ほのぼのという概念

「そもそも、<ほのぼのという概念>からして、人によって違うと思う。


私にとっての<ほのぼの>とは、シリアスな背景がまったく見えないそれだけではなくて、シリアスな背景を抱えた世界で、ほんの一時、のんびりとしたあったかい瞬間を迎えることも含まれるのだ。


だから時折、シリアスな背景が垣間見えるような展開も嫌いじゃない。自分が嫌いじゃないから、そういうのも書くこともある。


本当にほのぼのしてるだけの話は、見てるだけならいいんだが、書こうとすると頭がおかしくなりそうになるのだ。


『こんな世界、あるわけないだるぉおお!?』


って感じでな。


たぶん、他の人が描いたそれを見てる分には、


『ああ、シリアスな背景を排除して描いてるんだな』


と割り切れるんだが、自分までがそれを描かなければいけないというのが納得できんのだろう。


『もっと上手くシリアスを排除したほのぼのを描ける人が他にいるのに、どうして私までが同じことをせにゃならんのだ!?』


と。


こればかりはもう、完全に性格的なものだ。まったく現実と切り離してそういうことに没入できんのだ。


それを、


『才能がないからだ』


とバカにしたいのならすればいい。だが、この世はたった一つの価値観だけで成り立ってるわけじゃないということも理解できん奴らの戯言が通るとは思わんことだ」


アオのその言葉は、一見すると他人に対して向けられているような体裁で語られているが、実際にはアオ自身に向けて発せられているということをさくらは知っていた。


アオが発する厳しい言葉は、アオ自身を律するためにこそ発せられているのだ。


だからこそ、彼女はアオを信頼することができた。他人を貶めることを目的でキツイことを言う人じゃないということが分かっているから。


普通なら、ミハエルを狙っているエンディミオンは、アオにとっても<敵>のはずだろう。それを気遣ってくれるというのが普通なら有り得ない。その有り得ないことができるというのは、アオが自分自身にこそ厳しい人だからだ。


それと同時に、甘えていい時には思いっ切り甘えることができる人でもある。


そういう切り替えができるというのは、人間関係を築く上では大事なのかもしれない。


アオはあくまで、そういう切り替えができない人間が苦手なだけで、本質的には<コミュ障>と呼ばれるタイプの人間ではないのだと思われる。


『常に自分だけが大事』という人間とは合わないだけだ。


そういう人間は、実は<ほのぼの>とは対極にいる存在だからだろう。


なにしろ自分だけが大事なので、他人を嫌な気分にさせるからだ。


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