目元を隠す仮面をつけた男は、先程の男達とは格が違うように見えた。彼自身がすでに演者のようだ。

「おお……メルヘン空間っすね」

強面の男には似合わない、可愛らしいピンク色の空間が広がっていた。一歩進んだだけで甘い匂いが鼻に届く。丸みを帯びた滑り台や、ユニコーンのスプリング遊具などが、ぴかぴかと光りながら楽しげな曲を流していた。

「……やぁ、よく来てくれたね」

黒い扉の向こうがこんな風になっているとは思わなかったので、三人でぼうっと眺めていると、後ろから声をかけられた。

なんというか、声だけでもオーラが感じられた。こいつは普通じゃない。無意識に背筋を伸ばして振り返った。

こちらに歩み寄るまでが、やけに長く感じられた。神々しい見た目をしている。

それに圧倒されたのか、体から力が抜けそうになった。今なら少し肩を押されただけで、簡単に倒れてしまうだろう。

「ふふ……ようこそ。今日は少ししか案内できないけど、最後まで君達と楽しい時間を過ごせたらと思うよ」

「……っ」

三人とも言葉を失っていた。話すという意識すらなかった。

「ああ、そういえば私とお話してくれた人も来ているんだよね」

「あっ……お、俺です」

喉が渇いていた。ここに来るまでの威勢はどこへ行ってしまったのだろう。

「へぇ、想像していたより若かったな。さてと、あまり立ち話をしていてももったいないね。歩きながら話そうか」

横を通り、彼の側を音も立てずにキープした仮面の男は、秘書的な役割なのだろうか。

二人の後をおぼつかない足取りでついていく。

この時には既に、敵わないと感じていたのだと思う。なぜ敵視していたのかと、それさえ思い出せなくなっていた。

「あ、あの……電話越しとはいえ……本当に失礼な態度をとってしまって、すみませんでした」

「はは、今さら謝るのかい? でも私は君と話していて、楽しいから電話をかけたんだよ。あの威勢がないと面白くない……なんて、あまりからかうのもよくないかな」

柔らかく微笑むと、隣にいる男の頭を撫でた。それを受けた彼の表情が変わることは、最後までなかった。

次の扉を開けると、今度はちゃんとした空間だった。豪華なホテルのエントランスのようだ。靴越しでも分かる柔らかい絨毯を踏んで、クラシカルなデザインの壁を見ながら進む。ゲストルームに通されると、一度二人は出ていった。

三人の会話は少なかったが相手の顔を見ると、興奮状態なのは明らかだ。

ソファーに腰を下ろすと、やっと二人は口を開いた。

「や、やばいっすね……あの人」

「確かに。これじゃ先に行った連中を怒ることはできないな」

「先輩、あの人に骨抜きにされたっしょ」

「……変な言い方するな」

「ははっ、分からなくもないすよ。あの人……なんつーか、神様みたいな……あっ」

「どうした?」

「この場所ってそういうことなんじゃないすか。新しい世界を作った的な。宗教っていうのともちょっと違いますかね。新しい世界の形ですよ。選択肢を広げた先駆者って感じ? ここが本格的に始まったら、あっとう間に広がるんじゃないかなぁ」

「その内人類は皆ここに来るようになるって? そんなのファンタジーなのか、ホラーなのか……」

「やがて本当に世界を牛耳る存在になるのかもな」

扉が開いて、二人が戻ってきた。対面の椅子に優雅に座ると、仮面の男が紅茶を注いだ。

「甘いものはお好きかな? お腹が減っているようなら、他のものも用意させるよ」

同じ黒い服を着た人がぞろぞろと現れた。食べきれないほどのお菓子を机いっぱいに並べている。果物が宝石のように輝いているケーキなど、芸術品のように盛りつけられたスイーツばかりだ。

最初は緊張で味がよく分からなかったけれど、一口飲んだ紅茶の深い香りに感動した。体中が心地良い風味に包まれているようで、いつも飲んでいたものは何だったのかと思うレベルだ。

口に運んだスイーツの全てが衝撃の連続だった。

何杯飲んだか分からなくなった頃にティーカップを置くと、彼が口を開いた。

「映像でしか見せることができなくて残念だけど、世界の一部を見せようか」

何もなかった空間にスクリーンが浮かび出た。それにも驚いたけど、見せられた世界は考えを停止させるほど素晴らしいものだった。夢の世界なんて生ぬるい。汚い欲ではない、これはもう人類の希望だ。求めるべき最善の選択肢。

「それで、君達はどうする?」

軽い口調だったけど、何も文句はないよね? と言われているようだった。

「薬でも幻覚でもない。皆は自分の意思で……ただこの空間にいたいだけだ」

「こんなものが、実際に存在しているなんて……」

「ふふ、ちなみにここでは現実世界の概念がなくなることもあるよ。例えば金銭は必要ない」

「チケット代は……ええっと、いくらでしたっけ」

「ある人が面白いことを言っていてね。例えば四万円なんかにしようか。それは他の娯楽施設とは桁違いで高いと感じるね? でもそれは売り上げ目的じゃない。覚悟の問題なんだよ」

「覚悟?」

「人によっては安いと思う金額かもしれない。そう思う人が来るのも構わないが……そのぐらい逃避したい、今の現状を忘れたい、どこか遠いところへ……不安にならなくて良くなる場所へ。そう思ってずっと頑張ってきた人達を迎えてあげたいんだ。チケット代なんて入った瞬間に返してあげるよ」

「でも、沢山の人が訪れますよ。国内だけじゃなくて、外からも」

「その点は心配いらないよ。規模ならいくらでも広げられる。……それに物もなくならない。余計な利益を考えるから、無駄なものが増えるんだ。物事はいつだってシンプルで、牛をつがいで買っておけばいなくなることはないだろう? それだけでいいんだ。争いなんてもっと心配いらない。皆が充分に満たされていたら、欲しい物なんてない。それ以上を望まない。これが一番の正解でしょ?」

仮面の男を手招きして、呼び寄せた。

「ジン、あれを持ってきて」

三つほど持ってきた袋をテーブルの隅に置いた。

「君たちは結婚しているの?」

「いや、全員独身です」

「そうか……ああ、迷ったんだよ。女性なら石鹸やキャンドルの方が良いかもしれないと思って。でも、やっぱりワインにしよう」

「えっ! 俺達に、ですか?」

「うん。お土産だよ。それとも、ワインは苦手だったかな」

「い、いえ……!」

「好物っす!」

「ふふ……今日は君達を呼んで正解だったなぁ。また電話してもいいかい?」

「……は、はい。俺で良ければ」

それから帰るまで、ずっと夢の中を歩いているみたいだった。自分の部屋に着いて、ようやく現実に戻ってきた気がする。

椅子に座って、一息つく。襲ってきた感情は空虚だった。目の前にあるのは無機質な白い壁。ただ眠れればいいという理由で選んだ狭い部屋。なんて、つまらない空間だろう。

ワインを開けて、安いグラスに注ぐ。ふわりと香った匂いに、浮遊感を覚えた。

一口含めば、先程の光景が蘇ってくる。また一口と、進めば進むほどに、幸福感が体を満たした。

いつの間にか貰った一本は空になっていた。

グラスを置いて、部屋を眺める。それらが全て嘘に見えた。これは本当の景色じゃない。俺は演じてるだけなんだ。狭い部屋に閉じ込められて、くだらない生活を強いられた可哀想な生き物。あそこに行く為に、今まで我慢していたんだ。

ああ、何で帰ってきてしまったんだろう。あのまま中にいれたら良かったのに。何の為にこんなところに俺はいるんだ?

こっちの世界に価値はあるか? 色んな事件を見てきたが、どれも理解しがたいことばかりだった。どうでもいいことで喧嘩して、妬んで、殺すまでに至るエネルギーはどうしたら生まれるのだろうか。どう考えても苦しむことの方が結果として多いのに、戦う理由は何だ? プライドか? 目に見えない正義をなんてものを美しく飾ることができたら、それで死んでもいいのか? 関係ない人間が命を落とそうと、構わないのか? 歪んだ快楽を勝手にぶつけて、傷つけて、誰も責任を取れない。時間か? 記憶の薄れだけに縋るのか。

反対する人間もいるだろう。そういう奴はしのごの言わずに、行ってみたらいい。

俺はあの人の言うことを、あの場所を支持する。

力強い筆跡で、白い紙を埋めた。遺書のような辞表を机の上に置き、パソコンの電源をつける。

いつでも連絡していいとあの人は言ってくれた。ああ、俺もやっと救われるんだ。


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