三十六食目 告白のバーベキュー(中)


「――ヴーッワンッワンッワンッ!!」

「うわっ!?」


 犬の攻撃的な鳴き声と環の驚いた声と同時に、顎を締め付けていた手が離れた。薄らと目を開けてみると、環の二の腕に白い犬が噛み付いていた。その白い犬は、見覚えのある首輪をしていた。


「あ……、は、ハク……ちゃん……?」


 掠れている視界でも、はっきりと分かる。樹がドッグランカフェで買っていた、真っ白な毛皮に映えるデニム生地のバンダナ型首輪。見間違える筈が無かった。何故なら、樹がハクを飼って一年目の記念に、特注で仕立ててもらった物だからだ。


「ど、して……?」

「くそっ……!! 離せっ!!」

「グッ!! ヴゥーッ!!」


 頭を掴んだり、腕を思いっきり振ったりして離そうとするが、二の腕部分に噛み付いていて上手く力が伝わっていないのか、なかなか離れない。その光景を呆然と見ていたが、環が拳を振り翳したのが見えた。


「ダメッ……!!」


 よろける足を強引に動かし、ハクを庇おうと環の拳の前に出た。ハクをどうにかしようと必死になっていた環も智里に気が付いたが、勢いよく振られた拳は勢いを殺す事なく智里目掛けて振り下ろされた。張り手だけであの威力だったのに、固く握られた拳だとどうなるか……。智里は、覚悟した上で目を瞑った――。


「……?」


 だが、一向に衝撃が来ない。恐る恐る目を開けてみると、環の拳を止めている手があった。唸りながら噛みついていたハクが、二の腕から離れ環の後に居る人物に駆け寄り、尻尾を振って足元に座った。智里の目は、その人物に釘付けになっていた。会いたくて仕方なかった。叩かれた時、助けてと願った。その人――樹が、目の前に居た。


「……女性を、ましてや俺が好いた人と、大事な愛犬を殴ろうとするなんて……。貴方の人生で償いきれる事じゃないですよ?」


 怒っているのが直ぐに分かる程、智里の知っている優しい目をしておらず、縄張り争いをしている獣の目をしていた。口調は丁寧だが相手を殺す様な、殺気を放っていた。環は背筋が凍った思いをしたが、


「な、なんだ、アンタ……!? この部屋は鍵を……!!」

「あぁ、それですか。時間になっても部屋が開く気配が無かったので、庭から入らせてもらいました。まぁ、ハクが居てくれましたが一部屋一部屋しらみ潰しに探していたので、時間は掛かりましたがね。」


 ニッコリ笑いながら、握っている環の拳を更に締め上げる。鍛え上げている環が、苦痛の表情を浮かべた。


「こっのっ……、離せっ!!」

「……では、智里さんに謝罪をして頂くのと、金輪際、近寄らないとお約束して頂きましょう。」

「なっ……!!」

「……もう一度、言わないと分かりませんか? あぁ、それとも、警察のご厄介になられますか? 暴行、脅迫の罪で留置所送りは確実でしょうね。」

「っ……!!」

「俺は、出来るだけ穏便に済ませたいのです。この意味、分かりますよね?」


 笑って言っているが、額には青筋が走り眉間には深い皺が寄っていた。こんなにも怒りを露わにしている樹を初めて見た智里は、心の底から普段は優しい人が怒った時の恐怖を感じた。暫く唇を噛み締めていた環だったが、樹の醸し出す威圧感に押され、チッと舌打ちした後、樹の手を振り払った。そして、智里の方を向くと、畳に膝を着き土下座した。


「……ちいちゃん。いや、前田 智里さん。今日の事、そして昔の事、本当に済まなかった……。もう二度と近付かない。約束、します……。」

「……はじめちゃん……。」


 高圧的な態度から一転して、土下座までしてきた環。本当に反省しているのだと感じた智里は、ゆっくりと環に近寄り手を差し伸べた。差し出された手と智里を何度も見比べる環に、智里はニッコリ笑った。


「今日の事は怖かったけど、また、初めからやり直そう?」

「……それ、って……。」

「お友達っ。そこからまた、始めよう?」

「いやっ、それだと、約束が……!!」

「もう、私がそれで良いんだから諦めてよー。ね、樹さん?」


 樹の方を見遣ると、やれやれと言った様に肩をすくめた。智里は環に向き直ると、環の二の腕を見た。グレーの上着が少し濡れている。ハンカチを出すと服の上からそこに当てがい、しっかりと縛った。


「ハクちゃんは狂犬病の予防接種は受けてるんだけど、服の上からでも噛まれてるから、念の為に病院に行ってね。」

「あ、う、うん……。」


 環は完全に呆気に取られていた。ついさっきまで自身を怖がっていたのにも関わらず、友達からだとか、病院に行けだとか色々とお節介を焼きだした。普通なら、助けに来た樹の後ろにでも隠れて、完全に拒否するものだと思っていたのに、拍子抜けだ。環はフッと笑うと、樹の方を向いた。


「……貴方が止めに来てくれなかったら、俺はまた過ちを犯すところでした。本当に、すみません。そして、ありがとうございます。」

「いえ、過ちを犯すのは人間の性というものです。貴方はちゃんと、今回の事と過去の罪を認めました。少しは改心出来たのではないでしょうか。」

「はい……っ。」


 深く頭を下げて謝罪し、涙ぐむ環の肩を樹は優しく叩く。これで一件落着。皆が皆、息を吐いた所で、グーッと盛大な音が鳴った。智里と環が互いにお腹が鳴ったのか確認していると、樹が恥ずかしそうにお腹を押さえながら手を上げた。


「す、すみません……。全速力で走って探したので、その……お腹が……。」


 先程まで、聖人君子の様な事を言っていた人とは思えないその様子に、全員で笑った。そして、部屋に設置されている電話で、フロントに居る菅原に、ある事を伝えた――。

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