記人──朔日の宵
深い
太陽が雲の
「うぅ……んっ」
隣の男が大きく伸びをした。
──小さな
ワインレッドの文字は整然と並んでいる。
「今日の仕事はこれで終わりですか」
「いや、」
立ち上がってふらふら歩き出す男に尋ねると、返事は思わぬところから来た。
向かいに座っていた、脂ぎった長髪を一つに束ねた男が、こちらはインクの瓶を眺めながら
「少女たちが夢を見るまでの、短い休みさ」
と言った。
僅かな日の光に照らされる彼のインクはほとんど残っていない。淡く藤色に見えるのは、夜を映しているからか、明けの色にも宵の色にも見えるその色は、静けさを含む上品な色。男はインクの瓶を愛しいように撫でたが、繊細なインクの瓶はペンだこだらけの指に挟まれると、ひどく不格好に見えた。
「夢も書き写すんですか」
「ああ。朝になって少女が夢の内容を覚えていなかったら捨ててしまうのだ。罰だとはいえ、嫌になるよ」
「罰?」
「己の作品に未練を残して死んだ文筆家は未練の代償に記人になる。ここへ来るときそう聞いただろ」
「いえ……」
男はふっと笑った。同情するような笑みだった。
「疲れてるんだな。今は、ふむ、とりあえず……」
男は、髭の生えた顎を擦った。
「詩抄少女ってのは、少女の記憶、詩人の記憶、詩に対する世間のイメージ……この三つで成る。これだけ押さえとければ混乱することもない」
「なるほど、」
男は私の顔に何を見たのだろう、困ったように言う。
「慣れればおいおい思い出すさ」
男は、忘れたままのほうが仕合せだ、と笑うと席を立った。
「──やあ、長老、俺が羨ましいか、お前はまだ長いだろ」
「彼女の苦しみを見てるのは嫌ではない」
遠くの方で藤色の男が話している声を聞きながら、私は傾斜のついた机に頬をつけた。わずかに温かい。暗くなっていく空をペンに映すと、月のない空に金の月が浮かぶようで綺麗だ。
ガラスの向こう側でぱっと光が燃え、驚いてペン軸を目から離した。遠くの机で、若草色のインクが蛍のように光っている。
ため息を吐いたのは誰だろう。時間だ、時間だ、とつぶやく声が波のように広がっていく。
目の端に深紅が映る。隣の男はため息を吐き吐き席について、遠眼鏡を覗き込んだ。
山吹が光る。橙が光る。桜が光る。藤が光る。深さを増していく闇の中でぼおっと光るインクの壺。
「……夢みたいだ」
ずっと遠くの方にもぽつりぽつり、針の先で突いたような光が見える。
私の前のインク瓶の中で、光が燃え上がった。日に透き通る灘の色だ。私はぼんやりそれを見て、思い出したように呟いた。
「時間だ」
詩抄少女 灰出崇文 @Heide_T
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