(1)

突然雨の音が変わった。顔を上げると、一人の男が自分に傘を差していた。

「こんばんは」

大きなシルクハットと街灯の逆光で、顔はよく見えなかった。唯一見える口元は、薄っすらと笑みを浮かべている。

「……あの」

「公演見ていましたよ。本当に素晴らしかったです……貴方が率いるこのサーカス団が、気に入ってしまいました」

男は何の悪気もなく、嬉しそうに話している。怒る気力もなくなっていたが、さすがに無神経にも程がある。

「貴方っ……」

「だからそんな大切なサーカス団を、失う訳にはいかないよね」

男の言葉は、甘く酔わせるような心地にさせた。荒唐無稽な話だったが、僅かな希望に縋りつくように私は頷いていた。

男をテントに連れていくと、そこには目に光を宿していない団員……いや家族の姿があった。

「お前! 呑気に客なんか連れてきやがって! ガイは、ガイは……っ」

「そうだ。その人が天才的な医者だとでもいうのか? ガイは……もう息を吹き返さないよ」

「君が双子のお兄さんだね」

悲しみに浸る二人の元へ、微笑を浮かべながら近づいた。その不気味な態度に反応が遅れたのか、ハルトは頬を両手で挟まれていた。

「うん……綺麗な目をしているね。この目を一つ、弟くんに分けてあげるのはどうかな」

「な、なに言って……そんなことしたって、ガイが帰ってくるわけな……っ」

「くるよ」

男は、はっきりと口にした。

――帰ってくるよ、と。

そして本当にあの子は帰ってきた。黄色と……緑の瞳を入れて。

記憶は混乱しているようで、事故のことは覚えていなかった。

ハルトは勧められたけど新しい瞳は入れず、それを隠す為に大きなゴーグルをつけた。それに合わせて、身につける服装も大きく変わった。

それから私達は、遊園地に呼ばれた。条件は彼への忠誠と、夢を見せること。そうすれば、不自由のない生活を約束すると言われた。

そこは全てのスケールが違った。今まで見たどんな場所よりも、大きくて広い。

割り当てられた仕事は、サーカスに関することだけだった。ここで育てている子供達が完璧にショーをできるようになるまで指導して欲しいと。

確かに表情のない子供達だったけど、まさか機械だとは思わなかった。ほとんどは一度教えると、それ通りに役割をこなした。たまに失敗して体の一部を壊している子もいたけど、白衣を着た男がすぐに直していた。

そうしてより芸術性を極めていったサーカス団は、どんどん素晴らしいものになっていた。これなら彼も納得してくれるだろう。

ある時、彼が急に子供を二人連れてきた。自分達では兄弟と言っていたが顔が似ていないので、血が繋がってる訳ではないのだろう。でも仲が良いのは本当のようだ。

子供達は勝手に増えたり減ったりしているので、なぜ彼がわざわざ紹介してきたのかと思ったら、この子達は本物の人間らしい。こんな言葉を使う日が来るとは思わなかったが、そうなのだから仕方ない。

コウとミウを新たなメンバーとして入団させた。今は必要ないけど、彼らはパフォーマンスに興味があるようだ。余裕ができたら、その内やらせてあげてもいいかもしれない。

なぜ遊園地にサーカスが必要なのかと聞くと、私の絵にいるからという答えを返された。あの人のことはよく分からない。しかし今の暮らしに不満はないので、彼に認められている限りは、ここにいてもいいだろう。

新生サーカス団の幕開けだ。


――私は時々不安になるんです。その不安を何度も誤魔化して、抑え込んでいたら……いつしか誤魔化が利かなくなっていました。

貴方は私が不安定になるといち早く察して、優しい言葉をかけてくれる。でもそれが益々差を感じてしまうんです。兄と呼んでいるけど、私達は双子だから。

同じ日の、同じ時間に、同じ母体から生まれた。少し違うところはあるけど、ほとんど変わりなんてないのに。

「お兄ちゃん……」

「なんだよガイ、急にそんなに呼び方しちゃってさー」

「私はここにいても、良いのでしょうか」

「……いつも言ってるだろ。お前がいなきゃ、俺はダメなんだよ」

「私は何の為に生きているのでしょうか」

「……ガイ! だからそれは……っ」

「貴方がいなくなったら、私が生きる意味はなくなってしまうのですか」

「生まれてきた意味なんてねーよ。誰にも、そんなの……。理由なんかないんだから、俺の為に……生きてくれよ」

「もう……誤魔化しが利かなくなってきたんです、自分に。私はただ死んでいないだけで……この先も同じ道を歩き続ける。同じ日々を続けることが、正しいのでしょうか」

貴方にだったら、私の分身であるハルトに終わりを作ってもらえたら……それはきっと幸せだろう。漠然とした苦しみから救われる。

「ハルト……終わりにしては、いけませんか」

その言葉を口にした瞬間、思い切り胸元を掴まれた。

「ふざけるな……っ、俺はお前がどれだけ嫌だと、死にたいなんて言っても……殺してなんかやらねえぞ! 生きてなくちゃ……何も分からないだろ!」

同じ色の瞳が泣いていた。私なんかよりも、余程苦しそうだ。

「ご主人……さま?」

開かれた扉からあの人が見ていた。すぐに顔を隠して行ってしまったけど、かなり動揺しているように見えた。ハルトは一度だけ廊下に目をやった後、静かに言った。

私は一度死んでいる……と。

「そうだったのですね」

自分の声は少しだけ嬉しそうに、安堵したように聞こえたのだろう。押さえていた力が緩み、複雑そうな顔でこちらを見ていた。

「だって誰も教えてくれないから……おかしいと思うでしょう?」

ハルトの右目があった部分にそっと触れる。

「貴方の目が一つ無くなって、私の目になった。どうして貴方は私にそこまで……」

「だから理由なんて無いんだって。お前を助ける為なら、守る為なら何だって……っ」

自分の頬に触れると、右側の瞳から涙が零れていた。だからこれは、ハルトが泣いているんだ。

「俺はもうお前を失いたくない! あんなの二度とごめんだ。あの時ガイは既に、少し目が見え辛くなっていたんだよな? それにもう少し早く気づいていれば……俺が手を離さなかったら、あんな事にはならなかったかも……しれないのに!」

自分は本当に馬鹿だ。ずっと罪の意識が消えなかったのは、後悔していたのは、ハルトの方だったのに。こんな私の為に、ずっと自分を苦しめていたのか。

「一度死んだのに、また死にたいなんておかしな話です。しかし良いのでしょうか。こんな道理に反してしまうようなこと……。人生は一度きりです。それを覆したら、全ての物事は狂ってしまう。私は……もう人間ではないのでしょうか」

「違う……お前は人間だ! あのロボット達とは違う! 食事もしなきゃだし、風呂に入らなきゃ汚くもなるだろ? 怪我もするし、寒さも暑さも感じる……俺もお前も、いつか死ぬ」

ハルトが秘密にしていてくれたから、私は今まで人間のように、疑問を持っていられたのですね。

「だったら今度はちゃんと終わるまで……生きなくちゃいけませんね」

「ガイ……っ」

「昔によくやっていたやつ……覚えていますか」

両手を繋いで、額を合わせて、目を閉じる。

――俺はお前だ、私は貴方。お前は俺、貴方は私……。

目を開けると緑色の瞳が光った。

「これは今ので最後にしませんか」

「え、なんで?」

「私もいい加減お兄ちゃん離れをしなくてはいけません。だって私達はそれぞれ別の生き物ですから。貴方も私も、一人一人ちゃんと生きているんですよ」

体格は同じはずなのに、兄の体が小さく見えた。ちゃんと、ここにいることを確かめるように抱きしめる。

「でも心は、ずっと繋がっています」

「……うん。そうだな」

ゴーグルを外して髪もぺたんこになっている。こうして見ると、やっぱり私達は似ているなと思う。昔はよくやったけど、今入れ替わっても、あの人達は気づくだろうか。

私は本当にハルトの一部なんじゃないかと思うこともあった。元々ハルトのものだった物が、おこぼれで私に回ってきただけだと。

ハルトが私を守ってくれる分だけ、自分が消えていくような気がしていた。彼は自分の半身を守っているだけで、私がいなくなったら、全てを自分の為に使えるんじゃないかって。

今度は私が貴方を守ってあげよう。貴方を追い越してしまうぐらい成長することが、きっと一番の償いになるから。

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