「たいようのものがたり。3」

「今日はここまで。続きはまた来週な」

「ありがとうございました。またよろしくお願いします」

「アリガトゴザイマシタ! マタライシュー!」

「うん、上出来上出来」


 ワイシャツ姿のおっさんが満足気に頷くと、ケイトとエミーも続いてコクリ。どの部活も使用していない所為か、少し埃っぽく感じる教室に差し込んだ夏の日差しがゆらゆら踊る二人の金髪を撫でると、室内がキラキラと輝いた。金髪パワーすげぇ。


「お疲れー二人共」

「お待たせしました、朝陽」

「……すげぇな……」

「どうかしましたか?」


 どうかしたかって、それだよそれ。君が初めてこの国へやって来てからまだ四ヶ月、たったの四ヶ月だよ? だってのに何さ、その流暢な日本語は? 短期間での上達早過ぎない? さては日本語の天才だな?


「なんでもないよ」

「そうですか」

「アサヒ! オワタ!」

「おうおう、お疲れお疲れー」


 そうそう、これくらいがいいんだよ。この子も充分過ぎるほど上達早い方だと思うんだがね。


「女二人侍らせるとかいい身分だなあ東雲よお」

「でっしょー! あれ? もしかしてジェラシーってヤツ? 現役高校生に嫉妬なんかしてるうちは結婚なんてあーうそうそごめんなさいごめんなさい参考書で殴ろうとするのやめてほんと無理やめて!」

「痛い目見るのが嫌なら今後は口に気を付けて生きるこったな」

「やっちゃんごめんてー。それが現役教師のセリフかよーああウソウソなんでもないんだってほんとごめんてやっちゃーん」

「わざとらしいやっちゃん呼びやめろや」


 眼鏡の位置を直しながら小さな溜息を一つ。元から細い目が更に細くなる様には隠しきれない自分怒ってます感が。怒んなくてもいいじゃんかよーっ。


 愛称、やっちゃん。本名、佐藤弥一郎。俺や玲たちの通う川ノ宮高校の国語教師。裏表のない性格と面倒見の良さもあって、生徒たちから絶大な信頼を獲得している、メガネの似合うアラサー。独身。どなたか、この人のお嫁さんになってもらえませんか? ちょっとというかだいぶ目付き悪いけど、凄くいい人なんですよ。あと声が渋くてカッケー。優良物件ですよー?


「ヤッチャン! ヤッチャン!」

「あーっと、エミー? その呼び方はあんまり」

「ヤッチャンハ、ヤッチャン!」

「ダメだ、勝てる気がしねえ」

「申し訳ありません弥一郎。エミーには後で」

「あーいいんだよケイト。この子はずっとこんな感じだろうからな」

「そうですか……」


 わかってるのかわかってないのか、首を傾げるケイト可愛い。


「いろんな意味で規格外だもんなあこいつは」

「コイツチガウ! エミー!」

「あーごめん、ごめんて。ほら行こう」

「ハーイ!」

「わかりました」

「賑やかだなあお前さんのとこは」

「羨ましい?」

「ノーコメント。ほれ、三人共気を付けて帰るように」

「うん。ありがとね、やっちゃん」

「ヤッチャンバイバーイ!」

「ありがとうございました。またよろしくお願いします」

「ああ」


 ぶんぶん手を振るエミーと深々とお辞儀をするケイトに背を向けるやっちゃん。その背中に、二人から遅れて一礼。本当にありがとう……ございます。


「……よっし。買い物して帰るかー」

「カイモノカイモノー!」

「はい」


 パタパタとスリッパを鳴らすエミーを先頭に下駄箱へ。外履きに履き替え正面玄関を出ると、地肌に優しくなさ過ぎる真夏の日差しが俺たちを出迎えた。


「あっちーなー」

「アッチーナー!」


 エミーのおうむ返し。この子の最近のトレンドだ。意味を知らない言葉でもとりあえず真似をするのだ。小さな子供かっての。そんな所も可愛い。


「広いです」

「うん? 急にどした?」

「朝陽たちの通う学校は、広いです」

「だなー」

「それに、賑やかです」


 手で作った日傘の下、俺や玲たちの通う校舎をグレーの瞳に写すケイト。二人の国の学校の方がどーんとデカそうな印象あるんだけど、実はそうでもないんかな。


 炎天下の中で汗を絞り出している運動部の叱咤激励の叫びや、校舎の片隅からどこまでも届きそうな音を打ち鳴らしている合唱部や吹奏楽部の奏でる響きが夏の大気によく馴染む。平日の昼下がりにしてはどんちゃんどんちゃん喧しいのは夏休みならではだな。


 八月半ば。部活動やってるでもない俺と川ノ宮高校の生徒ですらないエミーとケイトっつー、顔面偏差値には自信ありなデコボコパーティで川ノ宮高校を後にする。


「ネーアサヒ! ヤッチャン! オレイ! シタイ!」

「おーそりゃいいな! なんかするか!」

「スルスルー!」

「弥一郎にはこんなにお世話になっているんです。それがいいです」

「だなー」


 本来なら出勤ではないらしい今日もこの学校へ来てくれたワイルドなあんちゃんの顔を思い浮かべる。


「どうした東雲。つーかなんだその派手な子たち。自毛証明出してるか? って、よく見たらうちの生徒じゃねえよな…………は? 何言ってんだお前? なんで俺がそんな……」


 まだ本格的に暑くなる前、ある日の放課後。職員室で書類の山と格闘しているやっちゃんの元へ俺と玲と由紀とこの二人を連れてった時の反応はこんな感じ。そりゃあいきなり、この子たちに日本語を教えたい。だから授業をやってあげてくれないか。金は払えない。けどそこをどうかよろしく。なんて言われたらな。


 その日は当然断られた。だから次の日、その次の日、次の次の次の次の次の日くらいまで、五人でお願いし続けた。


「わかった、わかったから頭なんて下げてくれんな……堅苦しいのは性に合わねえんだっての……ただし、やるからには徹底的にやるからな。ついでに東雲と山吹。お前らも可能な限り参加しろ。聞こえたか? 赤点マスターとサボリ魔くんよお?」


 ってな感じで快諾してくれた。快諾って言葉であってんのかはわかんねーけど。


 それからは週に一度か二度、多い週なら三度。放課後だったり土日のどっちかだったり、エミーとケイトが俺たちの学校に顔を出すようになった。


 やっちゃんの教え方や面倒見の良さ、それに加えてエミーとケイトのハンパじゃねー吸収の速さもあって相乗効果倍々ゲーム。二人と基本的な日時会話をするのに困らなくなるまで、そう時間は掛からなかった。特にケイト。あの子ヤバい。俺よりもずっと正しい日本語ってヤツを知ってるんじゃねーかな。


 ああそっか。まだ四ヶ月か。たったの四ヶ月で、たくさんの事が変わったんだな。


「よーし行くぞー。エミーはまた勝手にどっか行ったりしないように。わかったなー?」

「ハーイ!」

「殿は私が務めます」

「し、しんがり? 何それ? 寿司食う時によくあるアレ?」

「一番後ろを走る、と理解してください」

「は、はあ……そんな意味があったのね……」

「アサヒ! ケイトヨリニホンゴヘタ!」

「う、うるせー! とにかく行くぞ!」


 日本語で遅れを取った情けなさを右足に注ぎ込んでスタンドを蹴り、ペダルを踏む。エミーとケイトも俺に続いて、ママチャリのスタンドを蹴った。不便とまでは言わないけど、バスや電車は覚えるまで難しいからな、これがあった方がいいって判断で三台揃えた。本当は新品を二台買うつもりだったのだが、もう乗らんからやるって言う団地民たちのご厚意に甘える格好になった。ありがたやありがたや。


 自転車や洋服や寝具やらあーだこーだ。生活に必須だと思う物は全て整えた。俺の金で全て揃えるつもりだったのだが、その必要はなかったんだと、洋服を一緒に買いに行った先で思い知らされた。だってこいつら、うん万する洋服ポンポン買ってくんだもん。アホほど金持って来日してるし、こうなるんだろうなとは思ってたけど、俺の総資産の何割よそれみたいな額の洋服を大量にお買い上げしていく様を見せられるのは複雑なモンなんだわ。ま、家賃とか食費とか、色々助けてもらってるもんで何も言えねーっつーか言うつもりもないんだけども。


 本当は断ったんだ。それは違う。そんなお金は受け取れない。二人は何も気にせずここにいればいいんだって。いや、本当は渡りに船な提案だったんなけどね? でもほら、カッコ付けたいなーって。ただの見栄ですわ。


 そんなのおかしいとか、そんなの一緒に暮らしてるって言わないとか、俺の力になりたいとか、カタコト日本語と硬めな日本語のコンビネーションに連日押されに押されまくって、結局俺が折れてしまった。


 二人からは必要最低限以上はもらわない。二人からもらったお金は、自分の事には使わない。俺たち三人の事に使う。いやいや当たり前じゃんか的な決め事を作り、二人のお金を受け取る事を良しとした。


 それから部屋を決めた。以前親父が使っていた部屋をエミーに。ほとんど荷物部屋状態だったお袋の部屋を片付けてケイトに、それぞれ使ってもらう事にした。


 部屋の中に置く家具類に関してはある程度好きにしてくれと伝えたら、その翌日から数日の間、見覚えのない家具やら何やらがバンバン送られてきた。金持ちぱねえ。ある程度好きにしてくれって言った以上後からあーだこーだ言うもんじゃねえってのはわかるけど、やっぱちょっと複雑。


 家事の分担をした。これに関しては家事全般スーパー無敵に出来ちゃうケイトさんの独壇場ではある。だがしかし。今までのエミーとケイトの関係とかしらん。二人は等しくこの家の人間になったんだから、ケイトだけやってエミーがやらないのはダメだと、思うまま二人に伝えた。


 エミーは難色示すんだろうなと思ったんだが全然そんな事なくて、むしろノリノリのヤル気満々だった。むしろ難色示しまくったのはケイトの方。なんでどうしてと首を傾げる俺がその理由を理解したのは数日後。木炭みたいな卵焼きが食卓に並んだ日の事であった。メシアガレー! じゃねえ殺す気か。


 しかし、このまま匙投げっ放ししたって自分の為にならんって事で、家事全般の指導をケイトがする事になった。俺もケイト先生のお世話になっていたり。


 思い付く事、必要だと思った事。納得行くまで理解し合えるまで、三人で話した。時に玲や由紀ややっちゃん、団地に住まう仲間たちに助けてもらいながら。


 そうして過ぎた四ヶ月は、なかなか悪くないものになってるって、そう思う。


「アサヒアサヒ! ドコデカイモノー?」

「んーどうすっかなあ……」

「朝陽。三丁目のコミットでお米が安くなっているという情報がチラシに掲載されていたと記憶しています」

「あーそうだったそうだった! じゃあコミットに決まりっ!」

「オカシ! カッテオーケー!?」

「いいぞいいぞー! でも、バナナはおやつに含まれませんっ!」

「ハーイ!」

「なぜバナナ?」

「これも日本の文化の一つだよ。いいかられっつごーごー!」

「ゴー!」

「ご、ごー……」


 あークソ。また見栄張っちまったな。


 今さ、毎日楽しくて仕方がないよ。退屈な時間なんてこれっぽっちもないんだ。


「アサヒアサヒー? ドシター?」

「なーんでもねーよー」


 そう。なんでもないさ。


 今の1011号室を見たら親父は、顔しか知らないお袋が見たら、俺みたいに笑ってくれんのかな。


 なんて、思っただけだから。


* * *


「あー! エミーちゃんとケイトちゃんだー!」

「おかえりなさーい!」

「おかえりー!」

「あついねー!」


 買い物を終えて団地に戻ると、十号棟下の公園で遊ぶ子供たちが出迎えてくれた。


「タダイマー!」

「ただいま帰りました」

「ついでに朝陽もおかえりなさーい!」

「俺がついでなのおかしいよね!?」

「朝陽のツッコミうるさいからきらーい」

「そんなどストレートに言ってくれるなよちびっ子ちゃんよお!」

「朝陽うるさーい」

「ぐぬぬ……!」

「アサヒ! ミンナトナカヨシ!」

「好かれているのですね、この子たちに」

「バカにされてるって言うのでは……」


 いやまあ、気に入られてはいるんだろうけど。俺だけじゃなく、エミーとケイトも。


 人懐っこいエミーと、真面目ではあるけどちょっと天然気味なケイト。二人はあっという間に団地の人々の心を掴み、この場所に馴染んでいった。初めはどうなる事かと心配しきりだったけどな。


「っていうかお前ら汗かきすぎ。そろそろ遊ぶのやめて部屋に戻らないと熱中症になっちまうぞー? ってこらエミー! しれっと混ざろうとするんじゃありません!」

「ナンデダメ?」

「今日の洗い物やってないだろ? ちゃんとやる事やってからじゃなきゃダメー」

「エー!?」

「それを言うなら朝陽もです。今朝、洗濯をサボりました」

「あ、あり? そうだったっけ?」

「そうです。ですので、遊ぶのはダメです。部屋に戻ります。わかりましたか?」

「はーい……」

「ハーイ……」

「朝陽とエミーちゃんカッコわるーい」

「ケイトちゃんが一番強いんだね!」

「朝陽よわっちー」

「やーかましいっ! みんなで遊ぶのはまた今度! じゃあな! 五時の鐘がなったらちゃんと帰るんだぞー!」

「バイバーイ!」

「お先に失礼します」


 元気の有り余っている団地っ子たちに手を振り、俺らの家へまっしぐら。


「ワタシヤルー!」


 両手に米だなんだをぶら下げているもんで玄関前で絶賛まごつき中の俺の様子に何かを察知したのか、肩掛けのバッグの中から取り出した銀色のブツを鍵穴にダンクシュート。がちゃんって音を立て、部屋の扉が開いた。


 もちろん、ケイトにもここの鍵を持ってもらっている。当然必要な物だし、二人が持っているのは当たり前の事だと思ったから。


「タダイマー!」

「ただいま帰りました」

「ただいまー」


 ちゃんとおかえりとただいまが言える系女子二人のうるさい方のエミーは、部屋に入ると真っ先に冷房を点けソファに飛び込んだ。静かな方のケイトは、真っ先に買い足した物を整頓し始めた。性格の違いが出るなあ。


「朝陽は洗濯。エミーは洗い物。です」

「わかってますよーだ」

「ワカッテマスヨーダ!」

「よろしい、です」


 すっかりこの家の番長と化したケイトさんの命には逆らえない家主とエミーであった。


「ほらエミー。洗い物してくれないとご飯が作れません。早急にお願いします」

「リョーカイリョーカーイ」

「返事は一度でいいです」


 顰めっ面のエミーの姿と腰に手を当てるケイトの姿は、仲の良い姉妹のよう。とても微笑ましくて、暖かい。そんな二人の関係が、俺は好きだ。


 ヤルゾーとか呟きながら自分用に買った黄色のエプロンを着けてエミー、台所に立つ。いや、似合い過ぎ可愛過ぎ好きほんと。俺は俺で洗濯とかやらなきゃいけないのだが、どうにも腰が重い。まだ不慣れな台所仕事に立ち向かうエミーが可愛過ぎてずっと眺めていられちまうのが悪い。つまり俺は悪くねえって事だな!


「……ア」


 そんな怠惰な自分を、本当の本当に、今だけは肯定してやりたい。


「エミー!」


 いきなりフラついて倒れ込む身体を、床に打ち付ける前に支える事が出来たから。


「おいどうした!? 大丈夫か!?」

「ダイジョーブ……」


 うん、全然大丈夫じゃねえなこれ。少し汗の浮いた額に触れると、エミーの身体に異常が発生しているのが即座にわかったから。


 急な発熱。フラつき。俺と彼女が出会った日と、まったく同じだ。


「ケイト! 救急車呼んでいいのか!?」

「必要ありません」

「なんで!? 普通じゃないぞこれ!」

「病院に行っても、何も出来る事がないんです」

「はあ!?」

「とにかく落ち着いて。エミー、これを飲んでください」


 俺がテンパってる間に用意していたらしい水と薬を受け取る手が、少し震えている。つい数分前との温度差に目眩がする。さっきまで団地っ子たちと遊ぶって言ってたのに。あんなに楽しかったのに。


「ちゃんと飲みましたね」

「ウン……」

「少し休みましょう。朝陽、エミーをベッドに連れて行ってもらえますか?」

「……ああ」

「では」

「その前に、お願いがある」

「お願い?」

「……アサヒ?」


 予感はあった。いや。確信があった。


 いつかこうなるって。あの日みたいに、こうなっちまうんだって。


 だから、そうなった時の為に、言葉をストックしておいた。


「エミーの体調が良くなってからでいい。エミーの身体の事、ちゃんと話してくれ」

「……気付いていたのですか?」

「出会った日からあんなんだったしな。そういう事なんだろうなって。わかるか? それでいいか、エミー?」

「……ウン……ヤクソク……」

「……よし」


 ちゃんと言えた。約束もした。


 だけど、早速後悔してる。


 俺の選択は、楽しかった日々の終着点を引き寄せてしまうかもしれない。


 そう思えてならなかったから。


* * *


「起きたか」

「……アサヒ?」

「おう。朝陽様だ」

「アサヒサマ?」

「なんかカッコいいだろ?」

「ノー」

「いやそんな真顔で否定しなくても……」

「……イマ、ヨル?」

「そ。夜中の三時だ」


 豆球だけ点けた薄ぼんやり明るいエミーの部屋の中、エミーチョイスの可愛い置き時計が見えたから答えた。そっか。もうそんな時間になってたのか。


「……アサヒ、ズットココイタ?」

「ああ」


 正確には、時計の短針長身共にてっぺん向いたあたりから。それまではケイトが様子を見ていた。エミーが目を覚ますまでここを譲るつもりはないと言わんばかりに布団の側から離れないケイトをどうにか諌め、布団へ入らせた。エミーの様子を少し確認したら俺も寝ようと思っていたのだが、気付いたらこんな時間になっている次第。


「……ゴメンナサイ……」

「しおらしいなあ……似合わないぞーそんなの」

「シオラシイ……シオアジ?」

「違う違う。そのうち覚えような」


 二度三度、布団の上のお姫様の金髪を撫で付け、そのまま額に触れる。昼間ほどの危険度は感じないが微熱はありそうだ。もう少し寝かしとくか。


「熱は下がったみたいだけどもう少し寝てなきゃダメだな。とりあえず水でも……?」


 取ってくるかとカーペットを押し返した俺の指先を、暖かな感触が包む。


「ダメ」

「水持ってくるだけだよ」

「ダイジョウブ」

「いやいや、水分はこまめに」

「ココニイテ」

「…………わかった」


 浮かしていた腰を落とす。それでも、俺の指先を護っているかのような暖かさは、変わらずそこにある。


「ワタシ、ヤクソク」

「約束って、さっきの?」

「ウン」

「もう少し元気になってからでもいいんだぞ?」

「ウウン。チャント、イウ。アサヒ、シンパイシチャウ。ヨクナイ、カラ」


 なんだそりゃ。俺の心配の心配なんて後回しにしてくれよ。その優しさを自分に向けてくれよ。


「本当に大丈夫か?」

「ヘーキ」


 今話したい……のかな? もしそうなら、言い出しっぺの俺が渋ってちゃ何も進まないよな。


「……じゃあ……聞かせてくれるか?」

「ウン……ワタシ、ニホンゴ、マダニガテ。デモガンバル」

「ゆっくりでいい。聞かせてくれ」


 首を小さく縦に振り、大きく息を吸って、吐いた。ありったけの勇気を掻き集めていたんだろうな。


 より強く、きゅっと触れ合う指と指が、きっとその証。


 * * *


 冗談だろ。なんだそりゃ。


 まだカタコトな日本語を精一杯駆使して明かしてくれたエミーの秘密とやらを聞いた最初の感想がこれだ。


 どこかのダメ脚本家が描いた誰かの不幸や悲劇でしか人の心を揺り動かす事の出来ない時代遅れも甚だしい三流メロドラマ展開に、奇想天外摩訶不思議要素を無理矢理ねじ込んだ。みたいな。


 エミーが話してくれた昔話は、徹頭徹尾意味がわかるのに、徹頭徹尾意味不明だった。


 大きな病気の一つも経験した事がない父母の下に産まれたエミー。当然その娘なんだから健康も健康超健康、とはいかなかった。


 エミーが四歳の頃から、平熱を遥かに上回る発熱が頻発するようになった。突然意識を失い倒れる事もしばしば。世界でも指折りの製薬メーカーを纏め上げ動かす立場のご両親は、世界でも指折りの腕を持つ医者を頼った。


 しかし、エミーの状況が好転する事はなかった。エミーを診た医師たちは口を揃えてこう言ったそうだ。


 これは、私の手でどうする事も出来ないものです、と。


 難病。発病の原因はもちろん、治療法も確立されていない病。現代医術の全てを駆使しても手の届かない病。


 天文学的な確立で発症されると言われていた現代の天敵が気まぐれに降り立ったのが、幼いエミーの頭上だった。


 頑張る。私大丈夫。元気だから。ちゃんと行けるから。みんなと仲良くなれるから。


 どんなにエミーが懇願しても、幼稚園へ行く事は叶わなかった。もちろんエミーの両親だって通園が可能になるよう努力をした。それでも叶わなかったのは、医者たちにストップをかけられたから。


 何せ前例がまったくと言っていいほどにないのだ。周囲の人間たちにどれほどの影響があるのか。空気感染は? 接触感染はどうだ? それすらあやふや。当然医師たちは研究をしたい。解決策を探したい。


 そして、ご両親の立場。製薬メーカーのトップと言う立場。協力しないなんて選択をチョイスする事は難しかったんだろう。


 エミーの為。これから先、同じ病に苦しむ人たちの為。大袈裟に言えば、人類の為。


 この先何年も掛けて青春の日々を描く為に必要な絵の具。それをご両親は、エミーから取り上げてしまった。


 どれだけの葛藤があったろう。どれだけ心を痛めたのだろう。


 そうして、無駄に広くて無駄に大きなテレビや無駄に大きな窓のある、無意味に真っ白な部屋が、エミーの新しい部屋になった。


 幼稚園に行けなくなったまま歳を重ね、気付けば卒業の歳になっていた。小学校の入学式に出席する事は出来なかった。そのまま時は流れ、彼女と同い年の子たちは、エミー・ヴァン・オブライエンという女の子との共通の思い出を何処にも保持しないまま卒業してしまった。


 エミーはというと来る日も来る日も検査検査検査。ご飯は味気ないし、毎日たくさんの薬を飲まされた。


 そんな真っ白な日々を何年も送ったにも関わらず、エミーの中に潜む人類の脅威を排除する事は叶わなかった。ああ、空気感染や接触感染の危険はないという事だけは判明したらしい。当時のエミーが聞きたかったのはそんな情報じゃなかったんだが。


 しかしまあ、それ以上の嫌な事だけはあっさりと判明してしまうもので。


 エミーを診てくれていた十三番目の先生が、ある日ご両親に言ったそうな。


 あなたの娘さんは、体内に時限爆弾を抱えている状態だ。しかし、いつ爆発するかわからない。今日かもしれないし明日かもしれない。五年後、いや十年後かも。一つだけはっきりしている事は、その爆弾を解除する術が、この世界にないという事だけだ、と。


 そんな情け容赦のない話を聞かされたご両親は、より頻繁にエミーの元へと足を運ぶようになったそうな。それがどんな理由、どんな気持ちからの行動なのかは、俺にわかるはずもない。


 エミーはエミーで、迂闊な看護師さんたちの話を盗み聞きして知ってしまったらしい。自分がどういった状態にあるのかを。


 絶望的。一欠片の希望もない。


 自分の置かれた状況を正しく理解したエミーは…………筋トレを始めた。


 は? ってなったわ俺も。だってさ、流れ的に違うじゃん? なんかこうもっとお涙頂戴的な感じになりそうなもんじゃん? ところがどっこい、そのまま終わらないのが俺が惚れた女、エミーってヤツなのだ。


 同級生たちの中学入学をカレンダーで見送った頃から、周囲の大人の意見はガン無視する事にしたそうだ。


 ここにいてもどうにもならないなら、好きな事をしよう! とことんまで楽しい事をしよう! って方向に。


 長年寝たきり状態だったもんで体力クソザコエミーちゃんはご両親にせがみ、殺風景な自分の白い部屋にランニングマシンや筋トレに必要な道具をたくさん用意してもらった。


 同時に用意させたのが教科書や参考書やノートっつー勉学に欠かせないグッズの数々。ご両親を始めとした面々が定期的にエミーの教育を務めてたとはいえ、同年代の学力の水準にまるで届いていないという自覚がエミーにはあった。だから一生懸命に穴埋めした。


 エミーは、自分を磨いた。時折やってくる身体のSOSと闘いながら。


 そうして、二年が経った。エミー、十四歳の春。ある日エミーは、誰の許可も得ないまま、真っ白な病室にさよならを告げた。仕事から帰ったご両親は、エミーに出迎えられた瞬間すっごい間抜けな顔をして転んじゃったんだってさ。そりゃそうなるわな。


 エミーは必死にご両親を説得した。このままあの部屋の中にいたくない。あんな狭い世界しか知らないままいたくない。もっともっと、楽しい事が知りたいと。


 エミーの叫びがご両親に覚悟を決めさせたのは、エミー帰宅から四日後の事。


 やりたい事をやってくれ。なりたい自分になってくれ。強く生きてくれ。今までごめんなさい。何もしてあげられなくてごめんなさい。ごめんなさいごめんなさい。


 取り上げたままだった絵の具が、エミーの小さな手の中に、戻ってきた。


 そうしてエミーの世界は、一気に色付いた。


 手始めにエミーは、祖国を歩いて回った。少し歳上の女の子、ケイト・アン・メイフィールドを隣に連れて。


 家族ぐるみな付き合いなもので、母親のお腹の中にいる頃からエミーを知っていたケイトは自分の友人……実の妹のようにエミーを思い、大切にしてくれていたそうな。


 幼きケイトは、エミーが入院している間のほとんど毎日病室に通い続けていた。エミーにとってケイトと触れ合える時間は、退屈な日々の中で唯一楽しい時間だった。


 そんな仲良しエミー&ケイトだけど、本当はエミーさん、一人で旅をするつもりだったんだらしい。しかし、なんかいつの間にかケイトと一緒に行く事になってたし、ケイトと一緒じゃなきゃダメなんて話になってるし、ケイトはうちで働く事になってるから何も問題ないなんて話になってるし、エミーさんワケワカメ状態だったらしい。


 でも、ケイトと一緒にいられる事そのものはとても嬉しかったから、改めて自分からお願いしたんだと。私と一緒に、いろんな世界を見に行こう! って。ケイトは迷わず頷いてくれたそうだ。


 そうして始まる無謀な二人旅を助ける物が、エミーが身体の準備に四苦八苦している間に開発されていた。


 完全には治せないけれど、発熱や目眩という初期症状の段階で身体に待ったを掛けてくれる、エミー専用特効薬と言っても過言ではない代物が。


 頼もしいパートナーケイトと。エミーの事を諦めず、見捨てず、研究を続けてくれていた人々の努力の結晶を鞄に入れて、世界各地への旅は始まった。時折実家に帰りながら、時折旅先の病院に搬送されてたくさんの人をハラハラさせるっつー危険な旅路は、エミーが十六歳になるまで続いた。


 それからは実家での時間が増えた。両親とたくさんの話をしたかったから。たくさんの思い出を共有したかったからだそうだ。しかしながら、それはそれで退屈だなと気付いてしまったエミーが次のターゲットに選んだのは、ハイスクール。高校だ。


 親のマネーパワーであっさり入学を果たしたエミーは、自分が虚弱な為に今までロクに学校へ行けなかった事実を隠さなかったらしい。しかしエミーは、瞬く間に人気者になった。そりゃあこの容姿でこのキャラだもん。人気にもなるって。


 時折病欠を挟みながらではあるが、高校一年の半ばから二年生の終業式までの期間、とことん楽しんだそうだ。


 同年代の子供たちと触れ合う楽しさや、学校帰りに寄り道する楽しさだったり。とにかく全てが新鮮で心地が良くて、かけがえのない物になった。


 そうして普通の女の子らしい暮らしをしているうちに、発熱や目眩に襲われる頻度が激減している事に気付いた。治ったなんて楽観視は出来ないけど、今ならばもっともっと楽しい所に行ける! 


 すっかりイケイケモードなエミーさんが次の行動を模索していたある日。ケイトと一緒に自宅でテレビを見ていると、大きなモニターに映し出されたロックな男に目が止まった。


 その男の名は、北村英二。エミーがまだ知らない国、日本に生まれたスーパーナイスガイ。なんでもこの人、CDも出してるしお芝居もするそうじゃないか! 凄い! カッコイイ! 観に行きたい! 行こう!


 ライブの予定を調べ、その日のうちに飛行機に飛び乗り、まだ見ぬ世界へ旅に出た。


 ケイトとお金とお薬と。それだけを抱えて。


 それが、今年の四月の出来事。


 大きな玉ねぎの下で三人の川崎市民とこの子とあの子が出会う、三日前の事だった。


 * * *


「フゥ……」

「たくさん喋ったもんな。疲れちゃったよな」

「ヘーキ」

「そっか」


 気が付けば、外は明るくなっていた。不思議だ。完徹決め込んだのに眠気が全く来ない。こんな事もあるんだなあ。


「ビックリシタ?」

「した」

「アサヒ、ツタワッタ?」

「超伝わったぞ」


 言いたい事も、思っている事も。たっくさん届いた。


「ヨカッタァ……」


 安堵の溜息を一つ吐き出し、目を瞑った。いつでもパワフルなエミーが疲れてますを全身でアピールするのは初めて見るな。


「……頑張ってんだな、エミー」

「ウン。ガンバッテル」


 今日を。明日の朝を迎える為に。精一杯。


 でも、それだけか? もっと先の事を見ていたりしないのか?


「なあ。エミーはさ、夢とかってあるか?」

「ユメ?」

「そう、夢。ドリームだ」

「ドリーム……ユメ…………ワカラナイ……ソウイウノ……ワカラナイ……」

「……そっか」

「ワタシ、キョウガタノシケレバイイ、ウレシイ、オモウ。タクサンオモイデ、ホシイ。ソレダケ」


 それが精一杯。それ以上の事なんて、何も。目を閉じたまま曇る表情は、俺にそう伝えているようだった。


 今までずっと何も出来なかったから、自ら望んで、頑張れば何でも出来る今が楽しい。それが嬉しいと。充分伝わった。


 しかし、だ。それじゃあさ、なんか違うと思うんだよ。


 今日が楽しければ嬉しい。当たり前だ。じゃあ、明日は? 明後日は明々後日は? もっと楽しくしたくないか?


 明日を夢見る事さえ大変だったんだろう。軽めのノリで語ってはいたが、気が触れてしまってもおかしくないような日々を過ごしていたのは想像に難くない。


 その日々が終わったわけではない。体内には今もなお、解体不可能な爆弾が存在している。


「そっか。夢はないか」

「ナイ」


 ならば。だからこそ、じゃないのか?


「……それならっ!」

「ワッ!」


 バッと立ち上がり、ババッとカーテンを開けて朝の光を迎え入れる。いきなり明るくなったもんで驚いちゃうエミーちゃん可愛い。


 うん、やっぱいいよなー太陽は。なんかこう、元気が出る。たくさんの物をくれているような、そんな気がする。


 今も確かにもらったさ。勇気、みたいなヤツをさ。


 俺は器の小さな人間だ。今を生きるので精一杯なクソザコだ。本当は、自ら掲げた夢が叶えられるなんてこれっぽっちも思っちゃいないダメなヤツだ。人様の事をあーだこーだ言える立場なんかじゃないんだ。


 それでも、俺は言うのさ。


「俺がお前に夢を与えてやるよ!」

「……アサヒ?」

「今のエミーがどんな夢も見れないならこれから見ればいい! 心配すんな! 俺が見せてやる! エミーが夢を見れるようにしてやる! エミーと一緒にちょービッグな夢を見てやる! そんでもって、俺の夢を俺が叶える所を見せてやる! スーパーな俳優になるっつー俺の夢が叶う所をさ!」


 楽しいなんて、ましてや幸せなんて下を向いて歩いても後ろを振り返りながら歩いても、どこにも落ちていない。だからって上を向いたって、何かがあるとは限らない。


 だから探すんだ。見つけて、そして掴むんだ。そうして歩きながら、馬鹿じゃねーのってくらい未来の話をたくさんしてやんだ。それ全部、一緒に叶えてやるんだ。


 余計なお節介。無責任な介入。それがなんだってんだ。難しい事はわかんねーっつの。


「ア、アサヒ、ムズカシイ……ワカラナイトコロ、タクサン……」

「いいんだよそれで! 俺にもわからねーんだからよ!」


 わかる事なんて、ほんのちょっとだ。


 俺が惚れた女に、胸を張って明日を生きて欲しい。思い出作りなんかの為だけに人生を費やさないで欲しい。


 エミーに、笑っていて欲しい。可愛い笑顔をたくさんたくさん見せて欲しい。世界一可愛いっていう、笑顔をさ。


 これだけ。これ以外、わかんねーや。


「とにかくっ! 全部これからだ。今日だけじゃない。これから先、全部が大切なんだ。今日だけなんかじゃ絶対ないんだからな。だから……今が一番なんて、そんなつまんない事言うな。今目の前にない物を、もっともっとたくさん欲しがれ」


 だから押し付けて、自己満足する。そうして身勝手に、エミーを変えてやる。


 俺の行いがエミーを苦しめる事になるのだとしても、だ。エミーが苦しむなら、それを相殺しても有り余るくらいの楽しいや嬉しいを俺が創り出してやる。


 エミーがいつまでここにいてくれるかはわからない。だけど、俺はいなくならないぞ。迷惑なくらいにエミーの人生にちょっかい出してやんだ。もう決めたんだかんな。なんでって、そうしたいからだよ。


「ハ……」


 まだ熱に浮かされているのか、頬の赤いエミーが呆けた顔をしている。うん、可愛い。好き。とっても好きだ。


「ん?」


 布団の上に無造作に投げ出された金色のカーテン。朝日を浴びて一層煌めき揺れるそれを静かに掻き分けて、か細い人差し指が頭を出した。ふるふると震えながらも真っ直ぐ進むそれは、ちょんちょんと二回、俺の手の甲に、自分の存在を注いだ。


「ワタシ……」

「うん」

「ココスキ」

「俺もだ」

「アサヒモ、アキラモ、ユキモ、ミンナスキ」

「俺もだよ」

「ダカラ…………マダ、ココイタイ。イイ?」

「いいに決まってんじゃんか」

「デモワタシ」

「でももストも桃もねえ。いいったらいいんだ。むしろいてくれ。いつまでだっていてくれたっていいんだからな」

「ドーシテ?」

「エミーにここにいて欲しいからだよ。もちろん、ケイトにも」

「……アサヒ、ナンデソンナ、ヤサシイ?」

「そんなの、エミーが大好きだからに決まってんだろ」


 人差し指を、手のひらで捕まえた。なるだけ優しく。エミーを震えさせる何かを少しでも、預けてもらえるように。


「ワタシモ、アサヒスキ……」


 あ。これアカンヤツや。絶対正しく伝わってないヤツや。


「あーっと、俺の言う好きってのは……なんだ……ほら……」

「ンー?」

「ラ、ラ……ラブ! 的なヤツだから……」

「ラブ?」

「そ、そう……ラブ…………つまり俺は……エミーラブ…………みたいな……」


 やっべー勢いで言っちまったよ俺ーっていうかダッセーなんだよラブみたいなってーマジないわーどうしようどうしようどうしよう……。


「……アサヒ」

「な、なんだよ……」

「ウレシイ……トッテモ……ウレシ……」


 内心テンパりまくりな俺を励ますかのよう。夏の朝日さえ霞むような、大輪の笑顔が咲いた。


「……そっか……」

「……アサヒ?」

「うん?」


 まだ戸惑いは拭えない様子だけど、小さな声で、確かに言ってくれた。


「……こちらこそ」


 眩しい笑顔に、少し躊躇いがちに添えられた暖かな響き。


 アリガトウ。


 エミーの世界に。俺の世界に。新たな色が足された瞬間だった。

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