第56話 日米合同委員会

「ええ。この3以外何もありません」


 閣僚がそろった首相官邸。山野外務大臣は矢部に答えた。


「はい。もっとも、あちらも会談準備が現在進行形のようで、その場で新たな案が提出されるかもしれませんが」


 須田官房長官は「莫大な身代金を要求するつもりなんだろう」と吐き捨てるように言った。


「いくら何でも、各国のメディアが集まる中、そんな馬鹿げたことはしないでしょう」と山野。

「テロ国家は何をするか分かったもんじゃない。結局カネと……」

「可能性はゼロではないですね」と矢部は落ち着いて言った。

「準備だけはしておいた方がいいかもしれません」山野は答える。


 須田は机をバンッと叩いて、「何を言っているんだ! テロに屈してどうする! 逆にこっちが賠償を求めるのが筋ってもんだろ」と喚いた。


「そんなことしたら、被害者の返還が叶わなくなるじゃありませんか!」と山野。

「北の犯罪を世界に知らしめて、慰謝料をふんだくらなきゃ、被害者の家族が納得せん!」


 山野は「それはそうですが」と言おうとしたが、須田が「何より、日本のメンツが立たん」と言うので、山野は、なんだ結局それか、と思った。


「日本から賠償金を要求すればどうなりますか」矢部が聞いた。

「被害者の返還は立ち消えになると推測できますが、おそらく、あちらは日韓併合から徴用工問題、慰安婦問題などを持ち出し、それらが世界に広く知られると、日本の国際的立場が悪化すると思います」

「七十年以上前に終わったことだ」須田は忌々しそうに言う。

「七十年以上もたって、いまだに何にもわだかまりを解決できていないことが問題じゃないですか。ドイツはとっくに和解しているんですよ」


 山野が言うと、水井が須田を意識して口をはさんだ。


「日韓併合は大韓帝国の要望で行ったのでは? それに2015年には日韓合意を取り付けていましたな」


 下川法務大臣はあきれたように、「日本は北朝鮮を国家として認めていません。日米が朝鮮半島で正式に認めるのは唯一、大韓民国だけです。そもそも韓国が相手ではありませんから合意は関係ありません」と言った。


「あいつらは、我が国の初代総理大臣を暗殺した国だ」と須田。


 山野はため息をついた。その犯人は明治天皇の詔を無視して強引に併合をすすめる日本政府の政策を止めようとした忠臣であるという見方もあると口にしようとしたが、それは止めておいた。もっとも、韓国総監に就いた伊藤博交は、日韓併合に反対だったため、暗殺は大失敗だったと言って良いのだが。


「話を戻しましょう」と矢部。彼は報告書を見て言った。


「この1と2は無論ですが、この3の条文。日本および朝鮮は、拉致被害者、およびその家族、関係者の日本と朝鮮間の自由な渡航を保証する。というのはどういう意味でしょうか」

「あちらの担当者は、被害者とその家族が、会いたい人に再び会うことが出来るようにするための条文だと説明していました」と山野。


「ちっ」と須田は舌打ちした。


「あいつらがそんなお優しいことを考えるわけない。新たなスパイを送り込むと同時に、日本に封じ込められた資産を動かすのが目的だ」

「しかし、その程度のことで被害者が返還されるのなら安いものじゃありませんかね」


 麻原財務大臣がニヤリと頬を引きつらせると、閣僚たちは「まあ、たしかに」と首肯した。


「経済制裁の解除を求められたらいかがしますか。当然、解除してよろしいですね」


 下川が言うと、矢部は両手を組み、眉間にしわをよせた。


「拉致事件が解決すれば独自制裁を継続する理由がなくなりますが……」

「日米合同委員会の意向ですか?」


 矢部は、大門に答えず、しばらく黙っていた。




 矢部は思った。隣の中国では、憲法の上に共産党が存在する。そんなものは法治国家ではないと言う人間もいるが、日本はどうか。


 太平洋戦争で降伏し、アメリカのGHQによって作られたのが日本国憲法だった。


「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と定められている。


 が、朝鮮戦争が勃発したため、公布された1946年から四年後には警察予備隊が編成され、早くも矛盾が生じた。1952年には安全保障条約が結ばれ、米軍による実質的な植民地政策が継続されることになった。


 米軍は、陸海空問わず日本のどこへでも、日本の法律にしばられることなく軍を配置することができる。それは占領中から現在まで変わることはない。治外法権があるので、米兵による犯罪は、基本的に日本側で裁くことができない。出入国も自由だ。


 もっとも厄介なのが、アメリカの軍人と日本の高級官僚によって組織された日米合同委員会だった。そこで決定された事項は、実行される。


 矢部は怒りが込み上げてきた。組んだ両手に少しだけ力が入る。


 文民統制? シビリアンコントロール? 戦前は軍部に支配されていたが、戦後もまた軍部に支配され続けている。それも、こんどは他国の軍隊にだ。異常だ。最悪も甚だしい。そんな国は、世界のどこを見ても、日本以外ない。


 北方領土問題だってそうだ。合同委員会から「返還された島に米軍基地を置かないというような約束をしてはならない」という制限を課せられなければ、とっくに島は返還され、ロシアと平和条約を結べているのだ。


 こんな状況を現憲法はなにも解決できない。1959年だ。砂川裁判によって、日米安保条約が憲法より上位にあると判決が出たのだ。


 日本は軍隊を持たない? 自衛隊と名づけられたれっきとした国防軍を持つ。平和憲法を誇らしげに自慢する日本人は、海外の国々が憲法と矛盾した日本の状況に不信感をもっているのに気付いているのだろうか。


 万が一、戦争が起きた時はどうなるか? 自衛隊は内閣総理大臣の指揮下のもと戦うのではない。防衛大臣でも天皇でもない。


 憲法では、日本は戦力、自衛隊を保持していない事になっている。自衛隊法では指揮監督権は総理大臣にあるが、戦争が勃発したら、自衛隊は、吉田の結んだ指揮権密約により、瞬時に、米軍の指揮下に入る。世界中で紛争を引き起こしている米軍の下だ。


 狂っている……。


 矢部はそう感じていた。


 日本は独立しなければならない。アメリカ合衆国からではない。アメリカの軍隊からだ。日本の元首はアメリカの太平洋司令官ではないのだ。


 解決策のひとつは新安保条約・第三条だ。「武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定にしたがう」とある。今の日本の問題は、憲法にのが一端だ。それゆえ米軍は無制限に好き勝手できる。


 われわれは、一刻もはやく憲法改正を行い、規定を設け、そして天皇陛下を元首にすえ、日本の主権を取り戻す必要がある。


 憲法の矛盾を解消するとともに、草案に、真の意味に気づかないような条文をもぐり込ませねばならない。「すべての国民」とひとくくりにし、高級官僚たちに、米軍ではなく、日本の憲法を尊重させる。


 そして、それと並行し、サランプ大統領と密かに安保条約および地位協定の改正を進めていくのだ。


 日本主権の国造りのためには、官僚と米軍に、真意を悟られてはいけない。それまで彼らの機嫌を損なわないように、忠実な傀儡を演じる必要がある。やりたくもないのに北朝鮮に圧力をかけてきたのもそのためだ。


 面従腹背? いくらでも笑え。


 自民党を結成し、密約だらけの日米同盟を結び、日本を米軍に完全に隷属させた祖父、岸紳助。その負の遺産は、わたしの代で清算する。


 北朝鮮の問題は非常にデリケートだ。朝鮮戦争が終結すれば、米軍は日本に布陣することで生まれる莫大な利権と存在意義を失う。彼らがどのような手段でそれを阻止しようとするか……、考えるだけでも恐ろしい。


 日米合同委員会だけではない。国民の支持を失えば、選挙で勝つことができない。政治家にとって難しい綱渡りだ。米軍と日本国民。両者の間にウィンウィンはない。


 下手したら民主党の鷹山の二の舞だ。もし仮に、会談が失敗に終わった場合、北朝鮮が100%悪いように、どのように世論操作するべきか……。



 そこまで考え、矢部は腕を解き、閣僚たちに視線を向けた。


「まず会ってみないことには始まりません。金月成キムウォルソンを名乗る人物が信用に足る人物か、そこを見極めてからにしましょう」


 そう言うと、各大臣たちは「それがいい、そうしましょう」と判断を先延ばしにできたことにほっとした。そのとき水井が笑顔で言った。


「これが成功すれば、支持率も、来年の選挙も安泰ですな!」


 閣僚たちは冷ややかな視線を水井に向けた。




 話は戻り、北京。


 首脳会談の広間に入って来た金月成キムウォルソンは、矢部に右手を差し出した。会場がどよめく。


 矢部は、彼は何を考えているのかと警戒した。まだ何の合意も取り付けていない。相手は日本国民を拉致した犯罪国家の代表だ。下手に好意的な態度をすれば、わが国民から非難され、米軍から睨まれる。かと言って握手を拒めば、交渉が決裂する可能性もある。


 矢部がどうするべきか逡巡すると、月成は手を引っ込めた。


 何をするのかと思いきや、月成は、突然、頭を下げた。それは美しい最敬礼だった。


「このたびは、申し訳ございませんでした」


 流暢な日本語だった。矢部や大門麻原大臣たちだけでなく、習禁屏シージンピン高官たち、報道関係者、その場にいたものは全員、目を丸くした。月成の斜め後ろに立つ金晶勇キムジョンウンも呆然としていたが、我に返ると、一歩前に出て祖父と同じように頭をさげた。


 驚きのあまり、静まり返った会場だったが、報道陣はあわててシャッターをきりだす。衝撃の光景は、瞬く間に全世界に伝わった。それだけで株価が大きく変動した。


 三柱町の集会所では、集まる人はみな目を輝かせた。秀樹を尾行していた、目つきの鋭い公安捜査員も、さすがに秀樹から目を離し、皿のような目をしてテレビに喰いついた。


「総理……」大門がささやく。


 矢部は状況を呑みむと同時に、胸をなでおろした。向こう側が謝罪をしているのだ。泣きたくなったが、さすがにそれは我慢した。北朝鮮が日本に頭を下げている。この絵はこの瞬間、世界に届いている。謝罪の気持ちがあるのなら、無茶な要求はない。この会談はぜったいに上手くいく。それも日本が有利に事を進められる。


 矢部だけなく、その場にいる誰もが、そう感じていた。

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