないのか。

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