春が来る前に

「はぁ……」


 二年と半年以上も通った校舎の前に立つと、安堵に近い溜息が漏れ出た。道行く人が妙に足早で、そのくせどこか気怠そうに映る東京都内独特の空気がちょっと苦手なもので、こちらに帰ってくると気が緩んでしまうな。上手く事が運べば、春からはあの空気の中で毎日過ごす事になるのかと思うと変な方向で不安になる。いやまあ、まずは受かれよって話なのだが。


 帰りのホームルームが終わった直後だったらしく、昇降口を埋め尽くさんばかりに溢れる生徒たちの隙間を縫いながら職員室へすたこらさ。今日は一つ、報告しなければならない事があってね。


「奏太?」

「あれ、修じゃん」


 職員室に入ろうとすると、少し短くなった髪をピシッとキメている奏太が、入れ違うように出てきた。


「遅刻? それとも社長出勤? 学校のミスターともなると好き放題出来るんだなあ羨ましいなあ」

「今日が推薦当日だって知ってるくせに」

「修んとこは試験早いんだなあ」

「早くない。もう十一月だよ?」


 文化祭が終われば、俺たち三年生を待ち構えるビックイベントはほぼ終了したと言っていい。ここから先の数ヶ月は、それぞれの進路、将来の為に費やす期間である。


 他の生徒より早めだけど、俺にはもう来たのである。勝負の時が。


「手応えは?」

「手応えと言われてもなあ。まあ大丈夫だと思うよ」

「なら大丈夫だな」


 お前が大丈夫だって言うなら大丈夫だ。とでも言いたいのか、得意気に頷く奏太。信頼されているのかなんなのか。


「だといいけど」

「とりあえずお疲れ。中にやっちゃんいるぞ」

「うん。奏太は呼び出し? 今度は何やらかしたの?」

「ちげーわ。十七歳児扱いやめれ。やっちゃんにちょっとな」

「ふーん。帰りどうする?」

「寄りたいとこあるから先行くー」

「わかった」

「あーい」


 雑な世間話に雑なバイバイをして、奏太とすれ違う。


「……ねえ奏太」

「あ?」

「なんかあった?」


 ここ数日の間に雰囲気変わったよ、奏太。髪を切ったからって事では絶対にない。


「あったぞ。毎日色々あるまである」

「なんだそれ」

「良い事ばっかとは言わんけど、悪い事ばっかでもないからへーきへーき」

「そ」

「おー」


 ひらひらーと適当に手を振りながら、小さい頃から大きい背中が遠去かる。これ以上何も話すつもりはないらしい。そういう事なら突っ込まないでおくよ。今は。あんまり看過出来ないようならゴメンだけど、そっちの都合は無視させてもらうからね。


「失礼します」

「おお、桃瀬。無事終わったか」


 うちのクラスの担任兼俺らの父母ーズとケイトさんの友人、佐藤弥一郎ことやっちゃんのデスクに向かうと、書類の山と絶賛格闘中だった。納期が納期がー言ってるサラリーマンめいてる。大変そうだなあ、教師って。っていうかどうしてこっち見ないで俺だってわかるのさ。エスパー?


「うん、終わった。っていうか机汚すぎじゃない? 片付け出来ない男はモテないよ?」

「学校のミスターからの金言か。五臓六腑に染み込ませておかねば」

「こんな子供にマジダメ出しされてるようなダメ大人だからいつまで経っても独身な」

「しばくぞ」

「はいすいませんでした」

「ほんっと生意気に育ったなあお前さんも」

「親が親なもので」

「違いねえや。爽やかに刺してくる所なんて親父そっくりだ」

「人をキレたヤバいやつみたいに言うのやめてもらっていい?」

「お前さんはお前さんで親父をなんだと思っているんだ」

「人畜無害を装った変態」

「正しい認識だ。まあ、ひとまずお疲れさんだ。お前さんの事だから心配しちゃないが、もしもの場合に備えた準備はしっかりしておくように」

「言われなくとも」

「よろしい。ほれ、仕事の邪魔だ。用が済んだらさっさと帰った帰った」

「あーちょっと待って。さっき奏太来てたよね? なんかやらかしたの?」

「違う違う。今更になって進路調査票を持って来おったんだ」

「いやほんと今更だな」


 そういえば具体的な事は何も聞いてなかったような。進学するーとはなんとなく聞いたような気がするんだけど。


「奏太、なんて?」

「他言は……いやまあ、お前さんらなら別に構わないか。進学。国内。とだけ書いてあったよ」

「それだけ? 志望校とかは?」

「二校に絞ったらしく、後はこれからだと。これでも遅過ぎるくらいだが、進学って枠内の隅に超小さく書いていた事を思えば大きな進歩ではあるな」

「何やってんの奏太は……」


 っていうか、国内? いやそれはそうでしょう。千華じゃあるまいし。どうしてわざわざ当たり前の文言を……。


「あ」

「どうした?」

「ううん、なんでも」


 そう、なんでもないさ。奏太が見ていた一つの可能性に行き当たっただけだから。こんなの、内に秘めておくだけでいいでしょ。


「じゃあ俺はこれで」

「おう。気を付けて帰れよー。あとそうだ。松葉の親父に会ったら暇見てうち来てくれって言っといてくれないか? うちの猫がカーテンレール落としちまいやがってよ。上手く直せなくてな」

「やっちゃん猫飼ってるんだ。やっぱ一人が寂しいから」

「よーし泣かす」

「冗談冗談。確かに伝えときますー」

「そうしてくれ。ほら行った行った」

「失礼しました」


 蚊を払うみたいにしっしっとやるやっちゃんにぺこりと一礼して職員室を出る。やっちゃんモテそうなんだけど、どうして独り身なんだろうね。わかんないなあ。とりあえず、あんまり長い事一人身だと数年後やっちゃんの事弄り辛くなるからなるべく早く結婚しようと誓う桃瀬修でした。


「あ。不良」


 数分前より人口密度の低下した下駄箱前。雑絡みをしてくる女の子が一人。


「うわ、不良少女に絡まれた」

「あたしは無遅刻無欠席貫いてますーとてもいい子ですぅー」

「朝までゲームやって学校サボったのもう忘れちゃった?」

「そんな昔の話蒸し返すとかないわー。修はそういうとこ女々しいんだよなー」

「一月も前の話じゃないんだよなあ。帰る?」

「うん」


 人を小馬鹿にしたような笑みを維持したまま、美優はこくりと頷いた。


* * *


「勉強はいいの?」

「気分じゃないからパース」

「そ」


 俺の部屋。ベッドの上。今日も今日とて川高で一番可愛い女の子がごろごろり。制服のままころころするんじゃありません。皺になるでしょ。今日はゲームよりマンガの気分なのか、本棚からごっそり抜き取った漫画が枕元で山となっている。食事時までここに居座るつもりらしい。


「修はなんで勉強しようとしてんの? もう進路決まったようなもんじゃん」

「決まってないし。っていうかこれからするのは勉強じゃないよ」

「エロ本読む?」

「そういうのは美優がいない時にやるよ」

「じゃあエロDVD鑑賞?」

「それも美優がいない時だなあ」

「わかった。エロ動画漁りだ」

「やっぱり美優のいない時にやるのでハズレ」

「修のえっち」

「男の子ですので」

「じゃあ何するのー?」

「秘密。そこで大人しく本の虫になってて」

「はーい」


 あまりに聞き分けがいい。これは直ぐに邪魔されるパターンか。まあ構わない。どうせ、遅かれ早かれ伝えなければならない事だし。


「やーっぱ修ってパパ似だよねー」

「急にどしたの」

「そういうスケベな話題を自重しないとことかそっくりだなーって」

「そう?」

「そう。この前修パパ言ってたよ。ロリ巨乳は真理であり、世界の真実。ただし、ガチのロリは愛でるべき対象であり、エッチな目で見る事はロリへの冒涜、とかなんとか」

「何言ってんのあのダメ父は……」

「千華が巨乳だったら世界がヤバかったらしいよ」

「ヤバイのはあんただあんた」

「ねー」

「メガネ属性こそ世界の真実だろうに」

「あ、やっぱ似た者親子だわ」

「どこが?」

「どこまでもが」

「全然似てないでしょ……」


 真面目にわからない。こんなに性癖が食い違っているのに似てるも何もないでしょ。っていうか、自分の娘の一人をそういう目で見てる可能性があるって事でよろしい? あの中年、今のうちに檻にぶち込んでおいた方が世界の為になるのではないだろうか。


 なんて緩々トークをしながらデスクトップを起動。ブラウザを立ち上げて、はたと気付く。美優の興味が本格的にこっちに向かないうちに、やらなければならない事が一つだけあるな。ちゃっちゃと済ませるとしよう。予防線代わりのジャブも打っておくとするか。


「帰り、どこ行ってたの?」

「んー?」

「どっか寄ってたんじゃないの?」

「進路指導室寄ってた」

「お、偉い」

「でっしょー」

「嘘、偉くない。進路関係、最近になるまで全然動いてなかったろ?」

「ばれてーら」

「慌てて動き出しました感全開じゃん。美優も行動遅いんだよなあ。大切な事なんだからもっと余裕を持って準備しなきゃ」

「こりゃ失敬。っていうか、美優も?」

「うちにはもう一人遅いヤツいるでしょ。あの問題児擬き、今日になって進路調査票を出したらしいよ」

「どうするって? なんか聞いた?」

「進学だってさ」

「それだけ?」

「それだけ。以前と違ってど真ん中に大きく書いてあったらしいけど。前は隅っこに小さく書いてたらしいから。何考えてんだか」

「そ」


 ごめんね、一つ嘘付いちゃった。けど、不要な情報だって俺は判断したんだ。俺の判断を尊重してほしいな。


 とかなんとかやり取りをしながらも、先日お世話になったエッチな動画サイト周りの履歴を全消去。仕事が早い。いいぞ俺。エッチなサイトを見ている事を知られるのと、どういった動画にお世話になっているかを知られるのでは精神的ダメージが結構違う。時代は自己防衛。国なんてあてにしちゃダメ。


 っていうか、ロリ、巨乳、でググった形跡あるの何。絶対父さんの仕業だろ。嫁さんにはまだしも、自分の息子たちに性癖掴まれるのは恥じようよ父さん。や、当たり前のようにパスワード知ってるの怖いな? 怖いや。パスワード変更しておかなきゃ。


 デスクトップに貼り付けておいたホームページにジャンプ。なんかこう……大人、って感じの情報の波がドバッと表示される。さてさて、吟味させていただきましょうか。あ、エッチなサイトじゃないので。


「修は進学。奏太も進学。元気は就職。夏菜もあたしも進学で、千華は留学と」

「圧倒的進学率。学歴社会の闇の一端を感じるなあ」

「夢のない捉え方よくない。もっと夢のある受け止め方をするべし」

「と言いますと?」

「進学ってつまり、また数年間学校に行けるって事じゃん?」

「だね」

「大事なのはそこ。有名な大学だろうと無名な大学だろうと、めちゃくちゃ学費高い所だろうと何処だろうと、高校出ても数年間学生が出来る事には大きな意味があると思うの。なんていうのかな……」


 マンガに目を走らせたままうんうん唸る美優。お悩み中の美優を他所に、調べ物開始。今日である程度アタリを付けておきたい。両親とも相談しなくちゃいけないし。早い方がいい。


「あーアレだ。青春の延長、的な?」

「学生以外の立場になると青春が無いみたいな言い方だね」

「そうは言わないけどさ、質は落ちちゃうんじゃないかなーって。社会に飛び出して大人扱いされるのが当たり前になったらさ、色々変わっちゃいそうじゃない?」

「かもね」

「そうなる前に楽しんでおかなきゃ、青臭い花盛り。長い方が楽しいよ、きっと」

「今日の美優はよく喋るね」

「いつもこんなもんだから。修がちゃんと聞いてくれてないだけ」

「そんなつもりないんだけど」

「つもりになってんじゃないわよー」

「お、懐かしいコマーシャル」

「もう潰れちゃったもんねー」

「お米サンド好きだったんだけどな」

「美味しかったんだけどなーもう食べれないんだよなー悲しいなー」

「ゴラえもん呼んで過去に連れてってもらうしかないね」

「現実にいないんだよなああの狸型ロボット」

「世知辛いねえ」

「虚しいねえ」


 なんて、中身薄めなやりとりをしながらキーボードをカタカタマウスをカチカチ。先日目を付けていた物はすでに誰かの手中に収まったらしく、受付終了の案内が。やはりもっと早く動くべきだったかなあ。切り替えて他を探そうそうしよう。


「っていうか、夏菜が進学だって知ってたんだ」

「修がイリュージョンランドで夏菜にフラれた何日か後に聞いたの」

「うぐぅ」

「汚い声出さないの」


 汚いとか言うなそういう弄り方するな。今でも時々思い出しちゃってしんどくなったりしてるんだから。


 夏の大会でボロ負けして割と直ぐにアレだよ? 当時はマジでキツかったなあ。しばらく勉強も手に付かなくて、可愛い眼鏡っ娘やお笑い芸人のコントライブばかり漁っていたっけ。いやあ、病んでた。もう乗り越えた。多分。


「聞いたって結論だけでイリュージョンランドの件カットでよくない?」

「何事においても過程は大事」

「違いない。じゃなくて。意地悪だなあ美優は」

「それがあたしの可愛い所」

「人によっては薄毛の原因になり得るからやめようね」

「それはあたしが気にする所じゃなし」

「実に清々しくて涙が出そうだよ」

「泣き虫な修可愛い」

「いじめっ子の美優は奏太から聞かなかったの? 進路の事」

「なーんも」

「ほんとに? 美優が奏太にフラれた時にも、そんな話はしなかった?」


 本を捲る音も、衣摺れの音も、何もかもがピタリと止まった。


「……何の話してんの?」

「あれ、ビンゴ? さっきの仕返しで茶化してみただけだったんだけど」


 嘘だ。美優が奏太の散髪をしたあの日、二人の間に何かあったのなんて明白だった。詳細がわかるほどのエスパーじゃないけれど、美優も奏太も、態度に出過ぎていたから。


「そういうのじゃないよ。どうせ奏太の髪切った日の話してるんだろうけど、ちょっと出しゃばっただけだから。いつもやってるみたいに」

「お姉ちゃんムーブ的な?」

「その言い方腹立つからやめて」

「今の本当?」

「本当だってば。ちょっと青春っぽい話したり、これからの話しただけ」

「そ」

「全然納得いってない感少しは隠しなよ。とにかく、あたしは大丈夫だから」


 美優はというか、俺たち全員かな。俺たちは、俺たちへの嘘がヘタ過ぎるんだ。どうにも上手く騙せない。どんなに巧みに取り繕ったり本音を隠したりしても、なんとなく見抜かれてしまう。本当に、なんとなく。


「ならいいけど」

「うんうん。これでいいのだ」


 今だって、俺に隠せていないじゃない。一つ、傷を作ってしまった事。


「色々大変みたいだね」

「お互い様でしょ」

「違いない」


 言葉の端々に苛立ちやストレスを感じる。これ以上触れらない方がいいかな。触らぬ女神になんとかかんとかだ。


「っていうか、さっきからなーに調べてんのー?」


 ほら、話題変更をご所望だ。こっちの案件を隠すつもりもないし、美優を傷付けるのも本意じゃないし、ここらで牙を隠そう。


「株価的な」

「何これ。お家情報?」

「そ」


 俺の背中に立った美優が身を乗り出してモニターに齧り付く。俺のボケはスルーですか。悲しい。


「どゆこと?」

「春になったら東京で一人暮らしするから、今のうちに物件探ししてるの」

「ふーん」

「あんまり驚かないんだね」

「こっちから通うの面倒だし。全然アリな選択肢でしょ」


 とか言いながら、実はしっかり驚いている美優なのでした。こんなの、顔見なくたってわかるってもんさ。


「修もここを離れちゃうんだねー」

「うん」

「寂しくないの?」

「寂しくなるのわかりきってるからマメに帰ってくるつもり」

「女々しい事言っちゃってー」

「帰属意識が高いって言って欲しいな」

「なるほどこれが意識高い系か」

「違うし。全然わかってないでしょ」

「修こそ全然適当な事言ってるじゃん」

「そうかな?」

「あ、ここ良さそう」

「え、どれどれ?」


 自分の手を俺の手に重ねてマウスを動かし始めたんですけどこの人。自由過ぎ。


「大崎駅から歩いて六分。家賃安いし竣工もここ数年の間。セキュリティもそれなりっぽいね。あ、コンビニも近くにあるってさ」

「悪くないね。山手線ならキャンパスまで一本で行けるし。チェックしといて」

「あーい」

「って、なんで美優が俺の家探ししてんの」

「可愛い可愛い修の為に優良事故物件を見つけてあげようかなーって」

「優良事故物件ってワードのキメラっぷりに鳥肌」

「立ってないじゃん。嘘つき」


 ぺちぺちと手の甲を叩かれた。今日はいつになくジャレてくるじゃない。


「修はあたしがいなくても一人でやっていけるのかなー?」

「もちろん」


 今のは、虚勢。胸を張ってそう言えるくらいに自分を逞しくしたいなんて願望を持っている人間なんだ。そういうのはこれからだ。


「美優こそ大丈夫? 一人じゃやってけないんじゃない? 俺たちがいなくちゃ」

「ムカつく言い方してー」

「でもほんとの事でしょ」


 俺たちにはいつだって、美優が必要だった。ならば美優の方はどうなのかと考えると、なかなかに度合いが違う事に気付く。美優は、俺たちに依存していると言っていいくらいだと思っている。


 お姉ちゃんをやるには、弟か妹の存在が必要不可欠だから。


「ま、修がどう思おうと構わないけどー」

「強がっちゃってどしたの?」

「修こそ、いやに噛み付いてくるじゃん」

「そう?」

「そうだよ」

「怒った?」

「怒ってない」

「ならいいや」

「そういうとこ、ちょっと変わったね。夏休み以降特に」

「揉まれて踏まれて逞しくなったのかも」

「雑草じゃん」

「いいね、雑草。俺のイメージにピッタリじゃない?」

「あたしたち以外はそんなイメージぜーんぜん持ってないと思うよ」

「解釈違いってヤツだ。戦争だ」

「泥沼に陥るだけだからやめときなさい」

「じゃあそうする」

「あ、ここいいなー」


 相変わらず俺の手ごとマウスを動かして、一件チェックリストに追加している。や、ここどこよ? 聞いた事ない駅なんだけど。


「見た所事故物件でも無さそうだし俺の生活圏からは遠そうだしでお断り物件って言っていいレベルなんだけど」

「修が理由じゃない。あたしが理由」

「うん?」

「あたしも、春になったらここ離れるから」

「ふーん」

「あんまり驚かないんだね」

「まあ、美優だし。あるんじゃないかなあとはなんとなく」

「何それ。意味わかんない」

「俺にもわかんないよ」


 責任感が強くて面倒見が良くて真面目なみんなのお姉ちゃん役。そんな自分自身を、あまり好ましく思っていない事は知っていたつもりだ。だからこそ、きっかけを作るとうするんじゃないかなとか、雑な計算は一応あったりする。


 もう一度言う。責任感が強くて、面倒見が良くて、真面目な美優だから。いつまでもなあなあなままでいる事を良しとするような美優じゃないって、知ってるから。


 何年も掛かったけど、ついにその日が来た、ってだけの話だ。


「心配だ……美優に一人暮らしなんて出来るわけないてててて」

「侮り過ぎ」


 マウスを包む手を抓られた。酷いや。


「そんなに心配?」

「心配」

「じゃあ二人で暮らす?」

「オッケーって言ってもダメって言っても不機嫌になるヤツじゃんそれ」

「おお、よくわかってるなあ修くんは」

「桃瀬修ですから」


 二人暮らしじゃここを出る意味がない。けど断られるのは理屈とか理由とか抜きで腹が立つ、でしょ。わかるっての。


「なんかさー」


 俺の手とマウスが解放された。と思いきや、今度は頭頂部にずしっとした重みが。顎乗せてますねこれは。両腕は俺の首に巻き付いてるし。なんだ? カップルか? 


「今日の修は、あたしのお兄ちゃんみたいだね」

「そういうムーブをしたくなるくらい今の美優はふにゃふにゃのダメダメって事」

「そうかなあ」

「俺がそう言うんだからそうなの」

「難しいなあうりうりうりうりー」

「顎グリグリしないで痛いハゲる」

「じゃあもっとやるー」

「あのねえ……」


 あーうん。そろそろダメだ。


 素で、イライラして来ちゃった。


「ったく……いい加減にしなさいっ」

「お、わ」


 パッと上半身を丸めて顎攻撃を外し、くるりと反転。バランスを崩した美優の肩を押して姿勢を起こし、両頬を摘んだ。


「むにっ」

「いい加減やめようよ。ほんと、さっきからなんなんだ。正直イラつく」

「ほわ?」

「はっきり言うよ」

「ふん」

「俺を、奏太の代わりにするな」


 今日の美優が俺にやっている事は、いつもの美優が、奏太と二人きりの時にやっている事。揶揄い方もスキンシップも全部全部、普段の俺にする物とは違う。直ぐにわかったぞ。


「自分で傷口を開くような真似するな」


 川高で一番可愛い女の子の顔を抓り、間抜けな顔を作る。美優のファンが見たら罵声だけでなく物まで投げ付けられてしまいそうな蛮行をしている自覚はあるが、アタリを引いたかな。


「んぁ……」


 今は、ふざけた顔にしといた方がいい。美優の為にもなるし、俺の為にもなる。


 目の前で美優に泣かれたら、何もしてあげられない自信しかないもの。今年の夏、そうだったみたいに。


「前に俺を物差しにするなって言ったと思うんだけど、美優が今俺にしているのは、物差し扱いよりタチ悪い事だよ」


 夏の終わり、熱帯夜の真っ只中。多摩川沿いの、美優お気に入りのスポット。


 あの日の美優は傷付いていた。苦しんでいた。そして今日も。


 しかし、それがなんだ。いちいち自分以外の感傷に寄り添ってばかりもいられない。っていうか、相手がどんなにダウナー入っていようとも、ぞんざいに扱われる事を是とするほど俺はお人好しじゃない。弱っちい俺にでもプライドくらいあるんだ。


 俺は俺。誰かの代わりじゃないし、都合のいい男と言う名の便利な道具に成り下がるつもりもない。


「俺は奏太じゃないし、奏太の代わりをやるつもりもない」


 俺がそうする事で一人の女の子の心の傷を広げてしまうとわかっているから、尚更出来るわけがないんだ。


「奏太と何があったのかを聞くつもりもないよ。けどさ、本当に言いたい事があるのならはっきり言ってよ。美優自身がわざと暈してるくせに、こっちに全部見付けさせようなんて、卑怯だよ」


 寂しいなら寂しいって言え。辛いなら辛いって言え。助けて欲しいなら助けて欲しいって言え。なんでこっちから手を差し伸べるのを待っていようとするんだ。


 はっきり物を言うくせに、核心部分は絶対言わない。全部全部周りに気付かせようとして、全部全部周り任せにする。誰もが美優に指摘していないだろう、美優の悪い所。


 美優のこういう所。昔から嫌いだ。


「ん、んー。んーっ」


 遠慮なく頬にダメージを与える俺の手を無理矢理引っぺがす美優。頬真っ赤じゃん。やったの俺か。申し訳ないね。


「……じゃあ……何?」

「何って?」

「修は、あたしの何になりたいの?」


 真っ赤な頬を摩りながら呟く美優。


「そういう美優は俺の何になりたいの?」

「……あたし……修の事は好きになれないよ」

「答えになってない」

「そういうつもり……ないから」

「……じゃあどういうつもり?」


 比喩でもなんでもなく、生まれてから一番見て来た可愛い顔と超至近距離で睨めっこ。真面目に両親よりも顔を合わせている時間が長いと思うよ。


 だからわかる。泣いてはいないけど、触り方を間違えたら爆発しそうな危うさが全面に出ているって、俺にはわかるんだ。


 いや。今の美優を見れば、どこの誰にだってわかるか。


「……そういえば」

「うん?」


 ああ、ここまでか。これ以上傷付くのは嫌か。そうだよね。俺も嫌だよ。


「今日はねこが来る日だ」

「ああ、ふじのやか」

「弄ってストレス発散してくる」

「付き合うよ」

「うん? 修はあたしと付き合いたいの?」

「付き合いたくないよ。ずっと一緒にいたいけど」

「何それ。バカじゃん」

「お互い様でしょ」


 ほんとにね。最初からそれを言えって話だよ。だからまだまだ子供なんだ、俺たちは。


 遠いなあ。カッコいい大人、ってヤツ。


「お喋りな男は嫌われるよ。ほら、黙って付いてくるっ」

「はいはい」


 スカートを翻し、見慣れた背中が部屋を出ようとする。


 その背中が、いやに小さく見える。


「……美優」

「な、に……?」


 部屋を出ようとする肩に腕を回し華奢な体をぐっと引き寄せ、頭頂部に顎を乗せてみた。何処かの誰かの真似をしてみた格好だ。


「今行かない方がいいよ」

「なんで?」

「ちょっと泣いてから来た方がいい」

「……何それ」

「いいから」


 美優を抱えたままくるりと反転。位置を入れ替えて、夏菜よりほんの少し大きく育った体で扉の前を塞いだ。再度反転し、美優と視線を合わせぬようにする。


「何よ急に。散々あたしをイジめたくせに」

「ごめん」

「謝るな。ほんとに泣くぞ」

「もう泣いてるじゃない」

「そう見える?」

「見える」

「そう……なんだ……」

「……先行ってるから」

「……後から行く」

「待ってる」

「うん……」


 振り返らずに部屋を出て、後ろ手で扉を閉める。


「……ダメだ……」


 今の美優、見てられない。


 美優がこんな状態のままここを離れる? 一人暮らしをする? 美優を一人にする?


 ダメだ。論外だ。


 今のままじゃ何の変化もない。もしも変化が起こったのだとしても、間違いなくそれは前進ではない。


 だから一人暮らしをやめる。美優の一人暮らしをやめさせる。ではない。それは一歩二歩と踏み出せた事の意味を消し飛ばしてしまう行為だ。


 だからこれは、宿題にしよう。


 提出期限は、俺たちがここを離れるまで。もう少し鮮明にラインを付けるならば、川ノ宮高校卒業式まで、かな。


 およそ四ヶ月。春が来るまでに。


 ずっと俺を支えてくれていた女の子に、何をしてあげられるだろうか。


* * *


「えと……マジ?」

「マジですマジ! ふじのやの皆さんの許可は頂きました!」

「そうなの夏菜?」

「うん。突然で驚いちゃったけど、とっても助かるし。小春ちゃんの紹介なら間違いないから……」


 と言いながらも苦笑混じりな、ふじのやの看板娘。いやまあ、そりゃそうだよね。


「えと、桃瀬先輩ですよね?」

「ああうん、そうです。君は……」

「黒井優と申します。皆さんと同じ川高の一年生です。今日からふじのやさんでアルバイトを始める事になりました。よろしくお願いします!」

「は、はあ……」


 先日、奏太とデートして、惚れた腫れた系の話で色々あった系女子の黒井優さんがふじのやでバイトさせてくれなんて言ってきたら、表情筋も奇怪な動きになるよね。


「白藤先輩お受験近いですし、ふじのやの戦力ダウンは否めない。そこで優ちゃんの出番です! 白藤先輩の穴、優ちゃんなら埋められますよ!」


 大きな胸を張るロリ巨乳系女子小春ちゃん。小春ちゃんと黒井さんが友人である事は知っていたけど、こんなに良かったのね。


「そんなに有望なのか」

「間違いないですよ! まあ少し打算計算があるので空回りしないか心配だったりはしますけど……」

「ん? なんて?」

「い、いえいえ!」

「あの、私! 一生懸命頑張ります! あ、ふじのやさんでバイトを始めた事、山吹先輩には私から伝えておきました。これからは来店し辛くなるでしょうけどちゃんと売り上げに貢献しに来てくださいねって! ですので気遣いとかは大丈夫ですので!」

「あ、ああ、そうなの。そうなんだ」

「はいっ。よろしくお願いします、桃瀬先輩!」

「こち、こちらこそよろしく……」


 メンタル強過ぎないこの子。っていうか、改めて見ると可愛いな、黒井さん。メガネ似合いそう。掛けてくれないかな。ダメかな。


「なんか騒がし……」

「あ、美優ちゃん!」

「浅葱先輩!」

「いらっしゃいませー! あ! こうしてお話するのは初めてですね! 浅葱先輩! 私は」

「すいません間違えました」


 情報量の多い店内を覗いた途端、ぴしゃりと扉を閉め直す美優。


「間違えてないよー!」

「今日から私の友達がバイト始めるんですー!」

「あ、あのっ、ご挨拶させてくださいー!」


 華やかな女の子たちが美優を追うのを、見ている事しか出来なかった。


 ほんの一瞬だけれど、確かに見えたんだ。


 俺に抓られた頬だけじゃなく、目までも赤くなっているのが、確かに。

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