学校での君

 昼休み開始のベルが鳴った。誰も彼もが絡まっていた網から逃れるように息をつく。少しぼんやりとしている間に教室からは半分ほどの学生がいなくなっていた。残りは各自で机をくっつけながら持参した弁当をつつくようだ。


 そんな、どこにでもある普通の食事風景が僕には新鮮で、毎日この時間になるとぼうっと眺めてしまうのだ。


「……」


 しかしその日は、僕はじっと一つの席を眺めていた。そこに座るのは、窓から差し込む日差しを浴びて輝く金髪を風になびかせている一人の少女。綾瀬桃華だ。新学期当初こそ、クラスの大半が物珍しげに注目していたものだ。廊下からも覗きにくる人が多かったのには笑ってしまった。


「オッサン、今日の飯は?」


 ガタガタと音を立てながら恋塚が僕のそばへやってくる。


「いい加減自分で弁当くらい持って来いよ。それか購買行け」

「やだね、あんな人の多いとこ。オッサンの飯のがうめーし」


 以前、どうしても理科が苦手な僕は恋塚に教鞭を取ってもらったことがある。腹立たしいことにこの男、イケメンであり勉強もできるのだ。それに人に教えるのが抜群に上手い。少しでも引っかかる箇所があると逃さず丁寧に教えてくれるのだ。


「なんだよ、今日の数学のヤマも当てたろ? 予想屋だってタダじゃないんだぜ」

「……まあいいけどさ。どうせ多めに作ってきたし」


 しかも緊急のテストでも見事に出そうな範囲をピタリと当ててくるのだ。僕の中では恋塚は教師の弱みを握っているか恋塚自身がテストを作っていることになっている。


 男二人で一つの弁当箱を食べ終わり、一息ついているときにふと思い出して恋塚に問うてみた。


「そうだ、恋塚。可愛い子探してるって言ったろ」

「あん? ああ……そんなこともあったっけ」

「言ったよ。ほら、フレチューの時さ」


 恋塚は若干の間を空けて、ああ、と頷いた。


「オッサンよく覚えてんな。冗談だろあんなの」

「暇なんだよ、学校生活ってさ。だから僕なりに楽しみ方を考えてるってわけさ」

「……で、ストーキングか。すげえなオッサン」

「違うよ!」


 失礼な発言に憤慨してみせると、カラカラと楽しそうに恋塚は笑っていた。


「で? 誰かいたわけ?」

「ほら、あそこ」


 僕はそっと綾瀬のほうを目で示す。実際、彼女は誰の目から見ても美少女だ。日本人離れした外見も相まってどこに立っても絵になる。


 これをダメだと言われたらもう僕の感性か恋塚の目のどちらかがおかしいということになる。


「あー……。あいつかあ」

「声でけえよ馬鹿」


 別に陰口を叩いてるわけじゃないが、噂話が聞こえてくるというのも気持ちのいい話じゃない。幸い綾瀬の様子に変化は見られなかった。


「まあ、可愛いよな」

「お、今度こそ恋塚さんのお眼鏡にかなったかな?」

「そりゃな。アイドルも顔負けって奴だろ、あいつこそ。流石に俺も降参するわ」

「そうだろう、そうだろう」

「なんでオッサンが得意げなんだよ」


 特に理由はない。


「それで? 入学早々、十人切りを達成した恋塚さんとしてはどうですかね?」

「言い方考えろ、言い方」


 恋塚の目立つ外見と口の悪さは疾風のごときスピードで校内に広がっていた。それでも、と告白してくる子は既に両手の指では足りないらしい。その全てをバッサリ断ったというのだから、大した話だ。


「なんせあっちは三十人切りだからなあ」


 恋塚がポツリとそう呟く。そう、綾瀬桃華は恋塚以上に目立っていたためか、そういった目的で声をかけにくる男子は大勢いた。手の早い連中はもう軒並み玉砕済みだとか。


 そんな話がどう伝わったのか、男子からは不落の巨城、高嶺の花として有名になった。そして、女子からは……オブラートに包んで言うなら、お高い女として距離を置かれてしまっているらしい。


 出来上がったのが、窓辺に一人佇む綾瀬、というわけだ。


「声かけにいってみれば? 恋塚ならいけるかもよ」


 だからこれはチャンスだと思ったのだ。似たような境遇にある二人なら、上手くやれるんじゃないかと。


「んー、俺はいいや」


 だというのに、恋塚はそんな僕の計らいを一蹴する。思わず体をくの字に曲げてしまった。


「なんでだよ!」

「いや、そう言われても……明らかにやべーだろ」

「何がヤバイんだよ」

「嫌だもん、俺。話しかけに行って無視でもされたら。恋塚智也、綾瀬桃華に玉砕! とか一面に記事飾っちゃうぜ」

「誰もそんなにお前のこと気にしてねえよ。自意識過剰か」

「自意識過剰!」


 何がおかしいのか、恋塚はまたケラケラと笑った。


 ふと視線を感じて顔ごと向けると、チラチラと綾瀬がこっちの様子を窺っているのが見えた。


 あちゃあ、さすがに聞こえたか。と僕は肩をすくめると恋塚は何かを思い出したように立ち上がった。


「あー、まだ食いたりねえわ。購買行ってこよっと」


 逃げたな、あいつ。僕が呆気に取られている間にさっさと恋塚は教室を出て行ってしまった。


 ふう、と軽く息を吐くと僕は綾瀬の席まで歩いていった。


「……悪かったよ」

「何が?」


 声に怒気が乗せられている。やはり本人のいる真後ろでこそこそ喋っているのはよくなかったか。


「別に陰口なんかじゃないんだぜ。ただ友達の一人くらい欲しいだろうと思って、心遣いさ」

「友達って、あのチャラそうな人を? 大島さん、相変わらずお節介。私、別に頼んでないんだけど」


 ついに視線まで合わせないように目をつぶってしまった。


「おいおい、見た目で判断するなんてらしくないじゃないか」

「見た目っていうか……あれはどう見ても……。それに男だしなあ……。でも、それはそうだね。そこはごめんだね」


 謝りつつも、まだ許す気にはならないらしい。相変わらず、つーんとそっぽを向いたままだ。


「なあ、僕こそごめんって。勝手なことしてさ。頼むから機嫌を直してくれよ」

「大島さんには関係ないことなんじゃなーい? 勝手に私のこと売るくらいなんだから。私ってばヤベー奴なんだから」

「売るって……言い方よ」


 思わず小さく噴き出してしまった。それがまた癇にさわったのか、形のいい眉がつり上がる。そして、ヤバイと思った次の瞬間には、綾瀬は大きく息を吸って虚空に向かって大声を張り上げていた。


「あー、もう! しつこいですね! あなたとお付き合いする気はありません!」


 瞬間、周囲の目が僕に突き刺さるのを感じた。そして始まる囁きの連続。


「こいつ!」

「あいたっ!」


 僕は大いに焦って、綾瀬の金髪を撫でるように、いや大分強めに叩いてしまった。

それが余計にまずかったか、囁き声は大きくなる一方だった。


「あーあ、大島さんもこのクラスに居辛くなっちゃったね?」


 ぺろ、と真っ赤な舌を唇からのぞかせる綾瀬。こいつ、憂さ晴らしついでに僕に八つ当たりしやがったな!


「行こ。どっか人のいない所」

「なんでだよ……そんなの勝手に」

「あー! あー! やめてください! 乱暴にしないで!」

「分かった! 分かったから黙ろうか綾瀬!」


 こうなったら言葉通りに乱暴でもいい、一刻も早くこいつを外に連れ出さないと! さもないと僕の評判がまた悪くなってしまう!


 握ったのが制服に包まれた二の腕あたりだったことが幸いしてか、能力の発動はなかった。


「きゃー、連れてかれるー」


 もはや綾瀬は楽しそうな様子を隠そうともしない。笑い声を上げながら素直に僕の後ろをついて来た。


 その時、ふと思いついて彼女の手にそっと触れてみた。今こんなに笑っているなら、調子はいいのだろうか、というちょっとした思いつきだった。


 しかし、返事は骨が割れるような強烈な痛みだった。思わず悲鳴を上げそうになってしまう。


「ん、どうしたの。大島さん」


 綾瀬は気にするそぶりも見せない。だが僕の能力に今まで間違いはなかった。こうしている今も綾瀬には壮絶な痛みがあるはずなのだ。


 なのに、どうしてこの少女は笑っていられるのだろうか。


 正直に言おう。その時僕の脳裏によぎったのは、おぞましさだった。心配でもなく、感心でもなく恐怖だった。急に目の前にいる少女が化け物めいて見えた。それはまるで、返り血を浴びたまま白昼堂々と歩いているような。


「……いや、行こう」


 綾瀬桃華。彼女は未だ痛みの中にいる。僕の大嫌いな痛みの中に。確かにヤベー奴かもしれない。極力接触は避けたほうがいいだろうか。


 僕のそんな考えも知らず、綾瀬は鼻歌を歌いながらとことこと歩いていた。目指す先はどこがいいだろうか。やはり、学校の中で人気のない場所といえば、あそこか。




「ふう、やっと人目を気にしなくていい所に……」

「大島さん、こんなとこに女の子を連れてきて何するつもり?」

「お前が連れて行けって言ったんだろうが!」


 本当、ニマニマと笑うその顔をぶん殴ってやりたい気分だった。しかし、その美貌はどんなに憎たらしくても、とても壊そうだなんて思えるものじゃない。僕は素直に拳をしまうのだった。


 僕らが今いるのは、旧校舎の裏庭だ。旧校舎には、今はもう小規模の文化部の部室しかなくなっているようで、放課後以外には訪れる人もいないらしい。


 あまり手入れのされていないそこは緑の繁殖力たくましく、もはや土の見える箇所のほうが少なくなっている。


「大体、学校じゃなるべく話しかけるなって言ったのは綾瀬だろ」

「だって私一人の力でどこまでやれるか試したかったんだもーん……」


 その可愛い顔から笑みが消え、とたんに寂しそうに口をすぼめる。


 綾瀬の言うことも分からない話じゃない。綾瀬も僕と同様、これまで学校生活を思うように過ごせなかった人間だ。それは長期に亘る病院通いのせいだった。綾瀬が今孤立しているのも、噂のせいだけじゃなく彼女自身のコミュニケーション能力の不足にも問題があったのかもしれない。


「でも、どうせ大島さんお節介焼くし。別に離れてる意味もないかなって思ったの」

「なんだよ、その言い方……。僕は別にね」

「はいはい、分かってる。大島さんは優しいんだもんね」


 そうやってはぐらかすのは、綾瀬の悪い癖だ。思えばそんなことも分かる程度の付き合いになるのかと、感慨深くもあった。


「……でも、嬉しかったよ。私を連れ出してくれて。教室っていうの、なんだか慣れなくてしんどかったから。どんな顔していればいいのか分からなかったから」

「別に、普通にしていたらいいんじゃないのか」

「私、普通って分からないの」


 そういえばそうだった。彼女もまた、平凡ではない人生を送ってきた一人だった。僕は初めて彼女と会ったときのことを思い出そうとして、もう覚えていないことに気がついた。


「そうだな……。もう三年くらいになるのか」

「えっ?」

「僕と綾瀬が初めて会ってからだよ。そう頻繁に会うわけじゃなかったからそんな感覚はないけど、僕の知り合いの中では長い付き合いだなと思ってさ」

「大島さん、友達いないの?」

「うるさいな、お前もだろ」


 ため息と共に、右手をポケットに入れてそこに何もないことに気がついた。そうだ、学校にいるからタバコは持ち歩かないようにしているんだった。ニコチン中毒には辛いが、校則は校則なのだ。


 しかし、どこかにしまってあったはずだが……と、胸元をまさぐる僕に綾瀬はちょんちょん、と肩をつついてきた。


「これ、あげよっか?」


 綾瀬が白い箱を僕に差し出してきた。見てみれば、タバコのようだった。


「ああ、さんきゅ」


 もしかして僕のために用意してくれたのだろうか。いや、綾瀬ではタバコは買えないはずだが……。とりあえず口にくわえてみると、カリッと心地よい感触で口の中で砕けていった。そして遅れてくるラムネのような味。


「あはは、タバコの代わりにこれで我慢だね」


 ココアシガレットか。随分懐かしいものを持ってきたものだ。


「……意外と悪くないな」

「あれ、そうなんだ。もしかしてこれで禁煙できちゃう?」

「いや、代替品にはならんけどさ。普通においしい」

「なんだ、つまんないの」


 綾瀬も一本ココアシガレットを取り出してポリポリと食べ始める。こうしてみると綾瀬も案外タバコが似合うのかもしれないと思った。勧める気は全くないが。


 しばし、二人でココアシガレットを味わう無言の間が生まれた。そして、ぽつりと綾瀬が言う。


「……五年だよ」

「え?」

「私が大島さんを知ってから、もう五年になるよ」

「あれ、そうだっけか。もう時間の感覚分かんなくなってきてるのかな」


 いくらなんでも、僕はまだ二十歳ちょっとだ。ボケは始まってないはずだが……。虚空に視線を泳がせる僕を見て綾瀬はくすぐったそうに笑った。


「大島さん、有名だったから。あの病院で。あの子に看護してもらうと楽になるってさ」

「ああ……そんなウワサが流れてたのか。別に特別なことはしてないんだけどな」


 やって来る患者の関節痛くらいは治したかもしれないが。


 そう、僕の能力について一つ注釈を加えるならこれだろう。僕の能力は、触れた相手の痛みを自分に移すというものだが、心の痛みまでは取れないのだ。だから精神科を主とする叔父の病院では能力の発動が少なくて僕も働きやすかった。


 訪れる患者は腰が痛いくらいはあるかもしれないが、少なくとも内蔵を削られるような痛みは体感しなくて良かったからだ。


 それに、自分の特殊能力で人を治すというのはあまり気持ちのいいものではない。だから僕は自分で努力して患者の助けになろうとしてきた。薬の処方も診察もできやしないからこそ、どうにか他のことで助けになってあげようと奮闘したのだ。


 それが今でもあの病院で手伝いを続けている理由でもあった。


 ……それでも時々、僕は嫌いなはずのこの力に頼ってしまう。そんな僕の弱さが、僕は嫌いだった。


「あの子だけは、自分の痛みを分かってくれるって。変な先生に当たった人でも、大島さんの看護を受けた人は誰もあの病院に来たことを後悔してなかったよ」

「……なんか、照れくさいな」

「私も、それを聞いてちゃんと病院行くようになったんだもん」


 そうか。……そうか。


 お腹の奥底がじんわりと熱くなる。叔父さんに拾われて、病院の手伝いを続けて……何を目的としていたかはもう覚えていない。だが、自分のしてきたことが報われたのならそれは本当によかったと思う。


「ま、その綾瀬のおかげで僕は学校行くようになったんだけどね」

「えへ、じゃあ、おあいこだ」

「そうだな」


 さっきまでの怒気などもうどこにも見えない、底抜けに明るい笑顔を見せる綾瀬。


「ねえ、学校楽しい?」

「まあ……新鮮かな。綾瀬はどうなんだよ」

「私は、まだ。かな……。友達もできないし……ていうかなんかいつの間にか、みんなグループ作っちゃってるし。はあ……。やっぱフレチュー行きたかったなあ」

「そういえば、なんで来なかったんだ?」

「来なかった、じゃなくて行けなかったの。特別体が痛んでね……。あーあ、あんなイベント一つで決まっちゃうなんてなあ」


 正直それだけじゃないぞ、と思ったが口には出さないでおいた。


「それにしては妙に楽しそうだな」

「えー、そうかな」


 一輪の花を思わせる瞳も心なしか輝いているように見える。小さくつりあがった目尻が踊っているようだ。


「なんか良いことあったのか?」

「んー、ないしょ」

「……無理、してないか」

「無理してるのはいつものことだから」


 ダメだな、この手の話題は。結局いつも肝心なことは教えてもらえずに空気ばかりが重くなっていく。


 僕と綾瀬の学校生活に求めるものは一致していると思っている。それは平凡にも、ただ『楽しい学校生活』だ。しかし、平凡だからこそ、普通とは違う道を歩んでいる僕らには得がたいものだった。


 それを、さらに自分たちで暗くしてしまっては元も子もない。


「学校かあ。どうしたら楽しくなるのかね」

「やっぱ友達じゃない?」

「その点で言えば僕はパスしてるな。恋塚がいるし」

「あのチャラい人ね」

「相変わらず男嫌いだな……。それとも綾瀬、あいつになんか恨みでもあるのか?」


 別に、と綾瀬はそっぽを向いてしまう。


「なあ、ひょっとしてお前、僕にだけ友達ができたからって……」


 そうからかおうとした瞬間だった。遠くから男の悲鳴が聞こえてきた。それには綾瀬も気づいたようで、二人してしばし顔を見合わせた。


「……ちょっと見てくるよ。綾瀬は先に教室に戻ってな」

「え、危ないよ。大島さん」

「大丈夫だよ。ちらっと見てくるだけさ」


 強引に綾瀬を校舎の方へ押し戻すと、振り返ることなく声のしたほうへ向かった。ここで下手に時間を使って万が一があっては困る。幸い、綾瀬は僕の言うことを聞いてくれたようで、背後から土を踏む音が聞こえた。


「さて、この平和な学園生活に何があったのか」


 冗談めかした一人ナレーションは、ちょっと怖じ気づいた自分を奮い立たせるためのものだった。年を重ねたからといって怖いものが怖くなくなるなんてことはない。悲鳴というものは僕らにとって非日常のものだ。


 ……。しかし何故だろう。僕がここで様子を見に行くという決断を下したのは。無視したって良かったはずだ。綾瀬にいい所を見せたかったから? 確かにそれは否定できない。だが、それ以上に行くべきだという強い気配を感じたのだ。


――悪魔が近いの。


 ふと、そんな幼い声を聞いた気がする。幻聴か、と耳を澄ませたところで、また一際大きな悲鳴が聞こえた。いつの間にかずっと近くまで来ていたようだ。視線の先には。


「うるせえよ。ギャーギャーわめくんじゃねえよ」

「なんか最近生意気なんじゃねえの? なあ武志ちゃん?」


 男女混合のグループに囲まれて、一人の男子生徒が地面に這いつくばっているのが見えた。口元に見える赤い血にすっと体の温度が下がるのを感じた。


「ねー、もう飽きたんですけどー。さっさとお昼行こうよー」


 そこには、僕がちょっとだけ贔屓に見ていた木崎さんの姿もあった。そこに少なからずショックを覚える。


 言ってしまえば、よくある光景だった。きっとイジメだろう。いや、こんなことに値する何かをあの男子生徒がやらかしたのかもしれないが、男女のグループからそういう怒りの感情は見受けられない。


 あるのはただ、手慰みに携帯ゲームをするような、冷めた表情のみだ。寒々しい笑みを張り付かせて再び男子生徒の腹を蹴り上げた。

 もう悲鳴も上げられないのか、かすかにその肩が震えているのが見えた。


「誰か……助けて」


 か細い、今にも消え入りそうなささやきが聞こえてくる。


 僕は正義の味方じゃない。その前に現れて連中を成敗するような真似はしない。だが、正義の味方ではないからこそ、殺意にも似た強い怒りを覚えた。


 彼らは痛みを知らないのだろうか。人を殴るとどんな痛みが生じるのか想像できないのか。もしやそれを想像した上で喜んでいるのだろうか。だとしたら、それはもう痛みの使徒とも呼ぶべき、僕の侮蔑する存在だ。


 痛みは危険のシグナル、という言葉がある。だとするならばそれは喜ぶべきことではないのだ。火災警報器が鳴ることがない方がいいように。警報ブザーを引くことがない方がいいように。


 それを許容するならば、彼らはもう放火魔や子供を襲う不審者となんら変わりはない。そのことに気づいているのだろうか。


 僕は痛みが嫌いだ。紙で指先を切る程度の痛みも想像したくないほどだ。だから痛みを与えるものは病であれ暴力であれ大嫌いだ。僕の人生の仇と言ってもいいかもしれない。イジメの現場を見過ごすことはできても、簡単に拳を振るう人でなしだけは見過ごすことができなかった。


 だから、その一歩を踏み出すのに躊躇いはなかった。向かうのは、もちろんまた実に楽しそうな笑い声をあげる集団だ。

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