第116話 鍋

「そういえばカレンちゃん。お夕飯はどうするの?」


 時間は午後5時。

 成恵さんが夕飯の支度をはじめようかとキッチンへ移動したときに成恵さんがカレンに夕飯のことを尋ねた。


「えっと……迎えが来たら食べようかと」

「でも、迎えが来るまでまだ時間はあるわよね」


 シルビアからの迎えの時間にまでまだ時間はある。それに迎えに来てからの夕飯というのはいささか遅い時間だ。


「よかったら、ウチで食べていかない? みんなも私の料理でよければ、ご馳走するわ」

「あ、俺もご相伴にお預かりしてもいいですか」

「最初からそのつもりよ。カレンちゃんの面倒は最後まで見ないといけないもんね」

「ありがとうございます」


 観月たちはそれぞれスマホを取り出すと、保護者へ連絡をする。全員が黒澤家で夕飯を食べていくことになった。


「買い物なら俺が行きますよ?」

「私がご馳走するんだから。ゆっくりしてて」


 成恵さんは随分と楽しそうだ。この調子だと料理の手伝いもさせてもらえないだろうな。鼻歌を歌いながら成恵さんはカバンをもって玄関から出ていった。


 台所を見れば大きな鍋が準備してある。

 自分で好きな量を食べることのできる鍋料理をするのかな。

 寒い時期にはもってこいの料理だ。一人暮らしの手前、なかなか食べることのできないから楽しみだ。


 ……

 ………

 …………


「さて、そろそろいいかしらね」


 成恵さんは買い物から帰って食うと急いで調理に取り掛かった。

 料理ができるまで俺たちはトランプで時間を潰していたのだが成恵さんの声を聴くと机の上に広げてあるトランプを片付ける。


「あ! 自分が負けそうだからってズルすんな!」

「ずるくないですぅ。もう飯の時間だから片付けてるんですぅ」


 先ほどまでババ抜きに興じており、俺と歩波で最下位決定戦を行っているところだったが歩波が結果をうやむやにした。トランプの代わりに俺はキッチンの棚からカセットコンロの上に土鍋を置く。


 成恵さんが持ってきた鍋のふたを開ければ真っ白なな湯気と一緒に白菜や春菊、えのき、タラの切り身が姿を洗わず。海鮮系の鍋なのは女子も多いことを成恵さんが考慮したからだろう。


「歩波ちゃん、景士さんを起こしてきてくれる?」

「うん」


 その間に俺は人数分の取り皿と割り箸を机の上に置いておく。

 1分もしないうちに景士さんは眠そうな顔をしながらリビングへとやってきた。


「おお~、なんか鍋って久しぶりだな」


 景士さんはそんなことを言いながら炬燵に入った。

 黒澤家も仕事の関係上家で全員が揃うことはほとんどないので鍋をするのは珍しいようだ。


「じゃあ、みんなどんどん食べてね」

「「「「いただきます」」」」


 あいさつの後それぞれ箸を鍋に伸ばし、自分の取り皿に具材を取り分けていく。


「出汁が出てて美味いな」

「炬燵に鍋ってこの時期には一度はやっておきたいよな」


 俺と景士さんが鍋を食べながらしみじみとそんなことを言う。

 食材が喉を通ると、じんわりと身体の奥から暖かくなって来る。景士さんと結婚する前から成恵さんの料理は食べてきた。この人が作ってくれる料理というのはなぜこんなにも温かくなるのだろうか。


「あ、成恵ちゃん。熱燗お願いします」

「はいはい。もう準備してあるから」


 成恵さんは炬燵から出ると盆の上に徳利と猪口をもって景士さんに渡した。


「歩は飲まねえのか?」

「俺は、この後に親御さんと会うんでやめておきます」


 さすがに初対面が酔った姿というのは印象が悪すぎる。

 徳利を持つと俺は景士さんに酌をする。


「あー、美味い……」


 鍋に炬燵に熱燗。

 絶対、うまいだろうな。


「やめておいた方がいいよー。兄さん、一定量超えると言わなくてもいいこと言い出すから」

「うっせ」


 俺はアルコールを一定量摂りすぎると口が軽くなってしまう……らしい。その辺の記憶は曖昧になるから、あまり人前では飲み過ぎないようにはしている。けれど、前の水沢先生たちと飲み会では余計なことを言ってしまったようだった。


 大きな土鍋でも7人で食べればあっという間になくなってしまった。最後には定番のラーメンを入れて締めとした。


「ふにゃ……」


 食事を終えるころには景士さんは完全に酔いつぶれていた。

 景士さんは絡み酒になるか、すぐに潰れるかのどちらかだ。

 景士さんを担ぎ寝室まで運ぶ。ここ数日はパーティーや仕事で引っ張りだこだったんだろうな。今日はまだ疲れが残っているからかすぐに眠ってしまった。


「歩くん。ありがとうね」

「いえ、これくらいは」


 俺の都合でカレンの両親を待っている間は成恵さんは休むことができない。

 ならばこれくらいはと俺は洗い物を始める。


「センセ、このお皿はどこでしょうか?」

「ああ、一番上の棚だから俺が」

「私が変わります。私、背が高いです……し」

「傷つくんなら言わなきゃいいのに」

「観月、これ拭いておいて」


 俺が洗い物をしていると生徒たちが手伝うと言い出した。

 全員がキッチンに立っている所為で、ちょっと狭い。少し身じろぎするだけで身体が当たる。いろいろ当たっちゃうんですよ。


 鍋物だったので使う食器は少ない。手早く丁寧に食器を片付ける。

 あとはカレンのご両親が来るのを待つだけだ。


 ……

 ………

 …………


 ――ピンポーン


 リビングで景士さんを除くみんなでテレビを見ているとインターフォンの音がリビングに響き渡る。

 時間は夜8時。恐らくカレンの迎えだろう。


 成恵さんは立ち上がるとマンションの玄関とつながっている受話器を取った。


「はい、黒澤です……はい、はい……少々お待ちください」


 成恵さんはマンションの玄関を開けるボタンを押す。

 カレンの家族が上がってくるまでに成恵さんはお茶の準備をしようかと忙しなく動き出す。


 俺も俺で準備をするべく、手近な鏡で身だしなみを整える。


「なんだか、結婚の挨拶に向かう男の人みたいね」


 成恵さん。爆弾を投下しないでください。

 からかっているつもりなのかもしれないけれど、ここにいるのはそれを冗談として受けてくれない人たちばかりです。今も何も言わずリビングから俺たちを見ているんですよ。


 ほどなくして、家の前のインターフォンが鳴らされる。

 成恵さんにはお茶の準備を続けてもらい、俺が玄関でカレンのご両親を出迎えるため扉を開けた。


「お久しぶりです。先輩」

「ああ」


 まず最初に姿を見せたのはシルビアだった。

 メイド服ではないのは救いだった。メイド服を着ている女性を招いているような光景を近所の人に見られたら変な噂が立てられそうだ。

 そして俺はシルビアの隣にいるカレンのご両親であろう人たちに視線を向ける。


「カレンさんのご両親でよろしかったでしょうか?」

「はい。美雪由紀恵と申します。いつもカレンからお話を伺っておりますわ」

「…………………」


 朗らかに話す由紀恵さんに対してカレンのお父さんであろう男の人は何も言わない。ただ俺を見据えているだけだ。


「あなた、挨拶くらいしないさい。すいません。先生に娘を取られたと思っているみたいで」

「………そんなことはない」


 不機嫌そうに由紀恵さんの言葉を否定するが、正解っぽいな。。


「お茶の準備をしていますのでよろしかったらお上がりください。カレンさんもお待ちです」

「ではお言葉に甘えて」

「失礼します」

「………」


 3人の入室を促すと、リビングにまで案内する。


「カレン。迎えが来たよ」


 リビングにはソファから立ち上がり、ご両親の前に移動するとそのまま由紀恵さんに飛びつく。


「お母さん、お父さん……ごめんなさい……」

「……うん。無事でよかったわ」


 そこには隠し切れないほどの愛情があった。

 親子の中は十分なくらいにいい様だった。カレンの心配もそのうち消えていくんだろうな。


 食卓の椅子を動かし、俺と成恵さんカレンは並んで座り、その体面にカレンのご両親とシルビアが座る。

 そんな俺たちを歩波たちはリビングのソファから見ていた。


「先生。この度はウチの娘が大変なご迷惑を」

「いえ、何かある前に保護できてよかったです」

「ありがとうございます。それと、これはお詫びといっては何ですが、お納めください」


 由紀恵さんはそう言って、シルビアが持っていたものを机の上に乗せる。

 結構な量が入っていそうな袋だった。その袋からもなにやら高級そうな雰囲気が漂っている。


「向こうでの物でして。急ごしらえで申し訳ないのですが」

「いえ、お気持ちだけで結構です。立場上、受け取るわけにはいかないものでして」


 近頃はコーヒー一杯でも公務員は断らなければならない。

 ウチの学園は私立なので俺は公務員というわけではないが、保護者から何かを受け取るというのはできるだけ避けた方がいい。親御さんの気持ちだけ受け取っておこう。


「それでしたら、私――友人からのお土産ということでどうでしょうか」


 シルビアが友人という立場で再度俺にお土産を渡す。

 さすがにこんなふうに渡されると断りづらく、結局俺は受け取るしかなかった。


「開けてみてください」と由紀恵さんが促すので失礼ながら目の前で開けさせてもらう。

 中には聞いたことはあるが、生涯飲むことなんてできないような高級ワインや音に聞こえる銘菓が入っていた。一体、総額いくらくらいになるんだろうか。計算するのはやめよう、胃が痛くなりそうだ。


「カレンはご迷惑をおかけしませんでしたが?」

「いえ、特には……」


 以前、キスされたことがありますなんて口が裂けても言えません。


「…………………本当に何もなかったんだろうね」


 ここで初めてカレンのお父さんが口を開いた。

 その重厚な声に少しビビった。


「若い男女が1つ屋根の下にいたんだ、多少の警戒は必要だろう?」


 やはり、カレンのお父さんは俺に対して少なからず警戒心を抱いているようだ。俺も逆の立場だったら気が気じゃない。


「誓ってそのようなことは……」

「君には聞いていない」


 お父さんは俺とは会話すらしたくないようで、先ほどまでの言葉はカレンに向かって問いかけたようだった。


「カレン? 正直に言ってごらん? そこの馬骨ばこつ先生に何かされなかったかい?」


 その馬骨先生というのは俺のことでしょうか?


「あなた、いきなり失礼ですよ」

「私はこの子の父親としてこの子を守らねばならない。もし、ふざけた真似をしていたら……」


 消されますね。

 社会的に消された後、言葉通りの意味でも。

 口に出さずとも目がそう語っています。


「お、お父さん! 何もありませんでしたから……私はすぐに寝てしまってよく覚えてませんけれど」


 できれば後半を自信を持って言い切って欲しかったな。

 その言い方だとまるで寝ている間に俺が何した可能性もあるとも考えられる。


「何もしてないからな。映画見てる途中で寝ちゃったカレンをベッドに運んだだけ」

「そうよ。先生は男性の方がお好きなんですから。空港でも、飛行機の中でも、マンションのエントランスでも何度も説明したじゃない」

「その誤解はやめてくださいっ!!」


 つーか、そのような誤解を公共の場所で話さないでください。


「先輩が何もしていないというのはおそらく事実かと」


 意外な人間からの援護射撃に俺は少なからず驚いた……シルビアだ。


「先輩とはそれなりに長い付き合いですが今までそんな話は聞いていませんし、そのような方ではありません」

「シ、シルビア……」


 お前……お前の口からそんな言葉がきけるなんて……。

 慇懃無礼で、腹黒で先輩である俺たちを敬うどころかパシリやコスプレのネタとしか扱っていなかったのに……。


 シルビアから一定以上の信頼を寄せられていたと思うと、俺の胸の中にグッとこみ上げてくるものがあった。今度、透や大桐に報告しよう。



「私も先輩とホテルを利用したことがありますし」


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