第66話 翔一の最後

 狭く暗い列車の下。


 暗闇の奥からレールの間を蜘蛛のように這って来たのは林英宣リムヨンソンだった。彼は首を奇妙に動かすと猛烈な勢いで突進してきた。


「きゃあ!」


 すずは腰を抜かす。


 英宣が迫り、すずが顔を背け、目をギュッと瞑った時、大門の銃が火を噴いた。英宣は数発の弾丸を浴びて、すずの目の前で崩れ落ちた。


 大門は、ふうっと息を吐くと、列車の下から外に出て、すずに手を差し出した。


「立てるか?」


 すずが「は、はい」と言って、大門の手を取ろうとした。


 その時、何者かの腕が音もなく、すずの背後から彼女の首に巻きついた。彼女は一瞬のうちに暗闇に引き込まれた。


 大門は、慌てて列車の下に潜り込んで、すずを助けようとしたが、その何かはすずを抱えてレールの間を滑るように這い、隣の車両の下へと消えて行った。


「くそ!」


 大門はすぐさま外へと飛び出し、すずを追った。




 翔一が脳天を撃ち抜かれそうになった時、彼を救ったのは順子だった。


 彼女は列車の車輪の陰から半身を出し、カメラのフラッシュを焚いた。仮面の兵士が目を眩ませた刹那、翔一は身体を仰け反らせて銃弾を躱した。


 兵士たちは仮面に手をやって頭を振り、翔一は、突然現れた順子に驚いた。


「どうしてここに!」

「説明してる暇はないわ。今のうちよ!」


 順子は手招きする。


 翔一は、近くに倒れているSPと副部長に「すぐに助けを呼んできます」と言うと、無線機を拾ってから、順子のいる列車下に飛び込んだ。


 反対側に這い出ると、列車の先頭に向って走った。


「怪我は大丈夫?」

「ええ、なんとか……。ちょっと失礼します」


 翔一は走りながら無線機を使い、怪我人の救助、襲撃者の追撃をするように命令を下した。金月成キムウォルソンの声でだ。すると無線機から晶勇ジョンウンの声が聞こえてきた。


『おじい様、いえ、主席……』

「そっちは大丈夫か」

『はい。問題ありません。主席こそ』

「わしの事は心配無用だ。それよりも絶対に誰も死なせるなよ」

『は、はい!』


 晶勇は無線機の向こうで敬礼をした。


「それから言っておく事がある。この声が聞こえている者は心して聴け。そして忘れるな」


 列車中の空気が変わった。


 翔一は表情を変えて言った。


「ここから先はお前たちに任せる。今からは全て晶勇ジョンウンの指示に従え」

『お、おじい、いえ、主席、それは……』


 翔一は晶勇を無視して無線を切った。


 順子は「あなた……何者?」と翔一の顔を見た。


 翔一はギクッとして、どう説明するか迷ったが、正直に白状することにした。


「……翔一です……。すみません。遅くなりましたが、助けてくれて、ありがとうございます」


 彼女は前方の一点を見つめて走り続けた。翔一は後ろを見たが、仮面の兵士たちはまだ追って来ない。


「先輩を探さないと」

「すずちゃんね」


 翔一は列車の下や線路脇の草むらに気を配りながら走った。隠れている人が何人かいたが、彼女はいない。


「楠田さんは、どこか安全な場所に隠れててください」

「指図はやめなさい。わたしは仕事中よ。真実を明らかにするっていうね」

「でも危険じゃ……」

「その辺のゴシップ記者とか御用記者と一緒にしないで。報道ひとつで世界は変わるのよ」


 翔一は「楠田さん、かっこいい」と思ったが、その一方で、自分が北朝鮮に密航したことも、自分が金月成キムウォルソンのフリをして世界を欺いた事も記事にされるんじゃないかと不安になった。


 だが、それは一瞬で、彼はすずの事が心配で、そんな事はすぐに忘れてしまった。




 すずは仰向けで目が覚めた。


 しばらく気を失っていたようだ。


 目の前は暗い。視界はぼやけて良く見えなかった。


(夢だった?……)


 動こうとすると、ズキンと、左腕や背中に痛みが走った。


(夢じゃない)


 目を凝らすと青い月が見えた。背の高い草が風に揺れている。遠くから声が聞こえて来る。何て言っているかは分からない。


 次第に目の焦点がはっきりしてくると、星空の下、一人の男が自分を見下ろしているのに気づいた。


 上半身、服がはだけた中年。


 顔には血の気がなく、眼球はギョロギョロと四方八方に動きながら長い涎を垂らし、好色そうに顔を歪めていた。


 桂慶大ケギョンデだ。もちろん、すずは彼の事は知らない。


 慶大は、すずが恐怖で引き攣った顔になると、嬉しそうにぶるぶると震えた。


 すずは声を出せなかった。


 人間の形をした人間ではない何かがいる。


 自分を守ってくれる人は誰もいない。


 彼女が少し後ずさりすると、慶大はすずに馬乗りになった。覗き見るように顔を近づけ、彼の涎がすずの胸元に落ちた。


 彼はすずの服を摘まむと小さく千切った。次に、スカートを摘まみ小さく千切る。


 彼はそれを繰り返した。


「や、やめて……、やめてください……」彼女は目に涙を浮かべて訴えた。


 彼は、それを見て嬉しそうな呻き声を上げ、まるで壊れたおもちゃのように、千切る行為を繰り返した。


 他の兵士と違い、攻撃性よりも異常な性欲が勝っているようだ。


 すずの未熟な肌が徐々に露わになっていった。




 列車から続々と自動小銃を装備した警備兵が降りて来る。外で倒れている者は手際よく列車内に運ばれ、応急処置を施された。


 翔一と順子は、大門が一人で必死に列車下を覗いては走っているのを見つけると、すずの行方を聞いた。


 大門は「すまん!」と言って頭を下げた。彼はすずが何者かに連れ去られたことを伝えた。


 翔一は「くそお!」と怒鳴った。


 大門と順子はビクッとした。


(オレだ! オレのせいだ! 先輩を部屋から連れ出したのも、敵に手加減をしてすぐに倒さなかったのも、オレだ! 全部、オレのせいだ! くそ! くそお!)


 翔一は列車の車体を殴りつけると、スチール製の鉄板には大きなクレーターのような凹みができた。


 大門と順子は口を開けて驚く。


(先輩は絶対に助ける! 死んでも助ける! もう手なんか抜くもんか! 先輩を傷つける奴は全員やっつけてやる!)


 翔一は真っ赤な顔をして周囲を睨み、そして何かに気づいたように眉を動かすと、突然、風のように姿をくらました。


 翔一のいた場所にはガチャリと無線機が落ちた。


「消えた……」


 大門と順子は呆然と辺りを見回した。




 彼女が下着姿になると、慶大は、我慢する事にエクスタシーを感じているのか、長い時間、彼女の乳白色の全身に指を這わせながら、その姿を舐めるように見ていた。


 彼の指が彼女のブラジャーのホックを摘まんだ。すずは胸を隠そうとするが、慶大は片手で彼女の両手を掴むと、彼女の頭の上に固定した。


「やめて、やめてください……」彼女は泣いて震える。


 ホックが外れ、彼女の胸が露わになろうとした時だった。


 慶大は首を捻じって宙を飛んだ。


 彼は遠くの鉄条網に一直線に突っ込むと雁字搦めになり、白目を剥いたまま死んだように動かなくなった。


 すずは恐る恐る目を開けた。


 目の前では、翔一が高く揚げた右足を、ゆっくりと下ろしている。


「翔くん!」


 すずの瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちてきた。


 翔一はすずの裸体を見ないようにして、背広を脱ぐと、それですずを包み込んだ。


「先輩、遅れてすみません」


 翔一がすずに顔を向ける前に、すずは彼にギュウッと抱きついて言った。


「良かった。生きてて良かった」


 翔一は彼女の肩を両手を添えた。


「先輩、まだ終わってません……」


 すずは翔一を見る。


「無事に終わったら、伝えたい事があります。しばらくこの近くに隠れていてくれませんか?」

「うん。翔くんが言うんなら……でも……今じゃだめ?」


 翔一は微笑んだ。


「今言うと……、その……死亡フラグになっちゃいますから」


 彼は立ち上がると、左腕にはめていた変身の腕輪をさすった。


 月の光が金色に反射していた。




 警備は次々に倒れていった。スタジアムでのカザルスの戦いを彷彿させる圧倒的なものだった。


 仮面の兵士の一人は列車の屋根の上を歩き、もう一人は列車の脇、バラストの上を歩く。小銃の弾はほとんど当たらない。当たってもダメージを与えられない。


 兵士は先頭車両へと進んで行く。被害を抑えようと、警備は距離を取りつつ彼らの足止めを計っていた。


 そんな時、少女の声が上がった。


「ここよ!」


 声は畑の方からだ。銃声が止む。


 戦闘中の兵士や警備たちは皆、声のする方に顔を向けた。


 畑の真ん中には、すずが立っていた。白いシャツを着ている。腰から下は生い茂る葉に隠れていた。


 彼女は、仮面の兵士に気づかれたことを確認すると、列車を背にして走った。


 仮面の兵士は猛烈な勢いで、それを追いかける。


 月の光に照らされた畑に、三つの直線が引かれて行った。


 戦っていた警備たちは何が起こったのか理解できず止まっていたが、日本の少女が、自分を囮にして皆を助けようとしているのだと思うと、次々に声を上げた。


「何してる! 彼女を助けろ!」

「守れ!」


 警備たちは彼らを追って走る。畑に身を潜めていたもの、反対側から車両の下をくぐって追いかけるもの、その数は二十を超えていた。



 その頃、晶勇は防弾車輌の中で、側近たちに「とくに外人の死者を絶対に出すな」と指示を出していた。


(もしあの日本人少女、あるいは大臣、政府関係者が死んだら、おじい様の努力が水の泡だ。また悪の枢軸とかテロ国家といった烙印を押されてしまう……。平和的に祖国統一を目指す夢が……)


 晶勇は冷や汗をかきながら祈るように窓の外を見つめていた。




 仮面の兵士二人はすずを追っていたが、広大な畑の中で彼女を見失っていた。


 彼らは、物音、風の音に耳をすませながら、お互いの死角を補い合うように静かに歩く。


 時々、白いシャツを着た少女が草の間に現れる。兵士たちが走り寄ると、そこにはもう彼女はいない。


 草の中から警備兵が現われて発砲する。が、仮面の兵士は難なくその弾を避けると、すばやく間を詰めてナイフを突き立てた。


 列車の屋根に伏せた狙撃手が遠距離射撃をしたが、仮面の男たちは平然とその弾丸を躱し、躱しざまにナイフを投げる。ナイフは月の光を反射させながら数百メートル飛び、狙撃手の耳を抉った。


 一人また一人と警備は倒れて行った。


 仮面の兵士の一人が草陰に潜む白いシャツに気づいた。二人は無言で示し合わせ、それを挟むようにして静かに近づいた。


 その時だった。


 鈍い音をたて、仮面の一人が弾けたように飛んだ。


 Tシャツと黒ズボン姿のすずが、草の中から身を現すと、目にもとまらぬ速さで空中の兵士に正拳突きを繰り出した。


 ボギボギボギボギボギボギ!


 骨の折れる音が響く。


 兵士は、仮面のすき間から血を吹き出して、地面へと落ちた。


 仮面が砕けると兵士の顔が露わになった。色黒で彫りの深い顔つき。黒い豊かな髭を生やしている。


 すずはそれを見ると、手首を振りながら、首を傾げた。


 どう見ても東アジア系の顔ではない。


 もう一人の仮面の兵士が歩み寄って来る。


 すずが、再び、草の中に隠れようとした時だった。


「待テ」


 兵士が初めて口を開いた。


 深く暗い声。カタコトの朝鮮語だ。


 すずはいつでも逃げられる態勢で振り返った。


「お前ハ何者ダ」

「何者だってどういう事だ。いや……事よ」

「ナゼ命を狙われテイル」

「あなたたちが狙っているんでしょ」


 男は少し月を見上げ、また、すずに顔を向けた。すずは臨戦態勢のまま、左腕の腕輪がずり下がっていたので、それをはめ直した。


「先ホドの少年とは兄弟カ?」

「違う」

「お前もコンタギオ様の子カ?」

「コンタギオ!?」


 すずは思わず声を大きくした。カザルスはその魔人を追って、この世界にやって来たのだ。


「知っているノカ」


 彼女はどうするべきか迷った。この兵士は魔人なのだ。


 カザルスは出会ったらすぐに逃げるように何度も念を押した。戦って勝てる相手ではない。


 先ほど殺すつもりで殴った兵士は全身の骨が折れているにも拘らず、むくりと起き上がりはじめていた。


 このまま攻撃を加えながら逃げ、少しでも列車から遠ざかろうと思っていたが、カザルスのためにコンタギオの情報を引き出した方が良いのだろうか。


 余裕なんてない。


 が、チャンスだった。


 相手が話しかけてきている。巨龍の干し肉によって手に入れた超人的な力を見て、自分をコンタギオの子だと勘違いしているのかもしれない。


 すずは慎重に口を開いた。


「あなたこそコンタギオ様の何?」


 それを聞いて仮面の兵士は身を乗り出し、すずは一歩下がった。


「ティリエル」

「ティリエル……」

「お前ハ?」

「わたし……」


 すずは思案した。


 ティリエルは名前だろうか、それとも合言葉のようなものだろか。


「コンタギオ様はどこ?」

「知らヌ。で、お前ハ?」


 すずは焦った。間違った受け答えをした時点で会話は終わってしまい情報を引き出せない。


(さっき「お前も……」と言ったから、この人はコンタギオの子供、つまりカザルスさんが24エクエスと言っていた魔人だ。もし、仲間だと思わせれば……)


「わたしは……エクエス?……」

「エクエス!」


 仮面の兵士が初めて声を高くした時、彼を取り囲むようにして警備兵が立ち上がって発砲した。が、兵士は蜃気楼のように姿を消し、次の瞬間には警備は全員腹を撃たれ、その場に崩れ落ちた。


 兵士は何事もなかったかのように話を続けた。


「エクエスの誰だ」

「え、誰?……」


 仮面の兵士の威圧感が膨らむ。すずは冷や汗をかいた。


「お前モ潜伏していたのではナイカ?」

「え……、ええ。そう……です」

「真名を明かせナイ命令でも受けているノカ?」

「え、そうだ! そうよ!」


 すずがコクコクと首肯すると、兵士はすずにゆっくり近づいた。


「まあイイ。確かめればイイことダ」


 そう言うと、彼は仮面を外した。黒髭の中東系の顔が現われる。


 彼はすずの前に立った。


 すずは少しずつ後ろに下がりながら「何するの?」言うと、男は歯を剥き、すずの首元に噛みつこうとした。


 すずは素早く後ろに跳んで避けようとした。


 が、同時に、すずは、全身骨折していたはずの兵士に後ろから羽交い絞めにされた。


(しまった! いつの間に!)


 後悔する間もなく、首を噛まれ、激痛が走った。


 兵士はすずの血を吸い、そして体内に何かを流し込んできた。


 意識が遠のき、視界が暗くなる。


 彼女はその場に崩れ落ち、動かなくなった。




 兵士は苦虫を嚙み潰したような顔をすると、ペッと血を吐き出した。


「不味い……、違ウ……。仲間ではナイ……」


 彼は地面に横たわるすずを見下ろすと、目を見開いた。


 すずの身体が仄かに光り、体表面がオセロの駒をひっくり返すように変化する。彼女は翔一へと姿を変えた。白目を剥き、血の気を失っている。


「これは何デス?」


 全身骨折の兵士が聞いた。彼の身体はうねうねと脈打ち、損傷を修復しているようだ。次第に姿勢が安定してくる。


「知らヌ……。言えることハ、仕事はまだ終わってナイ。それダケダ」

「彼ハ適合するでショウカ」

「すれバ、最強のシモベとなるダロウ」


 そう言って、二人は仮面を被り直すと、列車へ戻ろうと、畑の中を歩いて行った。




 すずは桂慶大ケギョンデに襲われた場所から離れ、ひとり草叢に身を潜めていた。


 彼女は、虫の知らせを感じた。


 不安感に襲われ、翔一の走り去った方角を見つめた。


(翔くん……)


 彼女は両手を握り合わせ、彼の無事を祈り続けた。

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