第57話 憲法

 日本。首相官邸。


 官房長官や大臣たちが、テレビの前のソファーに鎮座し、日朝首脳会談の生中継を見ていた。


「まったく、交渉の場を生中継とは、前代未聞ですな」水井が言う。

「でもないです」下川が面倒くさそうに答えた。「問題は、その公の場で法外な要求をされた時ですね」


 須田は忌々しそうに言った。


「その時はその時だ。最悪、拉致被害者が返還されなくても、北朝鮮を糾弾して国際社会から締め出してやる」

「日本国民を救うのが我々の仕事です」尾道防衛大臣は毅然として言った。「しかし、何らかの条約締結を迫られでもしたら厄介ですな」

「ですが、もし国交正常化したら、その経済効果は計り知れませんよ」経済産業大臣の瀬古。


 須田は、そんなことをしたら現政権も民主党のように潰されるのが分かってないのかと思い、テレビに顔を向けたまま、苦虫を嚙み潰したような顔をした。


「条約の締結だと、憲法に照らし合わせた上、国会で批准される必要がありますから、総理がその場で判断を迷われることはないでしょう。前向きに善処すると口約束をして、先に被害者を返してもらうのが賢明かしら」と下川が言った。


「お、そろそろ始まりそうだ」野球観戦のノリの水井。


 大臣たちは思い思いに話す。


「山野さんは、今頃ワシントンで根回し中ですかね」

「いや、この時間、さすがに中継を見てるでしょ」


 須田が「静かに」と皆を黙らせた。




 北京。


 各国の首脳が席についた。事前協議で提出された条文を確認し、意見を交換していた。


 矢部は、あとは被害者の返還方法などについて話し合い、調印して終わりだ、会談は二日も必要なかったな、と思った時だった。


 金月成キムウォルソンが口を開いた。


「作成に時間がかかり、ここで始めてお目にかけるもので、まことに申し訳ありませんが……」


 矢部は「何でしょう」と答えた。北朝鮮の事務官が後ろから書類を配り始める。相手が謝罪をしたので、会談が始まる前のような警戒感はあまりなく、純粋な興味を持って、二枚の書類に目を通した。一方はハングル。もう一方は日本語で作成されていた。


「日本と、この約束を交わしたいと思っています」月成は丁寧に言った。


 矢部と大臣たちの目は書類に釘付けになった。習禁屏シージンピンはそれを見て、目の隅で笑った。




 その書類は報道席に居並ぶジャーナリストたちにも配られた。会場がひかえめにざわつく。管理官の厳しい目が光っているので、誰も大きな声はたてられない。


 順子は、二枚の書類を並べて読んだ。ハングルと日本語。交互に読み返す。それは日本語を完璧に翻訳した条文だった。


 順子の隣では、佐々木が「こりゃ、まいった」と平手で自分の頭を嬉しそうに叩いている。順子は、意味が分からないので、助けを求めるように、佐々木に顔を向けた。




「何だ! あれは、カメラ、早く写せ。内調は何してる。ファックスはまだ届かんのか」


 須田は椅子から跳ね起きて喚き散らした。古谷は部下が走って持って来たプリント用紙をひったくり、須田に差し出した。須田はそれを見て怒鳴った。


「ナンだこれは! いったいナニを考えとる!」


 彼は、それを隣の下川に渡すと、困惑した表情で、再びテレビを凝視する。大臣たちはぞろぞろと下川のまわりに集まり、その紙を覗き見た。




 平壌。


 警備隊大隊長室の扉がノックされた。桂慶大ケギョンデは、あからさまに嫌な顔をして、焼酒ソジュのグラスをテーブルに置いた。ソファーには、軍服をはだけ涙をうかべた女性隊員が毛布にくるまっていた。


 クーデターのあと、政府は貧しい人に食料や生活必需品、金銭の配給をはじめていた。財源は、特権階級が不正に蓄えていたものだ。不正した者が罰せられることは無かったが、政府は軍の縮小も計画しているらしい。


 慶大ギョンデのような中間特権階級には、それが面白くない。


 クーデターの時、命を救われた高官たちと違い、慶大は突然現れた金月成キムウォルソンに、何の恩義も感じていない。ただ利益を奪われただけだ。玩ぼうと企んだ日本の少女も、月成に奪われてしまった。


 しかし最高エリートの独立戦闘旅団ですら、月成の護衛ひとりに敵わなかった。泣き寝入りするしかない。そうして慶大は、酒と女で憂さを晴らす日々を送っていた。


「何だ」と慶大は服のボタンを留めながら言った。

「オキャクサマデス」林英宣リムヨンソン補佐官の声が扉の向こうから聞こえた。


 慶大は訝しみ、「誰だ」と言いながら扉に近づいた。


 扉の向こうから英宣ヨンソンが「オナマエハ」と尋ねている声が聞こえる。こいつ、誰かも分からん奴をここまで通したのか、と慶大は怒りを通り越して呆れた。同時に、この抑揚のない声は何だ、と疑問に思った。


「ティリエルサマデス」


 慶大は「ティリエル?」と思い当たる節もなく、とりあえず扉を開けてみた。


 そこには埴輪のような表情をした英宣が立っている。その後ろから、一人の外国人がぬっと顔を出した。黒い豊かな髭。中東系の人種らしい。


 慶大が、新顔の武器商人だろうか、と思った時だった。


 慶大は、突然、男に首根っこを摑まれ、隊長室の奥までまっすぐに押し入られた。そのままドンと音をたて壁に押し付けられ、彼の足は宙に浮いた。片手なのに万力のような力。もがき暴れようとしたが逃れられない。女性隊員はそれを見て、恐怖におののき、乱れた服のまま部屋から飛び出して行った。


 男は深い静かな声で尋ねた。


「聞きたい事がアル」


 男の墨池のような目には、何の感情も見えない。慶大は震え、目に涙を浮かべた。そして首を小さく何度も縦に動かした。




 北京。


 矢部は、書類を精読したいと断り、会談は一旦休憩となった。日中の首脳たちはおのおのの控室へと足を向けた。


 休憩の間、報道陣は一斉に会場を出入りしはじめる。またそこかしこで打ち合わせを行い、会場内はガヤガヤとざわついた。


 特に急いで本社に連絡するものはない。順子は、再開を待つ間、佐々木に「あの、これ、どういう意味ですか」と尋ねた。佐々木は楽しそうに彼女を見て言った。


「そのまんまじゃないか。あれ? 楠田ちゃん、日本語読めなかったっけ?」


 順子は、「佐々木、いつか殺す」と思いながら、場所が場所なので、彼を睨むだけにとどめた。そして、もう一度配られたプリントを見た。そこにはこう記されている。



日本国民、および朝鮮民主主義人民共和国人民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



何人も、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

全て日本国民、および朝鮮民主主義人民共和国人民は、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を有する



 順子は、だから何? 何で、ここで日本国憲法の第九条が出てくるのよ、それから、その後ろの条文は何だっけ? と疑問に思った。




 そのころ、日本国の控室では、矢部と大臣たちが議論を繰り広げていた。

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