17

 その日はサニーハイムに帰る予定だっが、数学の宿題のノートを取りに祖母の家によった。


 ヘルパーの礼子さんも今日は休みだ。実家には圭司ひとり。人のいない家には、隅々に寂しい影が蔓延はびこっていた。


 それから、バスで病院へも向かった。

 母と祖母は、やはり同じ病室になっていたのだけれど、部屋には寝息を立てている祖母しかおらず、順子はロビーの横にある喫茶店でコーヒーを啜っていた。


「あれ? 今日は練習試合じゃなかったの?」

「うん。でも、雨のせいでなくなった」

「そう」


 圭司が順子の向かいの席に座ると、母は読んでいた雑誌を畳んでコーヒーに口をつけた。


 喫茶店には、彼らような二人組の客がたくさんいた。親と子、ではなく、患者と見舞い人だ。どちらかは薄いブルーの入院着を着ている。

 

「何か飲む?」

「え? じゃあ俺もアイスコーヒー」

「あんた、いつの間にコーヒーの味なんか覚えたのよ」


 順子はカウンターへ注文をしに立ち上がる。

 喫茶店の隣には売店もあった。待合室であっても、ここは病院内。圭司は薬品の匂いがするところでよく食事ができるな、と隣でパスタを頬張る中年男性を見た。


 しばらくして、順子がアイスコーヒーを2つ持って帰って来た。

 正直なところ、圭司はコーヒーなんて好きじゃなかった。ミルクやフレッシュなんてものも知らないのに、どうして自分がコーヒーを頼んだのか分からなかった。


「練習はどう? 試合、近いんでしょ?」

「うん。今度の土曜日」


 順子が2杯目に口をつけてから、圭司もコーヒーをそのまま飲んだ。うえ、やっぱり不味いや。


「相手は?」

四中よんちゅう

「こないだの練習試合で勝ったとこじゃない」

「でも分からないよ。だいぶ前のことだし、あの時は相手も本気のメンバーじゃなかったから」


 ふーん、と、順子は頬杖をついて笑う。

 圭司はなんだか恥ずかしくなって、不味いはずのコーヒーに逃げた。


「お、お祖母ちゃんはどうなの?」

「知らないわよ」


 しまった、と思ったのも遅かった。順子は頬杖を解いて、病人らしくなく椅子にふんぞり返る。


「ボケるわ、倒れるわ……病院じゃなくて老人ホームの方が絶対良いのに」


 しかし、あからさまに口を尖らせる順子が、「あ!」と小さくこぼした。それは後に続く「そう言えば」の枕詞だ。圭司もそれを知って、咄嗟に身構えた。


「そう言えば、あの人がお医者さんと話しているのがチラッと聞こえてきたんだけど」

「な、なに?」


 あの人とはもちろん祖母のことだ。それに、「聞こえてきた」とは上手い表現だった。


「なんで外に出たのか聞かれて……その、なんと言うか」


 その時、なぜか順子も突然言葉を濁した。

 圭司がコーヒーを飲んだとき見たいに渋い顔をして、胸に隠した秘密を見せようか見せまいか悩んでいるようだった。


「何さ? そこまで言ったら教えてよ」

「えっと……あの人がね、先生のその質問に、『圭ちゃんに呼ばれた』って答えてたのよ」


 


 順子が疑うようにして、そう言った。


 そんなわけない!

 カラン、と氷が溶ける音だけが聞こえてきた。

 圭司は、なぜか声に出して言うことが出来なかった。

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