帽子屋とチェシャの物語

「ジャック、今日は雪が降ったよ……寒くないかい?」

何度問いかけたって、その瞳が開くことも、笑顔で自分を見てくれることも、もうないんだ。

死ななくて良かった、生きてる限り望みはあるなんて……そんな言葉はどんどん気休めになっていった。ジャックが目を覚ます前に自分が死んでしまったら、それはもう永遠の別れと同じだ。

ジャック……どうして起きてくれないんだ? 僕は……君がいつも励ましてくれたから生きてこられたのに。君はもう僕に会いたくない……?

ジャックは夢の中で、どんな世界を見ているんだろう。


僕達が会ったのは小さな孤児院だ。途中から入った僕に優しくしてくれたジャックと、その妹のメアリー。皆仲が良かったけど、僕達三人はその中でも特別だった。お父さんやお母さんがいなくても、ここにいれば寂しくない。

僕達は少し成長して、ジャックは色々な場所を旅行するのが趣味になっていた。その土産話を聞くのは新鮮で、何よりそれを話すジャック自身がとても楽しそうだった。

でもある時、旅行先で事故に遭った。道に迷って徘徊していたらしい。そこは治安が悪い場所で、ジャックはデモに運悪く巻き込まれてしまった。

そのとき受けた銃弾が彼を撃ち抜いた。一時はどうなるかと思ったけど、意識は取り戻した。でも、それから彼が目を開けることはなかった。

これが今の状態だ。ジャックは機械の力で無理やり生かされている。

もうジャックが起きることはないのだろうか。少しお調子者で、人気者だったジャック。皆が彼の周りに集まって笑っていた。楽しかったあの日々には、二度と戻ることができないのか。

メアリーは毎日泣いていた。その声を聞くのが辛くて、少し離れることにした。

僕は医者になろうとした。どうにかして彼を起こすことができないかと、がむしゃらに勉強した。しかしどう尽くしても、彼の為になれることはなかった。

落胆した僕のところに、一人の男が現れる。

「君は人を蘇生する事に興味があるか」と、初めからこんなことを問いかけられた。

蘇生? 生きている人間すら起こせないくせに? でもその男は人ではなく、人工人間……ロボットのことを示していた。

「私も夢のような話だとは思っているよ。でも成功したら君のお友達も助けられるんじゃないかな」

それは一本の蜘蛛の糸を掴むような話だったけど、たとえ僅かでも希望を見出せたのは確かだった。

「今、とても設備の整った研究施設があるんだ。費用もかけられるし、必ず儲かる話もある。だから我々に協力してほしい」

周りに何もない、無人島のような場所にそれがあった。

見た目は目立たないシンプルな建物だったけど、中は広く、地下にまで部屋を作っていた。どこも様々な研究に使われている。

僕もそこの一人となって、部屋にこもっていた。

久しぶりに地上へ上がると、夢のような世界が作られた始めていた。まだハリボテだけど、完成したら凄いことになるだろう。誰もが心を惹かれる……そんな場所に。

気がついたら、僕もそれに魅せられていた。もうただの日常に戻ることもないかもしれない。

もちろんジャックのことを忘れたわけじゃない。僕は遊園地ではなく、彼の為に研究していたんだ。

初めはただのロボットだった。登録した言葉と会話させる事は簡単だ。でも僕が考えた言葉をそのまま話させるだけなんて、意味がない。いつも僕を驚かせてくれたジャックを再現したいんだ。

夢を見せる、本物の人間みたいな……存在ができれば……。

遊園地が完成に近づいていたけど、あまり関心を持てなくなっていた。もしかしたらアリスが作った惚れ薬のようなあれが、僕のところにまで来ているのかもしれない。狂ったように彼を作り続けた。

そして他のロボットより何倍も時間をかけて、彼は完成した。

起動の言葉は決めていた。ずっとずっと、言いたかった言葉だ。

「……おはよう、ジャック」

ゆっくりと目が開く。その瞳の色は彼そのものだ。

自分の頰に伝った涙は嬉しかったけど、それ以外の感情も含まれていた。

本物のジャックを思い浮かべる。僕はこのジャックが完成する前に、一度だけ本物に会いに行った。更にやせ細っていたけど、彼は生きていた。

その時、ナースから驚く話を聞いた。彼が一度だけ声を発したらしい。それだけを言い、また目を閉じたと。なぜその時に僕はいられなかったのだろう。

それよりも彼が残した「Alice」という言葉。どうして君が知っているんだ? アリスはどこのアリスのことだ。僕達のリーダーのことじゃないだろう。君が見ているのはもしかして……アリスと同じ記憶?

本物のことはよく分からないけど、偽物のジャックの記憶は嘘で作られている。彼が自然にこの世界に溶け込むには、僕が作った物語で動かすのが楽だった。そのおかげでアリスとの出会い方や、探し出した経緯、そして矛盾は全てワンダーランドという存在を認識させることによって解消される。

とうとう遊園地がオープンした。例の少年が現れる。彼がジャックにピエロの話をした。その時ジャックが動揺したのには、少し驚いた。これはジョーカーの作り方と同じだ。僕は断ったのに、結局使われてしまった。ジャックを元として、量産型のロボットを作る。ピエロもその中の一体だ。ジャックは知らなかっただろうけど、本能で感じ取っていたんだろう。僕は思っていたよりも彼が成長していたことを知って、嬉しくなった。

……ジャックが壊れた。あのモンスターと戦ったからだ。元々アトラクション用のロボットだったのに、いきなり暴走し始めた。あれは……彼がやったことだろうか。少年を先に殺したかったのか、アリスに会わせたくなくなったか。真相は分からないけどアーネストのせいで、せっかく作ったジャックが壊れてしまった。

こんな時も、ワンダーランドという架空の世界は便利だ。ジャックの中では、時間の流れがない空間も現実。いくら時が経とうが不思議ではない。

ジャックの修理にはそれなりの時間がかかった。その頃にはもう自分の体も機械化させていたから、死ぬまでの時間を長引かせることができていた。まだ死ぬわけにはいかないんだ。こんな中途半端な形で終わりになんてできない。

アリスが亡くなってから、遊園地は廃れた。残ったのは大量のがらくたと、僕と彼のみ。二人きりの中でアーネストが理想を語った。僕は今更どこにも行けず、結局彼の側にいることにした。

彼女がいなくなった後の彼は無敵だった。あっという間に元の遊園地、それ以上に立派なものを作り上げていった。

彼の手術も幾度となく繰り返され、結果的に僕も彼も既に人とは呼べなくなっていた。でもそれで良かった。ここまでしぶとく生き残ってしまったからこそ、まだ足掻いていたい。

この頃に僕の目標が少し変化した。ジャックを作ることじゃない。彼以上の存在の、帽子屋を作りたかった。

少女の存在……アーネストはそれに酷く固執していた。どうしてAliceは私の元に来てくれないのか、何度も聞いた言葉だ。どんな少女が現れても、彼が満足することはなかった。

「どうしてそんなに、その少女にこだわっているの?」

「私はね、見たいんだ。私の想像を超えてくれるような子を。それを求めるのは間違っているかな」

「でも、そんな少女は……」

「君だって帽子屋さんを、自分の都合の良いように作っていたんだろう」

「えっ……」

僕は忠実にジャックを作った。でもそれは……最初の一体だけ。

ジャックはいつも明るくて、たまに上から目線だけど、その姿が皆からリーダーとして慕われていた。僕が落ち込んでいる時にはすぐに気がついてくれるような優しい奴で……そんな彼が僕は羨ましかった。僕に持っていないものを、たくさん持っているジャックが。

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