その後のこと

 見上げれば、見知らぬ……ではなく、よく知っている部屋の天井だった。僕の部屋だ。横たわっている硬いマットレスはいつものようにちょうど良く僕の体にフィットしていた。軽く目を動かしてみると、皺が擦り寄っているような柄の壁紙、四隅あたりには濃い染みが広がっているのが見えた。


「おう、目覚めたか。浩輝」


 頭上から降りかかる一つの声。これは、叔父さんのものだ。なんだか久しぶりだな。


「おはよう、叔父さん」

「もう夜もいいとこだっての。お前、全然寝返り一つしないから心配したぜ」


 すぱ、と吸いかけだったらしいタバコを口にくわえる叔父さん。


「やめてよ。人の部屋で」

「俺が貸してやってる部屋だろうが。大体、お前もいっちょ前に吸ってやがるんだからいいじゃねえか。お前もどうだ? 目覚めの一本ほどの至高はないんだぜ?」


 関係ない話になるのだが、僕の口調は両親のものよりも叔父さんに似ているとよく言われる。僕自身、確かにそう思っていた。良くも悪くも、僕はこの人に多大なる影響を受けて生きてきたのだ。


「今……何日?」


 そんな疑問が湧くほどに、よく寝ていたという感覚があった。


「二十日だ」

「いや……そうじゃなくて。いや、そうなんだけど。僕、どのくらい寝てたの?」


 ゆっくりと起き上がろうとすると、肘に釘を打たれたような痛みを感じて、再び僕は布団に倒れこんだ。


「腕、まだ動かすなよ。点滴打ってんだ」

「点滴……」


 見れば、確かに僕の肘の内側には大きな針が刺さっていた。そこから伸びるチューブの先には栄養剤と生理食塩水のパックが繋がっていた。


 僕は点滴が嫌いだ。長くベッドに拘束されることもそうだが、まるで血管を一つ抜き出されたような感覚がして、気持ち悪くなってしまう。これは幼い頃からのものだ。


「お前、あの地震の日から三日間寝たままだったんだぞ。あちこちのツテを頼って診てもらったが、良かったな。外傷はないらしい。慣れないことして疲れたんだろ、はは」


 息子も同然の僕の意識がなくなって、そんな風に笑えるのなんて、僕は叔父さんしか知らない。


「慣れないことって……。ああ、そうか。僕は綾瀬を抱えたまま……そうだ、綾瀬は!?」


 今度は腕を曲げないように気をつけながら起き上がった。叔父さんと目が合う前に、伸ばされた髭に目が行く。不潔に見えるからしっかり剃れと普段から言ってるのにこの人は、全く。それでいて妙にキマっているからなおさら腹が立つ。


「おいおい、無茶するんじゃねえよ」

「僕が倒れた時、一緒に女の子がいたろ? 知らない? 叔父さん」

「聞いたよ。なんだ、武勇伝か何かか? それに抱えたままって、お前女の子一人支えられずに押しつぶされてたって話題になってるぜ。はっ、情けねえなあ」

「そ、そんなことどうでもいいんだよ! 無事かどうか聞いてるんだ!」

「それが育ての親に対しての言葉遣いか? ったく、誰に似たんだか……」


 叔父さんは僕の意図が分かっているだろうに、もったいつけるようにわざとらしく肩をすくめてみせる。


「……あの子なら、うちの外科へ搬送されてきたぜ。お前よりも早く目を覚まして、今日家に帰っていったところだよ」


 そうか……良かった。本当に良かった。僕のしたことは、無駄ではなかったのだ。


「何か、言ってた?」

「……」


 叔父さんは何も答えない。今回ばかりは悪ふざけじゃなさそうだ。


「俺ぁ担当医じゃないからな。正直、あの子をよく知らん。だからよく分からんと言うしかない。まあ、色々言ってたぜ。面識もほとんどない俺にまでしっかり頭を下げて行ったよ。今時珍しい、礼儀正しい子だな」

「ええと、じゃあ、誰か事情を知ってる人は残ってないの?」

「今日はちょうど冬川の奴が宿直だぜ。歩けるなら行って来い。ま、ここ三日連続だけどな」

「そっか、分かった……って三日連続? 冬川さんなんか悪いことでもしたの?」


 叔父さんは露骨に眉をしかめて馬鹿野郎、と僕の頭を小突いた。


「自分から願い出たんだ。お前が目覚めるまで待ってるって、そう言ってたぞ。あいつは。お前ら、仲が良いとは思ってたが。随分心配してたぜ、あいつは」


 それを聞いて、僕はすぐにでも彼の元に行こうとしたが、叔父さんに点滴が終わるまでは待て、と止められてしまった。


「点滴くらい、自分で抜けんだろ。俺は帰るわ。ここ数日、働きっぱなしなんだ……。じゃあな、浩輝。ああ、そうだ。俺の車の修理代は、小遣いからさっぴくからな」


 ぐ、それは痛い。やはりあの日乱暴な運転をしたからだろうか。車の修理代なんて検討もつかないけど、いくらになるんだろう……。


 僕はそれ以上考えないようにして、枕元にあったスマホを手に取った。充電が切れてしまっていたのか、電源はついていなかった。


 充電コードにしっかりと差して待つこと数分。見慣れたデフォルメされた熊の待ち受け画面が表示される。待ち受け画面が熊なのについては別に大した理由はない。ただなんとなく、ずっとこの画像を使っている。変えるのも面倒だしな。


「うわー、すげえ通知来てる」


 スクロールするのも面倒なほど膨大な量のメッセージや着信が並んでいた。まあ、大きな地震から連絡がつかなければ心配もさせるか。


「綾瀬からは……何もない。……。えっ、何もない?」


 心が動揺するのを感じる。だって、僕としては決死の思いで助けに行って未来を犠牲にしてでもその命を救ったつもりだ。その彼女から、何の連絡もないなんて……。


 もしかしたら、彼女はまだそんな状況にないのかも……いや、それはないな。叔父さんも綾瀬はちゃんと退院して帰っていったって言ってたし。


 となると……。もしかして、あの時彼女は本当に意識なんてなくてまだ怒っているままなのだろうか。にわかに不安になってきた。


 いや、あのゲームの真相を知らないのはいい。そんなものは知らなくていい。だけど、怒らせたままというのがまずい。


 僕はとっとと点滴の針を抜いて、即座に駆け出そうとして……すっころんでしまった。三日間寝たきりだったのなら、体もなまっているか、そりゃ。


 反省を踏まえて僕は足元のナイトライトが光っているだけの廊下をゆっくりと歩いた。病院という場所は実にバリアフリーな場所で、僕はありがたく思った。


「冬川さん……」


 そして、宿直室へたどりついた頃には数日間眠っていたせいか、僕はすっかりヘトヘトになっていた。冬川さんは僕の顔を見るや否や慌てて椅子を用意してくれた。


「浩輝、もう大丈夫なのか」

「ええ。さっき起きたばかりですけどね。ご心配をおかけしました。なんでも僕のことを心配して残ってくださっていたとか」

「それだけじゃないけどな。あの地震の被災者はまあ少なくなくてな。うちは精神科以外も入ってるから大忙しだったよ」

「まあ、知ってますよ。自分の叔父の病院ですから」

「ああ……そりゃそうか」


 やっぱりこの人、どこか抜けているな。だが僕はむしろそのいつもどおりの対処に少し落ち着いた。依然のように酔っ払っていたらどうしようかと思ったのだ。


「それで、綾瀬ですけど」

「うん……それなんだがな、すまなかった」


 振り向き様に、冬川さんは僕に向かって頭を下げる。突然のことに僕は思わず座ったまま飛び跳ねてしまった。


「もしかして、あいつ……」

「ん、ああいや。そうじゃない。この間のことだ。その、あー、俺も酔っててな。よく覚えてないんだが。その、殴ったらしいじゃないか。お前のことを」

「蹴りもいただきましたね」

「すまなかった!」


 直前まで叔父さんと話していたせいか、少し意地悪な物言いになってしまった。なんにしろ、年長者に頭を下げられたままというのも落ち着かない。


「いいんです、酒のせいじゃないですか。それに、僕にも非がありましたし、仕方ありませんよ」


 そうあっさり許せてしまったことに、僕自身が少し驚いた。彼もまた、僕の大嫌いな痛みの使徒であるはずなのに……。ちっとも憎いなんて感情は湧いてこなかった。


 なぜかと問われれば、それはきっと彼が本気だったからだ。僕に痛みを与えるのが目的ではなく、言葉では伝わらない何かを紡ぐためにそうしたのだと直感で分かっていたからだと思う。


 実際、いいキッカケだった。彼との問答がなければ、僕はきっと綾瀬を見捨ててしまっていた。僕の中にあった気持ちに向き合わなければ、あの時僕は動けやしなかっただろうから。


「そうか……相変わらず、懐が広いんだな。お前は」

「そんなことないですよ。僕なんてちっぽけなもんだって、痛感させられる日々ですよ」


 そう、どんなに大人ぶっていても、僕はまだまだ周りの見えていない子供のままなのだ。歳を取るだけで大人になっていけるなら、どれだけ良かったか。


「それより、綾瀬です。冬川さん、あいつは大丈夫だったんですか?」

「彼女なら……検診を受けて帰っていったぞ?」

「検診? 治療じゃなかったんですか?」

「あいつはどこにも怪我なんてしていなかったし、意識もしっかりしていたからな。とは言っても崩落した建物の中で気絶していたって言うんだから、最低限の検査は受けさせたんだ」

「そう、ですか……元気だったんですね」


 だったらなおさら、どうして僕に連絡をくれないのだろう。この際だ、僕に引け目を感じているらしい冬川さんの弱みに付け込んでみよう。


「綾瀬は何か言ってませんでしたか? その、僕がどうだとか、今どんな気持ちだとか」

「えー、ううん……。いくらお前と言っても患者のプライバシーはな……」

「あいた、あいたたた。お腹が痛い! 冬川さんに蹴られた場所が特に痛い!」

「分かった、分かったから……すまなかったよ。じゃあ、一つだけ答えてやろう」


 冬川さんは困ったような表情を作りながら、どこか笑みを含ませて言った。


「私は今、最高の不幸せと最低の幸せにいます、だってよ」

「……それだけ、ですか?」

「全部言っちまったらつまら、おっと、プライバシーの侵害だろ。とにかく無事だ。お前のことも心配してたぞ。なんせ自分を庇った奴が倒れたなんて聞いたら、そりゃそうだろうけどな」


 庇った……庇ったことになるのだろうか。僕は少しだけ首をかしげた。


「ん? 違ったか? お前が崩れた床に埋まってた桃華を助けてグラウンドまで運んだって聞いているが……。二人とも無傷でよかったよ。ま、桃華の重さで潰れたって話は笑ったがな」


 そうか、そういう認識になるのか。それはまあなんというか、確かに非常に情けない話だ。


「さ、俺も仕事があるしお前も寝直せよな。その調子じゃ、しばらくは学校も行けないかもな」

「学校……あんな騒ぎがあったのに、ですか?」

「桃華が言うには、あんな騒ぎがあったからこそ、らしいぞ。詳しいことはお友達に聞くんだな」


 冬川さんはそう言うと、僕を追い出そうとして、慌てて「支えはいるか?」と聞いていた。僕は思わず噴き出してしまい、取り繕うように遠慮した。

そうだな……恋塚なら、まだ起きているだろう。電話をかけてみよう。

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