第105話 教師と子供

 土曜日。

 静蘭学園は私立高校ということもあり、公立高校とはカリキュラムが異なってくる。

 私立の高校は保護者や生徒の期待や要求されることも高いため、学習や受験指導に力を入れている所も多い。

 静蘭学園の授業は午前中で終わりだが、進学校である秀逸学園は同じ私立であっても土曜日も7時限まで授業がみっしりあると聞いている。そういう生徒たちは日曜日や祝日も塾とかに通っているのだろう。いつ休んでるんだろう。


「ゆとり教育なんてとうに終わった。きみたちはしっかりと勉学の喜びを感じて今日という日を過ごしてください」

「卑怯だ! いいよなぁ、ゆとり世代はっ!」

「そうやって俺たちの世代はそういう偏見の目で見られるんだよ。じゃ、授業頑張れよー」


 生徒たちの理不尽な非難の声を聞き流して扉をしめる。

 昨日の飲み会はちょっと飲み過ぎたみたいだった。

 祖母のことなんて誰にも話す気はなかった。飲み過ぎるとどうにも口が軽くなってしまう。あの後は百瀬が迎えに来てくれたことは覚えているのだが、話の後半はほとんど覚えていない。


 ――ん?


 学園の廊下を歩いていると窓の外に何やら小さな影が校庭で動いたような気がした。改めて校庭を見るが誰もいない。




「うあああああん!!」


 職員室に戻ると何やら子供の泣き声が聞こえてきた。


「泣かせないでくださいよ!」

「家はどこだって聞いてるだけだよ。泣いてばかりじゃわからないだろ」

「あー、ほらほら泣かないでー」

「迷子?」

「みたいですねぇ」


 聞こえてきた先生たちの話を聞く限り、迷子がこの学園に入ってきてしまったようだ。

 その子供は先生たちに囲まれて見えにくい。

 泣いている子どもの顔を見るため俺は先生たちのところへ行く。


「何でこんなに泣いているんですか?」


 俺は女の子が泣いている事情を尋ねる。迷子だからというのもわかるが、怯えているような泣き方だった。


「連れてきたのは剛田先生だったみたいで、無理矢理ここに連れてきたみたいです」

「あー、それは怖かったでしょうね」


 嫌がる女の子を無理やり連れまわす誘拐犯みたいな画が脳内に浮かんできた。小さな子供相手にも生徒と同じように怒鳴り散らしそうだ。


「この子以外にも見たということで剛田先生が探しに行っています。その間に事情を聴いておくようにと……」


 話を聞こうにも泣いてばかりいる女の子からは何も話を聞くことはできていないようだった。


「俺が聞いてみますよ。先生たちは授業の準備を」

「すいません。お願いします」


 俺は今日は担当の授業はない。

 職員室でテスト作成の仕事をしようかと思っていただけので、一番手が空いているのは俺だ。


 泣いている女の子の前に膝をついて背の高さを合わせる。見知らぬ大人に囲まれ見下ろされたら泣いてしまうのは仕方がないと思う。


 髪をサイドテールにまとめている女の子だ。

 しゃくりあげながら泣くたびに、ぴょんぴょんとサイドテールが揺れる。


「ねえ、どうしたの? お母さんは?」


 俺の声に反応したのか顔をあげて俺の顔を見る。


「「あ……」」


 俺と女の子は同時に声を挙げた。


「みいちゃん?」

「お、おにいちゃーん……」


 その子は俺の顔を見るなり、ぎゅっと俺の首につかまってくる。


「え、高城先生の妹さんですか?」

「違いますよ。俺の妹は俺のクラスのアレだけです。この子、俺の借りているアパートの近所に住んでいる子なんですよ」


 陽太の友達の1人で幼稚園から一緒に遊んでいる子だ。本名は知らない。陽太たちにみいちゃんと呼ばれているから。俺もそう呼んでいる。

 文化祭の時にも俺にだっこをせがんできた子だった。心を許した大人には今みたいに甘えてくることが多い。

 俺から離れようとしないのでしばらくこのままで過ごす。一通り泣いて落ち着いたころ合いを見計らって声をかけよう。


「高城先生」


 みいちゃんをあやしていると、江上先生に声をかけられる。


「すいません。まだ事情は聴けてなくて」

「いえいえ、そんなことはいいんですよ。それにしても随分と手慣れてますね」

「アパートの大家さんの子供の面倒をよくみさせてもらっていて、その友達のこの子とは顔見知りなんですよ」

「そうですか。それならばその子の事はお任せしてしまってもよろしですか?」

「はい」


 ◆

 夕葵


「…………」

「…………」


 私は1時限目の授業の終わり、次の授業の準備をするため先生に頼まれた書類を取りに英語教員室にまで来ていた。


 置いてある資料を取るため棚を開けるとそこには一人の男の子が隠れていた。


「えっと……」

「みつかったー!」 

「!!??」


 私が言葉を発すると棚から飛び出す。その声に合わせて机の下やカーテンの隙間にも隠れていた子供たちが一斉に逃げ出した。一瞬、子供のお化けかと思ったのは私だけの秘密だ。

 この男の子からは必死さを感じられる、隠れんぼというわけではないようだ。事情があるかと思い、声をかけようとするが


「見つけたぞ!!」


 野太い男性の声に男の子はビクッと怯えたように体を驚かせる。


「剛田先生?」

「夏野! そのガキを捕まえろ!!」

「ガキって……そんな言い方」


 剛田先生の子供への接し方に少し疑問を覚えるだが、男の子はそのまま走って逃げていく。

 どうやら男の子が怯えていたのは剛田先生のようだった。


「逃げるなっ!!」


 そのまま剛田先生は男の子を追いかけていった。


 ◆

 観月


 夕葵がチャイムと同時に戻ってきた。

 いつも余裕のある夕葵にしては珍しい。

 とはいっても、それを叱る先生は来ていないのだけれど。


「小杉が病欠してもう2週間は経つねー」

「なんでも胃腸が大変なことになってるらしいよ」

「ストレス?」

「むしろ私たちにストレス与えてる人が?」

「「「ありえないんだけどー( ´艸`)」」」


 英語担当の小杉が入院して、その間は代理として別の先生が付くことになった。

 けれども、今日はその代理の先生が出張で不在ということでアタシたちの英語の授業は自習となっていた。

 自習なんて聞こえはいいけれど、監視する先生もいない。アタシたちは席を自由に行き来し各々過ごしていた。渡された課題をやっている生徒もいれば、あんな風に話をして過ごしている生徒もいる。


「兄さんから聞いた話だと、理事長とか校長先生に相当絞られたらしいよ」


 歩波がこそっと事情を話してくれる。


「おかげで先生が変わって授業が分かりやすいんだけど」

「こら、無駄話してないで課題を片付ける!」


 鬼教官と化した涼香が私たちの勉強を見てくれている。


「そ、そういう涼香さんは終わったの? まだ10分しか経ってないけど」

「10分もあれば終わるから」

「ぐ……」


 涼香の机にはすでに終わった課題が置かれていた。

 歩波は涼香との頭の出来の違いにうなだれる。

 アタシはここ最近の勉強が効いているのか意外と順調に課題が進んでいる。歩波だけがペンが動かず首をかしげていた。


「私も手伝います」


 英語が比較的どころかかなり得意なカレンは歩波を励ます。

 カレンって日本語が苦手なだけで英語はほとんど完璧。

 特にリスニングは完ぺき、スピーチは超ネイティブだ。

 だから小杉が授業中にカレンを指名することはない。前にカレンが悪気無く「訛りの強い英語で聞きにくい」といってしまったこともあった。あのプライド高い小杉はかなり傷ついたみたいだった。そんなカレンも当然、課題は終わっていた。


「夕葵さん、終わったの?」

「ああ、ちょうどテスト勉強でやったばかりのところだったからな」


 夕葵も課題を終わらせて、空いている席に座った。


「……さっき課題を取りに行く時に子供がいたんだ」


 真面目な夕葵が自習中とはいえ私語とは珍しい。

 歩波もそう思ったのかペンを止めて夕葵の方を見る。


「子供?」

「ああ、棚の中に隠れていて私が見つけるとびっくりして逃げていった」

「へー、先生たちの誰かの子供かな?」


 今日は土曜日だし、託児所が休みのところも多いから学園にでも連れてきたのかな。


「………よしっ! 終わった!」

「み、観月の裏切り者―……」


 歩波が夕葵の話に気を取られている隙に私は残りの問題を手早く終わらせた。


「ナハハ、日ごろの行いの違いだよ。アタシちょっと席外すねー」


 ◆


「お祭りがあると思ってきた?」


 泣き止んだみいちゃんから事情を聴くとそんな答えが返ってきた。


「お祭りって文化祭のこと?」

「うん、このまえのおまつりすっごくたのしかったから……またやってるって」


 どうやら、文化祭が毎週開かれていると思っていたらしい。まあ、小学生の子からすれば高校生の生活なんて想像もつかないか。


「一人でここまで来たの?」

「ううん。陽太くんたちと」

「陽太も来てるのか!?」


 これには驚いた。

 しかも、“たち”ということだとまだ学園内に複数の子供が潜んでいるということになる。生徒に見つかったら騒ぎになること間違いなしだ。子供たちも怯えてしまうことだってある。もし、化学薬品室とかなんてところに入ったら……想像するだけで怖い。


「江上先生」

「ええ、手の空いている先生方に声をかけて探しましょう。大丈夫かと思いますが、高城先生は化学室などの施錠の確認をお願いします」

「はい」


 ◆

 観月


「……観月、その子たちは?」


 涼香がアタシの足元を見て尋ねる。


 アタシのスカートを掴んでいる陽太とその友達であるレオ君と凪ちゃんだ。


「……女子トイレに隠れているの見つけた」


 女子トイレに3人の子供がいたときにはびっくりした。

 なんでも、怪人みたいな男の人の追いかけられていたので逃げていたらしい。隠れ場所に選んだのが女子トイレだったみたいだ。確かに男なら入ってこられない場所だけれど。


「キャーかわいい~」

「いくつ~?」

「観月の弟!? や~ん、めっちゃかわいいじゃーん」


 アタシが連れてきた子たちはみるみるうちにJKに囲まれる。

 それに怯えてスカートを握る手がますます強くなる。ちょ、それ以上持たれると中がみえそうになるんですけど!


「で、なんでアンタたちは学校に来たの?」


 アタシは陽太たちを椅子に座らせて事情を聴く。


「う……お祭り」

「お祭り? あ、文化祭のこと?」

「うん」

「バカね~。文化祭は1年に一回だけなの……というより、ここまでアンタたちだけで来たの!?」

「うん!」


 アタシの言葉に陽太は誇らしげにうなずく。


「バカッ!! 危ないでしょ!!」


 でも、アタシは陽太をしかりつけた。


 小学生と高校生とでは見えている視界も行動範囲がまるで違う。

 高校生からすればなんともない道でも小学生からすれば大きな道になる。静蘭に来るまでに何度も大きな道路を渡ってこないといけない。


「車にぶつかったりしたらどうするの!? ママだって悲しむよ?」


 だからあたしは本気で怒った。

 レオ君も凪ちゃんも驚いて怯えたようにアタシを見る。

 これだけはしっかり言っておかないといけない。また危険なことをしてしまうことだってあるから。


「ごめんなさい……」

「ホントよ。無事でよかった……」

「この子たち、どうするの? 職員室で預かってもらう?」


 涼香が陽太のことを考えて案を出す。


「アタシがみんなを送り届けるよ。お母さんたちも心配してると思うから」

「でもまだ授業が残ってます」


 まだ二限目の途中だ。

 お昼まで随分と時間がある。とりあえず、先生に事情を説明して……


「おいっ!! 何を騒いでいる!!」

「「「「「!!??」」」」」


 怒鳴り声とともに乱暴に扉を開けられてみんなが驚く。

 教室の入り口にはゴリ田がいた。アタシたちはとっさに陽太たちを背中で隠した。


「自習だからといって騒ぐな!! 大人くしていろ!!」

「申し訳ありません。私からみんなに言い聞かせておきますので、今回はお許しください」


 夕葵がお手本のようなお辞儀をしてゴリ田に謝罪する。


「ま、まあ、夏野が言うのであれば……お前ら静かにしていろよ! 俺はお前たち違って忙しいんだからな」


 夕葵に飲まれたのかゴリ田は教室から出ていった。去り際にちらっと夕葵の胸に視線が言ったのを女子たちは見逃さなかった。マジでキモイ。


 ゴリ田が教室から離れていったのを確認するとアタシたちは息を吐いて体の緊張を解いていく。


「あ、危なかったぁ」

「見つかってたらどうなることかとおもいました」


 とりあえず、事情は先生に説明しないといけない。

 けれど、さすがに相談する先生はアタシたちで選びたい。


「やっぱ、こういうのに柔軟に対応してくれるのって……」

「江上先生とか水沢先生、結崎先生、荒田先生とかかな」

「高城先生なら絶対安牌でしょ」


 クラスのみんなが相談しても大丈夫そうな先生の名前を挙げていく。

 アタシも最初は歩ちゃんに相談しようかと思ったけれど、歩ちゃんとの関係を示唆されるようなことは避けたかった。


「ねえちゃん……」

「なあに?」

「さっきの人……みいちゃんつれていった」

「みいちゃんって、あの子も来てたの? っていうか、連れていかれたって」


 画ずらが完全に犯罪だ。


「なら、ゴリ田にはバレてるってこと?」

「うーわ、最悪~」


 外見のわりに神経質なゴリ田だ。こんなことがばれたら絶対に何かしら叱られる。けれど――、


「………しょーがないから、アタシが謝って探してくるよ」

「でも、事情を話せば」

「ウチの弟が迷惑かけたのは変わりないから」


 みいちゃんは結構気が弱いし、泣いているかもしれない。

 ゴリ田に事情を話して陽太たちを職員室で預かってもらうように頼んでみよう。アタシはこの子のお姉ちゃんだから。


 席を立って、ゴリ田の後を追いかけるために教室のドアに手をかけようとした時だった。


「……観月、どうした?」

「あ、歩ちゃん……って、その子!」

「ああ、ちょうどお前に説明したいことがあったから……なんだここに居たのか」


 歩ちゃんの腕の中には探しに行こうと思っていたみいちゃんがいた。


 ◆


 俺は陽太たちを探すために校内を探索することにした。

 だが、みいちゃんは職員室で1人待っていることを嫌がったので抱きながら校内を探索することになっていた。


 とりあえず、危険物がある部屋の施錠を確認すると、まずは観月に事情を説明するために1組へと向かったのだが、席の後方に陽太たちを見つけて探す手間が省けた。


「その子、どこにいたの?」

「職員室で預かってたんだよ。それで、他の子もいるって聞かされて……陽太も来てるって聞いたからな。伝えようかと思って」


 陽太の件は観月にしか聞こえないように小声で話した。


「ありがと。なら、この子たちのことをまかせても大丈夫?」

「両親に電話をかけて迎えに来てもらう」


 本当は送り届けてもいいのだが、個人情報など厳しいこのご時世、余計なことはしない方が無難だ。この子たちの親御さんにはお休みのところ申し訳ないが迎えに来てもらおう。


「陽太はアタシが連れて帰るよ」

「ん、頼む」


 だが、授業が終わるまでは職員室にいてもらわなければならない。

 俺が一声かけると子供たちはすんなりと俺の方へと来てくれた。


「あのねー。ソルジャーライダーのかいじんがいたー」


 陽太の友達であるレオ君が俺にそんなことを言う。


「怪人?」

「あれですよ。ゴリ田です」

「ああ、剛田先生か」


 皆口さんがゴリ田といって剛田先生がすぐさま連想できてしまった。


「でも、先生ってこの子たちのこと知ってるんですか?」

「ま、まあね」


 ふつうにこの子たちと話していたがここは学校で俺と観月の関係を知らない人の方が圧倒的に多い。


「陽太の兄ちゃん! すごくサッカーがうまいんだよ!」


 レオ君がキラキラした目で俺を見てくる。声も結構大きい。レオ君は俺が陽太の兄貴だと勘違いしている。


「ん? 陽太の兄ちゃん?」

「高城先生のこと?」


 レオ君の言葉に引っ掛かりを覚えた生徒は何人かいるみたいだった。


「よっし、じゃあ職員室にいこうか!」


 これ以上余計なことを言う前に俺はレオ君を小脇に抱えると逃げるように教室を後にした。




 職員室に子供たちを連れていくと来客室を使ってもいいといわれ、俺はそこで子供たちの面倒を見ることになった。

 子どもたちから連絡先を聞いておいたので保護者さんへの連絡は江上先生の方からしてくれるそうだ。来客室のちょっと豪華な内装に子供たちは興味を持ったようだった。


「それにしても、よくここまでこれたな」


 バスも使わず徒歩で学園まで来たという事実に、俺は怒る以前に陽太たちの行動力に感心してしまった。


「うん! みんなで来たのー」

「危ないからもうダメだぞ」

「はーい」


 本当にわかったのだろうか。

 笑い、両手を伸ばしてきたのでそのまま抱っこをしてやる。

 机の上には江上先生からの差し入れであるお菓子が置かれているので、それに手を伸ばすとお菓子を半分に割り陽太に与える。

 陽太は昔から俺の食べているものなど真似をしたがる。嫌いだった野菜の類も俺が食べているのを見ていると同じように食べるようになったので大家さんからは感謝されていた。


「みんなも、食べていいよ」


 子どもたちが羨ましそうに見ていたので俺がお菓子を勧めると手を伸ばし始める。


 お菓子を食べていると、保護者の方々が迎えにきた。


「本当にすいませんでした! 学校で遊ぶとは聞いてはいたんですがまさかこちらの学園に来ているなんて思ってもなくて」


 申し訳なさそうに頭を下げるのはみいちゃんのお母さんだった。幼稚園で陽太を迎えに行く時に何度か話したことがあるので顔を覚えていたが向こうも覚えていてくれたようだ。


「こちらでも注意させてもらったのであまり叱らないであげてくださいね」


 みいちゃんのお母さんは何度もペコペコと頭を下げながら来客室から去っていく。

 その後も向かえが来られて見送っていく。


 陽太は観月と一緒に帰るので一緒に来客室で待機している。だが、1時間もするとさすがにすることがなくなってきたのか暇になってきたようだった。授業は残っているから観月の迎えはまだだろう。


「……散歩にでも行くか?」

「うん!」


 俺の提案に陽太は嬉しそうに応える。


「よし! なら、肩車してやる」


 俺は陽太を肩車すると頭をぶつけないようにかがみながら来客室を出ていく。

 職員室には授業の担当ではない先生たちが俺の方を見る。


「ちょっと、この子を連れて散歩に行ってきます」

「いってきま~す」


 先生たちが微笑ましいものを見る目で俺たちを見送り俺は職員室を後にした。


 ◆

 観月


 ――陽太、大丈夫かな。


 陽太には歩ちゃんが付いていてくれるので安心はしている。あの子が歩ちゃんに迷惑をかけていないかが心配。


「沢詩さん」

「え? はい!」

「弟くんのことが心配なのはわかるけど、次の問題を解いてくれる?」

「あ、はい! すいません」


 クスクスとアタシを笑う声が聞こえてくる。

 もぉ~はずかしいなぁ……。


「……………だと、思います」


 先生に指示された問題を解く。今日の授業のほとんどはテストのための復習ということで授業をしてくれているから勉強している範囲で助かった。


「うん、正解ね。でもちゃんと授業は聞くようにね。心ここにあらずって顔してたわよ」

「う……」


 アタシは席に座ると、息を吐いた。

 今のところテスト勉強の成果か授業にもついていけている。

 アタシはもう一度先生の言葉に耳を傾けた。


 ◆


 陽太を連れて校舎内を歩く。

 勉強の邪魔にならないように時折、教室の後ろの窓から中を見せてやる。


「勉強ばっかり」

「そりゃ、学校だからな。文化祭みたいなことが毎日起きてるわけじゃない」

「むー……だってお姉ちゃん毎日楽しそうだったから」


 陽太にとって高校とは文化祭のような出来事が毎日のようにあるところを想像していたようだ。


「観月は毎日楽しそうに学校に行くのか?」

「うん。今日は楽しかったって!」

「そっか」


 中学は登校拒否気味だった観月からそんな言葉が出てると。

 あいつにとって学園が楽しい物であってくれるならそれは何よりだ。


「陽太も大きくなったら、ここに通うか?」

「うん! その時は歩兄ちゃんが先生になってね」

「ああ」


 そんな他愛もない約束をしていると校内にチャイムが鳴り響く。

 これで今日の授業がすべて終わった。観月のところに陽太を送り届けよう。


 SHRが始まるまでには教員が移動するための時間や生徒が休憩するために時間が設けられている。当然、俺が教室に行くまでには幾人もの生徒とすれ違う。


「え? その子誰!?」

「高城先生の子供!?」

「んなわけあるか」


 子供を連れているだけでどうして俺の子供ということになるんだ。

 俺は生徒に呼び掛けられるが、歩みを止めずそのまま教室へと向かう。


「あ、高城先生」

「水沢先生、お疲れ様です」

「あれ? その子は」


 今日は水沢先生は授業で忙しかったはずだ。

 だから、陽太たちの事情をまだ聴いていないのかもしれない。


「花火大会の時の子ですよね。高城先生の近所に住んでいるっていう」


 あ、そういえば、花火大会の時に水沢先生にはそう紹介していたんだった。


「ええ、学園で今日も文化祭があると勘違いしてしまいまして」

「そうだったんですか。私は水沢海優といいます。よろしくね」

「う……」


 陽太は照れて俺の頭に顔を隠す。

 水沢先生は、面白がって陽太の顔を見ようとグッと俺の方に顔を近づけてくる。そのため必要以上に距離が近づく。水沢先生の綺麗な顔が俺の方へと寄ってくるのでちょっとドキドキした。


「歩ちゃん、陽太!」


 俺の後方から観月が俺たちに声をかける。

 陽太は肩車から降りると観月の方へと向かうとぎゅっと観月にしがみつく。


「歩ちゃん、ありがとね。陽太の面倒見てくれて」

「いいよ。おとなしかったし、慣れたもんだ」

「あの……高城先生」

「はい?」


 水沢先生は少し不思議そうに俺たちを見ている。


「高城先生の近所の家の子供なんですよね。その子、沢詩さんのことをお姉ちゃんって……」


 水沢先生にそんなことを言われてはっとした。

 俺と観月は互いに顔を見合わせて青くする。さっきの一瞬だけだが水沢先生のことが完全に頭から抜け出ていていた。


「ど、どーすんの?」


 ひそひそと俺と観月はこの事態をどう乗り切るか話し合う。


「いや、もう正直に話すしかないだろ……別にやましい関係ってわけじゃないんだし」

「あ……ふーん。なら歩ちゃんに全部任せてもいいんだね?」


 観月からやや不満そうなオーラが漂う。なんでそんなに不機嫌になる。

 事実、別に俺と観月は何もやましい関係ではない。まあ普通の関係とも言い切ることはできないんだけど。

 観月はSHRが始まる前に先に教室へ戻ってもらう。


 たまたま近所に教え子が住んでいて、その家族とちょっと顔見知り……というだけだ。下手に誤魔化してしまうと余計に事態がややこしくなりそうだ。

 それに、相手は水沢先生だ。人柄的に秘密を他人に軽々しく話したりはしないだろう。


 俺と観月の家の関係を水沢先生にはすべて話すことにした。


 ◆

 海優


 私は職員室に戻る道すがら高城先生から沢詩さんとの関係のことを聞いていた。陽太くんは先生におんぶされていてご機嫌な様子だ。


「……と、いうわけで観月の母親である大家さんにはお世話になっていて、その過程でこの姉弟とは知り合いなんです」

「……そうなんですね」


 なんだろう。

 聞けばただの大家さんの家族との助け合いの話なのに、私の心には少し焦りのようなものがあった。

 きっと、高城先生は覚えていない。昨日の飲み会の時高城先生が何を言ったのかを……。

 これは座間先生も結崎先生も知らない私だけが知っていること。


――生徒から交際を申し込まれたって……。

 

 先生は現状は誰かと付き合っていることないと思う。けれども渡した知っているのは高城先生の一面だけだ。私は先生の家の住所も好きな食べ物もあまり知らない。


「高城先生、ほ……」


 ――本当にそれだけの関係ですか?


 何て言葉が出そうになったけれど、私はその続きを聞くことができなかった。

 私がどんな答えを望んでいるのか、自分でもわからなかったから。


 私は学園での高城先生しか知らない。

 私と高城先生の関係は決して悪い物ではないはず。

 けれども、特別に仲がいいという関係ではない。先輩教師と後輩教師……ただそれだけの関係だ。


 以前、結崎先生が言っていた『高城先生は競争率高いから多少は強引に行かないとダメね』という言葉がなぜか脳内に何度も再生される。その所為で私の中の焦燥感は消えてはくれなかった。



 だから、私は後先も考えずこんなことを言ってしまったんだろう。


「高城先生……」

「はい?」

「……12月24日なんですけど、空いてましたら付き合ってくれませんか?」


 私は生まれて初めてデートというものに誘っていた。

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