SCENE5-4≪再演≫
目を覚ますと、どこか見覚えのある天井が視界に広がっていた。
もう
40度を超えるお湯の温度でようやく、冷え切った体が温まる。
体を拭いてドライヤーで髪を乾かし、鏡を見れば死にそうな顔をした青年が一人。気合を入れねばと顔を洗うも。意識はぼんやりとしたままではっきりとしない。
服を着替える。適当に朝食をとる。布団を押し入れに詰め込む。スマートフォンに目を向けるが、特に意味のある情報は流れていない。諦めてテレビのスイッチを押し流れ出る雑音を聞き流す。
そうこうしているうちに時刻は7時半に迫っていて、ルーチンワークに沿って彼は適当に教科書とノートを詰め込んだリュックを片手に外に出る。
やることは何も決まっていないが、悩む理由もない。世界がどうあっても、記憶があやふやであろうと踏み出すための理由はなく、掴むための目標もなく、判断するための心がないのだから。
◇
車窓に目を向けると、タワーマンションが流れて消える。ああ、あそこに後で行かなくちゃと線路を走る単調なリズムの中でぼんやりと思う。車内は通勤時間帯でありながらどこまでもガラガラで、ポツポツと人が座っているのが見えるだけ。
本来なら満員電車とは言わずとも、それなりに。全員が座れない程度には人がいたはずだ。何かがおかしい、けれどそれを調べようとは思えない。どこまでもレールの上を走っていくだけ。
駅の改札を定期券で通り抜け、大学に向かう人の群れに混じる。どこまでも単調に同じことを繰り返し続ける。進歩もなく、発展もなく。ただ講義を受け、意味もなく他人と喋り、なにひとつ残さない。
サーモの中で温められた熱帯魚と同じ。
飼い主がその気になって、コンセントを抜けばそれで終わり。だからといって彼らには外に飛び出す気概どころか発想も存在しない。
「それじゃ、またな」
「ああ、またねー」
一通り講義が終わって、友人と別れる。工学部において彼女のような派手で可愛いタイプは孤立する。成績が良ければなおさらだ。だからこそバイト先が同じというだけで自分のような人間にこうも絡んでくるのである。
まぁ、どうでもいい事だ。
そのまま研究室に向かうが、そこにはもう何もない。無意味な大量の書類だけが積み重なっている。
偏屈だが分かりやすく物事を噛み砕いて説明してくれる教授も、優しかった天然パーマの准教授も、見た目が幼いのに妙に色気のあったオーバードクターの先輩も。もうどこにもいない。
無意味に研究室の中に入って立ち尽くし―― 気付けば夕日が差し込んでいるのに気が付いて。そこでようやく思い出した。教授から頼まれていたことがあると。
勝手知ったるなんとやらで、教授の机を漁れば見覚えのある鍵が出て来た。これならば問題なく家に上がることが出来る。そしてそれをポケットに放り込み何も言わずにカツカツと、研究室を後にする。
駅に入り電車に乗れば無意味な人の群れの密度が減って、再びがらんどうの客車の中から外を見る。降りる駅は自宅よりも3駅前の駅。これもまたルーチンワーク。
ビジネス街のオフィスにはポツリポツリと明かりが灯り、そこで誰かが何かをしているのだろう。誰が、何を? この世界で? 思考を一旦停止し、先に進む。自分には必要のないことなのだから。
そしてたどり着いた見覚えのあるタワーマンション。その小綺麗なエントランスのインターフォンに鍵を突っ込んで回せば、オートロックが解除され自動ドアが開く。
エレベーターで上がって、いつも通りに鍵を開いて玄関に踏み込み、自分が何度も掃除しているリビングルームを見回す。残されたコンビニ弁当の残骸を発見しため息をつきながら。取りあえず本来の目的の前に散らかされた部屋をルーチンワークで片づけた。
そして、そして――
思考が固まる。目的は何だったか。教授からなにを頼まれていたのか。思い出せない。自分は誰かの為に、ここに来たはずなのに。誰に何をするためにやって来たのか思い出すことが出来ない。
「そー君、そー君。大丈夫?」
背後から聞き覚えのある声に振り返る。けれどそこに立っていたのは少女の残骸であった。自分も着ていた学校指定のジャージ。銀髪碧眼の非現実的な組み合わせに加え、更に赤いセルフレームの眼鏡が鮮やかな色合いを加えている。
けれど一番目を引くのは、肌を走る黒いひび割れ。
生理的な、病理的な物ではなく。ただ単純にテクスチャが剥がれている。そんな印象を与えるひび割れが、ジャージの端から零れる手足に走っている。
「それより、俺よりも―― ああくそ、名前がっ!」
「
脳に閃光が走る。ボロボロの記憶がパズルの如く組み合わさり。穴だらけだけれど一応の形を持った絵が仕上がっていく。この少女は間違いなく自分と共に
「思い出せた…… 全部じゃないけど、俺は。教授に…… 広兼を頼むって――」
全てを思い出せなくとも、予想は出来る。彼女は高校の時の同級生で、少なくとも中は良かったのだろう。こうやって家に来て掃除をする程度には。
「もう、やっぱり。苗字まで教えたら名前で呼んでくれないんだね」
「ああ、すまん。そのゆ…… いや、駄目だやっぱり広兼で頼む」
そして、広兼教授と話すようになったのは何時だったか。記憶は定かではないが、この家で顔を知って、大学で出会って会話をするようになり。そして研究室に入り浸るようになった。
その上で偶発的に、R粒子炉に対する適応が高い事が分かり――
「いや、それよりも。広兼! 俺はいったいどうなっているんだ!?」
そこで更に記憶が想起される。
「大丈夫、そー君は死なないから」
どこまでも透明な笑み。けれど手首や足首を這う黒いひび割れの方がずっと強く印象に残る。そして最初は無事だったはずの右手も、黒いひびが走っている。即ちそれが
「ああ、くそ。その代わりに広兼が何か代価を払うってのか?」
「まだ、死なないから平気。それにね、ボクにはそー君に借りがあるから。間違いなく、そー君は忘れてしまっていて、絶対に思い出せないんだけど」
言葉が出ない、記憶は戻らない。ああ、自分の記憶が穴だらけなのはどこかで代価を支払ったからだ。だから、もう戻らない。彼女を好きだと思う気持ちの前に何があったのか。自分は思い出すことが出来ないのだと理解する。
「ボクは怖かった。だからいつだって代価を体で支払ってきた。けどね……」
黒いひび割れに覆われた四肢、それが彼女が支払ってきた代価。それが何を意味するのかは分からないが、
「そー君は戻ってきてくれた。記憶は失われていても、それでも残った何かが、ボクをまた助けて、こうやって滅んだ世界の果て再び巡り合えることが出来た」
「広兼…… 何を、するつもりだ?」
納得は出来ない。自分は彼女を助けたかったはずなのに。それを忘れてしまいただ勝つことだけを考えて。結果として死のうとしているのをのうのうと彼女に救われるのはあまりにもどうしようもない。
「勘違いしないでね、ボクは借りを返すんだよ。だからここでもう一度。そー君の世界を
「待て、時間軸がループしているんじゃないのか? そもそも俺の世界ってどういうことなんだ!?」
広兼の話は抽象的で彼の理解を超えている。けれどこれは理解しなければならない事だと、失われた記憶が叫んでいた。
「ううん、違うよ。あくまでも双方の合意の上で。ボクの
無意識にポケットの中にある装置に手を伸ばす。ああ、時間と無関係に状態を
「そもそも範囲もあやふやで。何がどこまで再起動するかは明言できないんだけど。間違いなくそー君の体は初期状態に戻せるから……」
つまり、以前のような状況を完全に仕切りなおせる訳ではないらしい。だからこそ朝8時にマンションのインターフォンに突撃した時、広兼は本当に来たの?と呟いたのだと理解する。
「他には、何が残る?」
「そー君は、残る。けれどそれ以外は保証できない」
どうやら、
「ああ、つまりこの前みたいに綺麗に戻れるわけじゃないってことか」
「そう、彼も危険度が高い状況を仕切り直したいって思っていたから。半分詐欺みたいな形で合意を成立させたの」
だからこそ、あんな無茶がまかり通ったのだ。その上で量産機2機分のリソースを奪ったのだから。完全な詐欺師の手管以外の何物でもない。
「たぶんあの人は頭が良いからもう通じないし。そもそも今回はこの状況をやり直したいとも思っていないみたいだから」
恐らく外間准教授は自分を殺したことを大きな戦果としている。その上で謎のループや違和感を警戒する。その程度には信用できる相手であって。そんな彼が敵であるという事実がどうしようもなく重い。
「とりあえず、説明すべきことはこれくらい。だと思う…… 」
「ああクソ、どうするつもりなのかちゃんと説明しろ。そうじゃなきゃ俺は絶対この
無表情のまま、彼女は小首をかしげる。
「けどそれじゃ死んじゃうよ、そー君」
「じゃあイエスかノーで教えろ。お前、記憶を代価にするつもりだな」
ようやく彼女の無表情が崩れた。困ったような笑顔が眩しい。
「そー君だって、初めての
「ああ、くそ…… そうか。それなら。全部辻褄があう。な……」
だから自分は記憶を持っていなかった。彼女の言葉を信じるならば、彼女に借りを作って。その上で世界を
「だからボクも、記憶を忘れちゃう。この前のそー君みたいに。けれどね、ボクとそー君が生きたまま
「だが、それを否定できる知識が俺にはない……」
だからもう、頷くしかないのは分かっている。もしももっと自分の頭が良ければ、広兼教授が残したデータからもっとましな未来を選べたのだろうか? あるいはユイから詳細を聞き出して、もっとましな明日を選べたのだろうか?
「けどね、そー君は記憶を失っても。もう一度会いに来て、救おうとしてくれた」
ああ、そうだ。たとえもう一度やり直すことになっても。自分はまた彼女を助ける道を選ぶのは間違いない。
「だからボクも、もう一度そー君と出会えば。恋が出来ると思う」
だから彼女は、自分と同じように。また思い合えるから大丈夫だと笑った。
「だからお願い。生きることを―― 望んで、そー君」
まだ、希望はない。まだこの先にどうやって進めばいいのか分からない。そもそも外間准教授曰く、世界を滅ぼしたのは自分であるらしい。けれど、それでも――
ここで終われない。
ゆっくりと自分が頷いたのを確認して、もう一度彼女は笑う。
「
――【リブート】――
静止していた世界が、動き出す。
その感覚を受けとめ、黒にひび割れた彼女の手を握ろうと腕を伸ばす。一瞬広兼は逃げようとするが。それを無理やり握りしめる。それは殆ど死人のような触り心地でどこまでも冷たく恐ろしい。けれど手は離さない。
もう一度巡り合い、記憶を失っていたとしても彼女を抱きしめるのだと決意する。
そして祈りと共に再び世界が歪み。色彩と輪郭を失い、世界の幕が下りる。ゆっくりと解けていく自我のが消える直前に彼女が呟いた4文字を胸に刻んで―― 彼の意識は一旦途切れて消えた。
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