(4)

少年はその場に似つかわしくない笑みを浮かべた。

「ローレン……そうだ。ローレンだ。ああ、本当に君なのか……?」

「そうだよ、お兄ちゃん……姿は随分変わっちゃったみたいだけど」

「今までどこにいたんだ? はは……その声、僕を見る目……懐かしいな」

「チェシャ猫さんのところにいたんだよ」

「……あの子、か」

「ねぇ……僕もあの子が言ってた通りだと思うよ。真の少女……あれが完成しても、お兄ちゃんが求めるものはできない」

「……どうして、そんなことを言うんだ? お前はいつだって僕の味方でいてくれたのに……」

「本当は分かっていたんでしょ? でもそれに気づかないフリをしていた。お兄ちゃんが会いたかったのは家族でしょ。お父さんとお母さんに会いたかったんだよね」

「両親の記憶なんて……ないだろ?」

「だからね、お兄ちゃんの求めるものはできないんだよ。親に愛された経験がないんだもん」

撃たれた右足からは血が流れ続けている。それをアーネストが気にする様子はなかった。ローレンが近寄って、そっと足に触れる。

「お兄ちゃんは僕の変わりに背負いすぎた……僕が弱かったから。お兄ちゃんは、お母さんとお父さんの所に行ってきて。少し休むといいよ。後は僕に任せて。僕ならもう大丈夫。今度は僕が、お兄ちゃんの代わりに生きていくよ」

「ローレン……待って、僕はまだ……やらなくちゃ、いけないことが……っ」

「お兄ちゃんごめんね……ずっと一緒にいるって言ったのに。二人で生きていこうって約束したのに、僕は……全部お兄ちゃんに押し付けた」

「……っ」

「それからずっと苦しんでたこと、聞いたんだ。前のお兄ちゃんだったら……あんな機械作らなかったよね。椅子で寝ているだけなんて、つまらないよ。前のお兄ちゃんだったら、もっと楽しいものを作ったはずだ。……お兄ちゃんをそんな風にしたのは僕」

「違う! お前のせいじゃ……っ」

「僕があんなこと言わなければ! ワガママを言わなきゃ、ずっとお兄ちゃんといれたのに……っ」

「ローレン……こっちにおいで」

体を起こして、腕の中に閉じ込めた。弟の顔をそっと撫でる。

「泣かないで……ローレンに涙は必要ないでしょ。だって自由になれたんだから。悲しみと苦しみは、僕が全部引き受けたんだ……だから、そんな顔をするな」

「お兄……ちゃん、僕を許してくれる……?」

「許すも何も……最初から恨んでなんかいないよ。何年経っても、愛しいんだ。僕のたった一人の弟……一番大切な家族」

「……っお兄……ちゃん!」

「暖かいな……僕より高い体温のローレンが隣にいるとね、不安な日でも眠ることができたんだ。いつも安心していた。ローレンはたくさん僕の力になってくれていたよ。目に見えなくなってからも……ずっと」

「お兄ちゃん……やっぱり僕も一緒に行っていい? だって本当は、ここにはいちゃいけない存在だから」

「ローレン……でもせっかく生き返えらせてもらえたんだ。少しだけ世界を見てきたらどうだ。あの頃の自分達は何も……まだ何も知らなかったんだよ。あれから悪いことも、お前に見せたくないことも沢山あった……でも同じぐらい見せたいことも、話したいことも沢山あっ……た」

「お兄ちゃん……っ、体が」

「ローレン……会いたかった。ずっと……寂しかったんだ。ねぇ、ローレン……僕は作ることができたのかな。……お前が笑顔になれる……世界を」

「お兄ちゃん……見える? 僕は今とっても嬉しいんだよ。またこうして会うことができて……ほら、笑ってるでしょ? 大好きだよ。お兄ちゃんの作ったものが……アーネストお兄ちゃんが」

「ローレン……愛してるよ」


ローレンの顔が滲んだ。ゆっくりと空が割れる。壁が崩れ、床が落ち……世界が壊れていく。


お兄ちゃん! 僕もね、お兄ちゃんみたいになりたいんだ。いっつもね、考えてたの。どうしたら、そうなれるんだろうって。


早くお兄ちゃんの作った遊園地で遊びたいなぁ。きっと、とってもとっても楽しくてすごいところだよ。絶対に僕が一番最初に遊ぶんだ! あ、もちろんお兄ちゃんと二人でね。


お兄ちゃん! 僕はもう……嫌だ、こんなこと……お兄ちゃんと離れ離れになるなんて、そんなの絶対……やだよ! 僕はもう耐えられない。お願い、お兄ちゃん……。


ローレン、大丈夫だよ。もう苦しまなくていい。悲しみを背負うのは僕だけでいいんだ。


空……青い、本物の空だ。久しぶりに見た。本物はあんなに不格好なのか、でも美しい。

どうして忘れてしまったのだろう。忘れなければ、生きていけなかったのかもしれない。

私が求めていたのは、おとぎ話のような奇跡で繋がった運命ではなかった。アリスとは、忘れてしまった理想を重ね合わせていた存在だった。他人の幻想に縋ったところで、正解は見つけられなかったんだ。

ローレン、遅くなってごめんね。ずっと遠回りしていたみたいだ。

ああ、暖かいな……これが陽の光か。本物には、敵わないな。


上からジョーカーが仮面を落とした。それが彼の顔に重なる。

カチカチ……カチ。時計は十二を指したまま、もう針が動くことはなかった。


ギー……ギコー……。

誰も乗せていない小さな舟は錆び付いたまま、静かに波打つ小川の流れに揺られていた。

その舟の上に本が一冊。それも舟と同じように古いものだった。

パラパラと吹く風がページをめくる。紙には何も書かれていない。

最後のページには少年と少女の絵。それと、メッセージが書いてあった。


――Aliceへ

水の音を聞きながら、ゆらゆら揺れるボートに寝ている。

本を開くと、そこには君の笑顔があった。

そっと触れただけなのに、僕の目からも水が流れて、下の川に落ちていった。

本を閉じて、空を見上げる。

何度書いても、この結末になってしまうんだ。君が望む世界はどこにあるのかな。

……こんな僕でもまた笑いかけてくれる?


裏表紙には、少年が船の上で本を胸に抱きしめている……そんな絵があった。

映像が乱れ、映写機が止まる。

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