ジョーカーの哀叫

良い子だね、ジン。そう言葉をかけられるたびに、喜びが体内を駆け巡った。

ご主人様は長い髪がお好きらしい。猫を撫でるように、指を滑らせる。それがとても心地良い。

髪を通り過ぎて、耳に触れた。そこに唇を近づけたので、また言葉を頂けるのではないかと、意識を集中させる。

「良いね……私の言うことを何でも聞いてくれるこの耳……。これを貰おうかな」

熱が一気に冷めた。こんなことは初めてだ。ご主人様からの行為が怖いと感じるなんて。いつもなら触れられるだけで頭がぼうっとしてしまうのに……異物が耳を擦っている感じがした。

「……イ、ヤ……」

「どうした、怖いのかい? 大丈夫だよ。片方は残してあげるから。お前が私の言うことを聞くことができなくなったら、意味がないしね。でも一つで充分だろう? だから、彼女に分けてあげたいんだ」

ご主人様の目は自分を見ているようで、何も見てはいなかった。

「ア……アァ……」

震える体を抱きしめながら後ずさる……トンと音がして、すぐに壁に当たった。もう逃げられない。

ご主人様がゆっくりと覆い被さってくる。その笑みはいつもと同じはずなのに、もう恐怖しか感じられなかった。まるで褒めてくれる時のように優しく頬に触れると、にっこりと微笑んだ。

「……!」

高く上げた手に持っている物が鈍く光った。次の瞬間には赤……真っ赤なそれが一面を染めた。

「ありがとうジン、愛しているよ」

頬に唇がつけられたけど、その感覚はなかった。鋏をしまうと、切り離した一部を持ったままどこかへ行った。

「……っ」

そっと左耳を確認する。ベッタリと手に赤がついた。

「あ……ああぁ……」

誰かが叫んでいる。声が震えている。それが自分から発しているのだと分かったのは、赤く染まった自分を映した鏡を見た時だった。


頭に包帯を巻いていても、気にするものはいない。いや、先程からちらちら見られてはいるけど、話しかけることはしなかった。これも普段からあの人以外を避けているからだ。

「おい、それ……どうしたんだ?」

「……お前には関係ない」

一人だけ……酷く慌てた様子で、帽子屋が走ってきた。

「いや、かなり痛々しいぞ。何があったんだ。大丈夫なのか?」

うるさい、うるさいうるさい……。それなのに、どうしてだろう。自分でも、思った以上に動揺しているのかもしれない。

「いいんだそれでも。俺は……あの人の物だから。あの人から必要とされるなら、何でもする。じゃないと、俺という存在が消えてしまう……」

「あの人って、アーネストの事か? 本当にそれでいいのか、それが幸せだって?」

幸せ? 俺は幸せを求めているのか? あの人が喜ぶと嬉しい。それが生きがいだと思う。必要とされている限りは。じゃあそれが終わったら……。

惑わされるな。俺が生まれたのは、ご主人様が作ってくれたからだ。必要でなくなったとしても、それも一つの使われ方だろ。

やっぱり帽子屋といてもろくなことがない。こいつに会うと心をかき乱される。もうこれからは無視しよう。

「あっ……もう行くのか? 治療はちゃんとしてもらえよ。チェシャならきちんと手当てしてくれるだろうし。でも……俺はやっぱり間違ってると思う。お前が傷つく必要はないはずだ。もっと他の可能性だって……」

気づいたら歯を食いしばっていた。クソ……クソクソッ! うまく感情がコントロールできない。

振り返って睨むと、いつも通りのへらへらした顔で、憐れむようにこちらを見ていた。

走って部屋の前まで戻る。息をするのが苦しかった。どうしてこんなに痛むんだ。故障か?

息を整えていると、後ろから足音が聞こえた。

「ジン?」

「……っ!」

ご主人様が、いつもと変わらない優しい顔で微笑んでいる。いつもは姿を見るだけで体が上気して、涙が出そうなほど嬉しかったのに……。

「どうしたの? ああ痛そうだね、大丈夫?」

慈しむように触れた手が暖かい。

「平気……です」

「後で猫さんに診てもらおうか」

実はもう治療してもらった後で、この包帯もあいつが巻いたものだ。耳を新しく作ると言っていたけど、それは断った。このままでいい。俺がこの人の側にいた証拠を残しておきたい。

頭に触れられると、思わずぴくりと体が動いてしまった。やってしまったかと緊張が走ったけど、それを気にすることなく抱き寄せられる。いつも通りを心がけて、愛する主人に甘えた。

ああこの人が絶対で、この人だけが俺の世界だ……それで? それで、なんだっけ……。

一滴の雫が瞳から流れていった。

帽子屋の言葉が頭を過る。間違ってる? もっと他の可能性? そんなの……。

考えなければいい。もう、何も。頭を空っぽにして、忘れてしまえばいい。

逃げるように、ご主人様に縋った。

ほら触れた手は温かい……から。



【欠片】

「ねぇジャック、あなたはお兄様ではないの?」

「え、俺がアリスの……かい? 違うと思うよ」

「でも、なんだか凄く似ている気がするの」

「ごめん、分からないな」

「そう……でもお兄様なら、きっと覚えていてくれるわよね」

一人になった部屋で思うのは、愛しのあの人のこと。……それなのにどうして。私の頭にいつもいたはずなのに。色んなことがあって、あなたの姿をちゃんと思い出せないの……。

忘れるなんて、そんなのありえないわ……なのに、みんな私が見た夢だって言うのよ。違う、違うの! 私の手にはお兄様の暖かい手の温もりが、感触が、まだ残っているのよ!

忘れてしまうのではないかという不安と戦っていた頃、奇跡が起きた。

「これ……この話、私の思い出と同じ……! ああ、お兄様! こんな所にいらしたのね。 やっと……やっと見つけた。会いたかったわ、お兄様……。アーネスト! すぐにこの方に返事を出して!」

「……っ」

「今からだとオープンより後になっちゃうかしら? そしたら一日休園にしましょう。お兄様と二人でゆっくりお話しがしたいわ」

「かしこまりました……ご主人様」

「ああでもお兄様、私だって気づくかしら? あの時はとても小さかったから……私もすっかり成長してしまったわ。お兄様はすでに大きかったからいいけど、少女から大人への変化は凄まじいものね……」

クローゼットを開けて、部屋に放り出した。その一つをとって、体に巻きつけながらくるくる回る。

「これかしら? 違う……これはダメね。どれを着ても少女には見えないわ。そうだ……あの薬。この間面白い変化があったわ。あれをもう少し……」


しばらく地下に潜りに行くわね、と言い残した背中を見つめる。私が動揺したことには気がついていないようだ。彼女にとっては、もう私などその辺の召使いと変わらないか。

彼女が籠ってから数日経った。食事を持っていくと、思わず落としてしまった。そこにいたのは、自分の身長の半分程もない少女だったのだから。

初めて会った時よりも幼く見えた。そんなはずないだろうと念入りに調べても、散らかした服や瞳の色は、彼女で間違いなかった。

薬は全て飲んでしまったのか、瓶の中に残ってはいない。

大きい白衣を纏いながら、ぼうっとどこかを見つめていた。

「ハハ……ハハハッ!」

笑いが込み上げた。いつぶりだろう。ああこんなにも愉快なことがあるのか! やっと運が巡ってきた。そうか、私はこれを待っていたんだ。このチャンスを! これで、この場所は私のモノだ。


「ジン……決めたよ。あの子をアリスにする。ルリカと帽子屋の確保だ!」

そう高らかに宣言した主の顔が一瞬霞んだ。ついに来てしまった。恐れていた瞬間が。

「帽子屋……いやジャック、君にも……もうあのアリスは忘れてもらうよ」

いつもより足に力を入れて立ち上がる。死刑囚というのはこんな気持ちなのだろうか。きっと自分が死ぬと分かった人間に見えているのは、穏やかを通り越した無の……空っぽのような世界なんだろう。

「さて移動しようか」

処刑台へと一歩近づいた。

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